染井霊園(11)ー安岡正篤先生の墓

嘉穂のフーケモン

2011年05月08日 15:13


 
 安岡家の墓

 (旧暦 4月6日)

 昨今の自由民主党の凋落ぶりには目を覆うものがありますが、同党の派閥の一つである「宏池会」は、創設者の池田勇人(第58・59・60代内閣総理大臣、1899〜1965)以来、大平正芳(第68・69代内閣総理大臣、1910〜1980)、鈴木善幸(第70代内閣総理大臣、1911〜2004)、宮沢喜一(第78代内閣総理大臣、1919〜2007)と4人の総理・総裁を輩出し、自他共に保守本流の名門派閥と見なされてきました。
 
 この「宏池会」という名前は、後漢の儒学者馬融(Mǎ Róng、79〜166)の著した一文、「高光の榭(うてな)に休息し、以て宏池に臨む」『広成頌』から、陽明学者安岡正篤(まさひろ、1898〜1983)が命名したものであるとされています

 棲遟乎昭明之觀、休息乎高光之榭、以臨乎宏池。鎮以瑤臺、純以金堤、樹以蒱柳、被以綠莎、瀇瀁沆漭、錯紾槃委、天地虹洞、固無端涯、大明生東、月朔西陂。
 『後漢書/列傳/卷六十上 馬融列傳第五十上』


 安岡正篤(1898〜1981)は東洋哲学や陽明学の思想的指導者として、戦前は「金鶏学院」や「日本農士学校」を設立し、伝統的な日本主義を掲げて幅広い教育、啓蒙活動を行い、軍部や官界、財界にもその支持者を広げて行きました。戦時中には大東亜省(大日本帝国の委任統治領であった地域及び大東亜戦争に於いて占領した地域を統治するために置かれた省、昭和17年11月1日〜昭和20年8月)顧問として外交政策などにも関わっています。
 戦後は師友会を設立して、その東洋思想に基づく帝王学、指導者論などの著作や講演により「一世の師表」「天下の木鐸」と仰がれ、国家・社会の指導者層の精神的柱石、政・官・財界の指南役として重きをなし、またその出処進退の哲学などにより、「歴代総理の指南番」とも称されていました。

 安岡正篤とその教学は、昭和精神史を主導した中核的存在として位置づけられ、今後も多くの人びとの心の支えとして学び続けられるのではないかとも評されています。

  俳聖芭蕉(1644〜1694)は、古人先賢に学ぶことの大切さとその学ぶ姿勢について、南山大師(空海)の「書も亦古意に擬するを以て善と為す。古迹に似るを以て巧と為さず。」『遍照発揮性霊集』との詩文を引用して、その歌論を『許六離別の詞(柴門ノ辞)』に残していますが、安岡正篤の古人先賢に学ぶ姿勢も亦、古聖・先賢の「もとめたる所をもとめよ」という姿勢を貫いています。

 芭蕉は、最晩年の弟子である江州彦根藩士森川許六(1656〜1715)の彦根帰参にあたり、離別の詞として書き送った『許六離別の詞(柴門ノ辞)』の中で、許六の槍術・剣術・馬術・書道・絵画・俳諧の6芸に通じた才能に並々ならぬ敬意を表しながらも、自己の歌論を述べ、俳諧文芸の神髄を語っています。

 

 許六離別の詞(柴門ノ辞)

 去年(こぞ)の秋、かりそめに面(おもて)をあはせ、ことし五月の初、深切に別れをおしむ。其のわかれにのぞみて、ひとひ草扉(そうひ)をたたいて、終日(ひねもす)閑談をなす。
 其の器(うつはもの)、画を好(このみ)、風雅を愛す。予、こころみにとふ事有。「画は何の為好(このむ)や」、「風雅の為好(このむ)」といへり。「風雅は何為愛すや」、「画の為愛(あいす)」といへり。其まなぶ事二にして、用をなす事一なり。まことや、「君子は多能を恥」と云れば、品ふたつにして用一なる事、可感(かんずべき)にや。画はとつて予が師とし、風雅はをしへて予が弟子となす。
 されども、師が画は精神微に入、筆端妙(たんみょう)をふるふ。其幽遠なる所、予が見る所にあらず。予が風雅は夏炉冬扇(かろとうせん)のごとし。衆にさかひて用(もちい)る所なし。ただ釈阿・西行のことばのみ、かりそめに云ちらされしあだなるたはぶれごとも、あはれなる所多し。後鳥羽上皇のかかせ給ひしものにも、「これらは歌に実(まこと)ありて、しかも悲しびをそふる」とのたまひ侍しとかや。
 されば、この御ことばを力として、其細き一筋をたどりうしなふ事なかれ。猶(なほ)「古人の跡をもとめず、古人の求めたる所をもとめよ」と、南山大師の筆の道にも見えたり。風雅も又これに同じと云て、燈(ともしび)をかかげて、柴門(さいもん)の外に送りてわかるるのみ。
 
