染井霊園(5)−若槻家のお墓

嘉穂のフーケモン

2005年03月21日 19:55

 

 (旧暦  2月12日) 和泉式部忌

 若槻禮次郎(1866〜1949)といえば、第25代および第28代の内閣総理大臣として、昭和初期の金融恐慌への対応や緊縮財政政策、金本位制の維持を図った人ですが、同じ染井霊園にある幣原喜重郎(1872〜1951)の墓所に比べると、狭くてそこらの庶民のお墓と余り変わらない簡素さだったので、ちょっと気にかかりました。

 昭和2年(1927)3月14日、震災手形善後処理法案(来る9月30日が期日となる震災手形を10年間繰り延べる法案)審議中の衆議院予算委員会で、片岡直温(なおはる)(1859〜1934)蔵相は、野党立憲政友会吉植庄一郎代議士の執拗な追及を受けます。

 この法案はあくまで金融界の安定を図るのが目的であるという片岡蔵相に対し、
 「(震災手形未決済額)2億700万円の中に、鈴木商店、其関係のものがどれだけの震災手形を出して居るかと云うことを明らかにすることは、端的に本問題を国民の疑いの眼より明らさまにする一番の近道である・・・・」と追求して、「台湾銀行などの所有する震災手形の金額を示せ」と迫ります。
 さらに、「破綻した銀行はすべて救済するのか」と吉植は質問します。
 「斯う云ふ銀行界の破綻の生じた場合には、総て政府が斯様な態度を執ってなすべきものであるかどうか、斯う云うことを明らかに御答えを得て置きたいと思ふのであります・・・・」
 
 片岡蔵相は、「破綻した銀行を引き受けてくれる者を見つけなければ救済のしようがない」と述べた後、「・・・現に今日正午頃に於いて渡辺銀行が到頭破綻を致しました・・・・」との問題発言をしてしまいます。

 この失言に端を発した金融恐慌は、第一次若槻禮次郎内閣の30日間モラトリアム(支払猶予)で収拾しましたが、金融恐慌収束後、台湾銀行救済緊急勅令案が、穏健外交を政策に掲げる憲政会(若槻内閣は憲政会の内閣)に反発する元老院で否決され、第一次若槻禮次郎内閣は昭和2年(1927 )4月20日に総辞職してしまいます。

  

 さらには、昭和6年(1931)4月14日に成立した第二次若槻礼禮郎内閣では、板垣征四郎、石原莞爾ら関東軍首脳による陰謀により、9月18日、奉天(現在の中国遼寧省瀋陽)北方約7.5kmの柳条湖の南満州鉄道が爆破され、満州事変が惹起されました。

 「不拡大方針」を執った若槻内閣は、関東軍からは統帥権干犯だと突っぱねられ、国民、及び陸軍に見放され、ついには安達謙蔵内相が「挙国一致」を訴えたたため、閣僚にも見放された状態で、同年12月13日、閣内不一致で総辞職となってしまします。

 これにより「軍が既成事実を積み上げれば、政府の方針が覆る」という見解が陸軍部内で生まれ、後の陸軍軍部暴走へとつながり、日本は軍国時代へと突き進んでゆくこととなります。

 まったくやるせない歴史ですね。
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