染井霊園(7)−松浦詮(あきら)の墓

嘉穂のフーケモン

2005年06月05日 23:13

 

 (旧暦  4月29日)

 染井霊園の一角に、周囲を塀で囲まれ木々が鬱蒼と茂っているところがあります。
 ここは、肥前平戸6万1千石松浦(まつら)家の墓所です。めずらしい苔むした石の土饅頭型の墓石は、松浦家第37代当主松浦詮(あきら)(1840〜1908)の墓石です。

 松浦家は江戸大名の中でも屈指の古い家柄で、始祖は桓武天皇の皇子で、能書家として弘法大師、橘逸勢とともに「三筆」の1人として数えられ、また勅撰漢詩集『凌雲集』、『文華秀麗集』を編纂せしめたことでも知られる第52代嵯峨天皇(786〜842、在位809〜823)の第18皇子融(とほる)とされています。
 
 融(とほる)(822〜895)は、源氏姓と家紋の三星を賜い臣籍に降下して、後に河原左大臣と呼ばれ、『源氏物語』の光源氏のモデルとされています。
 
 貞観6年(864)陸奥・出羽の按察使(あぜちし)として多賀城に赴任しますが、遙任(かたちだけで実際に赴任していない)であったのではないかとも言われていますが、
 
 陸奥(みちのく)のしのぶもぢずり誰(たれ)ゆゑに みだれむと思ふ我ならなくに  (古今集巻十四(恋四) 「題しらず 河原左大臣」 724)

 という、小倉百人一首(14)にも載っている歌を詠んでいます。
 

 5代綱は摂津国渡辺に住し、渡辺綱(953〜1025)と名乗り源頼光の四天王の一人として大江山の酒呑童子退治や、京都の一条戻り橋の上で羅生門の鬼の腕を、源氏の名刀「髭切りの太刀」で切り落とした逸話で有名です。
 
 8代源久は延久元年(1069)、肥前松浦郡宇野御厨の検校となり、上・下松浦郡、彼杵郡及び壱岐の田およそ2,230町を領有して梶谷に住み、松浦久と名のりました。次いで検非違使に補され、従五位に叙されました。これが松浦氏の起こりとされています。
 
 26代松浦鎮信の天正15年(1587)、豊臣秀吉の九州平定に参加し、秀吉より領知安堵の朱印状を発給されています。続く徳川政権下でも本領を安堵され、29代松浦鎮信(26代と同名)のときに、従弟の松浦信貞に1500石分知し、6万1千余石となり平戸藩の藩主として藩領内を治めました。

 33代松浦清は静山と号し、隠居した後、交流した様々な人からの伝聞をまとめた278巻からなる随筆集「甲子夜話」を著わし、幕末の貴重な史料となっています。

 37代松浦詮(あきら)のとき、版籍奉還、廃藩置県となり、明治の新時代となりましたが、伯爵心月庵松浦詮は、4代平戸藩主松浦鎮信(松浦家29代)が興した武家茶道の流派である鎮信流を継承し、衰退した茶道を復興すべく、貴族院議員、宮中参与としての立場から、茶道の挽回に心を砕きました。婦女子教育の一貫としての茶道を女子学習院、日本女子大学その他の学校で指導した功績が残っています。

 平戸の名物では鯨の軟骨の酒粕漬けが有名で、「松浦漬」と呼ばれていますが、ちなみに、今売れている松浦亜弥(通称あやや)は、松浦一族とは関係ないはずですたい。
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