 元禄六孟夏末     風羅坊芭蕉
 安岡正篤は明治31年(1898)2月13日、大阪市順慶町(中央区南船場)に堀田喜一・蓮子夫妻の四男として生まれ、大正5年(1916)、大阪府立四条畷中学から無試験で第一高等学校第一部乙類(独法)に推薦入学しています。

 ちなみに、明治33年(1900)に行われた高等学校大学予科の学科課程の改正により、大学予科は法科大学および文科大学の志望者を第一部に、工科大学・理科大学・農科大学の志望者は第二部に、医科大学の志望者は第三部に入学させて、それぞれに大学の分科に応じた予備教育を施すこととなりました。
 第一高等学校ではこの学科課程の改正を受けて、明治35年(1902)から下記のような改正を行っています。

 1. 一部(文科)
  • 甲類(英法、英政治、英文)     英語を第一外国語とする
  • 乙類(独法、独文)        ドイツ語を第一外国語とする
  • 丙類(仏法、仏文)        フランス語を第一外国語とする
 2. 二部甲類(工科)
 3. 二部乙類(理科、農科、薬科)
 4. 三部(医科)

 安岡正篤は一高に入学するときに土佐出身の安岡家の養子となり、東大法学部政治学科を卒業する大正11年(1922)に『王陽明研究』を執筆して出版、2年後の大正13年(1924)には『日本精神の研究』を出版して、早くも20代にして思想家としての声望を確立しています。

 安岡正篤の『日本精神の研究』が当時注目され、また世間の耳目を驚かせたのは、その巻末の「跋二題」にあったとされています。

 大正11年(1922)、大学卒業後文部省に入省するも半年で辞し、在野の一青年であった安岡が執筆したこの著作に、第2次大隈内閣で海軍大臣(1914〜1915)を務めた海軍の長老八代六郎大将(1860〜1930、海兵8期)と国家主義運動の思想的指導者として猶存社に参画して国家改造をリードさせようとした大川周明(1886〜1957)の両者から、絶賛の跋文が寄せられていたことにありました。

 その「跋二題」に共通することは、「日本精神」という天皇を中心とした政体(統治形態・政治形態・政治体制)である国体や民族精神の究明・高揚がなされている事への評価でした。

 昭和18年(1943)、安岡は昭和13年の暮れから昭和14年にかけての半年間の世界一周旅行の印象を『世界の旅』という本にまとめ、当時の東条内閣の厳しい検閲をかいくぐって出版しました。
 安岡は、そのなかでヒトラーについて次のように書いています。

「ヒットラーが久しく提唱し来つた一民族一国家一総統 ”Ein Volk, Ein Staat, Ein Führer”主義を彼は茲に破棄して、チェック民族(チェコ民族)を併合したのである。彼はチェック民族とドイツ民族と不可分の関係を論じてゐるが、それは弁解で、彼が従来の主義を破ったことは何としても否めない。周辺の小国は俄然として色めきたち、英仏は極度に緊張し、遂に欧州大乱は決定的となつた。是れヒットラーとして止むに止まれぬ方策であつたらうが、他に更に執るべき策—否—道が無かつたであらうか。私はヒットラーの挙は驚嘆すべきものではあるが、彼の為に上策ではなかつたと思ふ」

 この本を読んで、東条首相がクレームをつけてきました。
安岡はヒトラーだけではなく、東条を始めとする日本の陸軍の指導層にも好感を持っていなかったと云います。
 ヒトラーと同じく、「憑きものの状態」で熱に浮かされたように狂気の戦争にのめり込んでいく者達へは、露骨に不快感を示しています。
 昭和17年1月の『東洋思想研究』第二十八号には、次のように書いています。

 「今次、英米との開戦劈頭の戦勝に現れた国民の態度の中には、平生の涵養の乏しきを思はせるものあり、其処に学徒として大いに反省の要がある。もう少し沈着で剛毅でありたいと願はれる。英米もよくよく内部的に頽廃してゐれば格別、三箇月、四箇月経つに従つて、段々威力ある反撃を現はすかも知れぬ」と。

 安岡家の墓は、染井霊園の一種ロ6号15号側にひっそりと佇んでいます。

 
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