日本(13)-2.26事件(7)-「白骨となって帰還せよ」

嘉穂のフーケモン

2005年03月02日 07:52

 

 歩兵第3聯隊第6中隊 中隊長安藤輝三大尉

 (旧暦  1月22日)

 亡羊忌  昭和期の詩人村野四郎の昭和50年(1975)年の忌日。 詩集『亡羊記』に因み、「亡羊忌」と呼ばれる。

 蹶起部隊の将校たちが次々と下士官兵を兵営に帰し、続々と陸相官邸に集結している中で、赤坂の高級ホテル「山王ホテル」(千代田区永田町2丁目)の安藤輝三大尉に率いられた歩兵第3聯隊第6中隊159名だけは依然として交戦の構えを解きませんでした。
 
 当然のことながら、上官や同僚が説得にやって来ましたが、安藤大尉は決して説得に従おうとはしませんでした。

 午後2時半ころ、警視庁占拠の歩兵第3聯隊第3、第7、第10中隊の3個中隊を指揮していた野中四郎大尉が自決したとの報がもたらされ、安藤大尉も兵を原隊へ復帰させることを決意、全員で中隊歌を合唱する中、午後3時、安藤大尉は拳銃をあごに当て引き金を引きました。

 
 こうして、帝都東京を4日間に渡り震撼させた2.26事件は、終結を迎えました。

 その後、かねてから公表されていた第1師団の満州派遣が発動され、その第一陣として5月8日、歩兵第1聯隊が品川駅から北満の龍江省(現在の黒龍江省)泰安鎮に向けて出発しました。

 出発に先立ち、新聯隊長の牛島満大佐(陸士20期、後に第32軍司令官として沖縄で自決)は、「汚名をすすぐため、全員白木の箱で帰還せよ」と訓示したと云います。

 

 沖縄戦直前の第32軍司令官牛島満中将

 また、歩兵第3聯隊は、5月22日、第1師団の第二陣として北満のチチハルへ向けて渡満の途につきましたが、湯浅聯隊長は「お前たちは事件に参加したのだから、渡満後は名誉挽回を目標に軍務に精励し、白骨となって帰還せよ」と訓示しました。

 その後、各聯隊はカンチャーズ事件(歩兵第1聯隊)、支那事変、ノモンハン事件に参加し多くの犠牲者を出しました。

 昭和11年2月26日、未明の非常呼集によって命ぜられるままに事件の渦中に巻き込まれた兵士たちは、「叛乱軍」の汚名を着せられ、再び戦闘の渦中に巻き込まれ、果たして何人の兵士が戦後まで生き残ったのでしょうか。

 特に歩兵第1聯隊は、太平洋戦争末期の昭和19年(1944)11月、南方転進を下令され、第2大隊を除く聯隊主力はフィリピン・レイテ島オルモックに上陸し、その後の米軍との戦闘で、上陸時約2,500あった兵力が終戦を迎えた時の生存者はわずか39名であったと云いいます。

 白骨となっても帰還できなかった多くの兵士が、フィリピンの山野に今も眠っています。
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