歳時記(21)ー春(5)ー春雷

嘉穂のフーケモン

2012年03月18日 21:50

  

 "The Falling Thunder God"(Raijin) by Hanabusa Itchō.

 (旧暦2月26日)

 このところ板橋村でも雷警報がちょくちょく出されておりますが、春雷(spring thunder)は春の暖かい日などに急に寒冷な空気が入り込んできて、軽くて温暖な空気を押し上げるために起きる現象だそうです。

 イギリスではあまり春雷は聞かれないそうですが、イギリスのロマン派詩人シェリー(Percy Bysshe Shelley,1792〜1822)に次のような詩があります。

 She sprinkled bright water from the stream
 On those that were faint with the sunny beam;
 And out of the cups of the heavy flowers
 She emptied the rain of the thunder-showers.
  −P.B.Shelly: ‘The Sensitive Plant’,Ⅱ


 彼女は小川の清らかな水を
 陽光にしぼむ草花にふりまき
 雷雨のしずくでうなだれる
 花の盃の水をこぼしてやった。


 日本では、次のような胸に迫る詩が残されています。

 夜の春雷


 はげしい夜の春雷である。

 鉄板を打つ青白い電光の中に

 俺はひとりの石像のように立ってゐる。



 永い戦いを終へて
いま俺達は三月の長江を下ってゐる
。
 しかし、荒涼たる冬の予南平野に

 十名にあまる戦友を埋めてしまったのだ。

 彼等はみなよく戦ひ抜き

 天皇陛下万歳を叫んで息絶えた。

 つめたい黄塵の吹すさぶ中に

 彼等を運ぶ俺たちも疲れはててゐた。

 新しく掘りかへされた土の上に

 俺達の捧げる最后の敬礼は悲しかった。

 共に氷りついた飯を食ひ

 氷片の流れる川をわたり

 吹雪の山脈を越えて頑敵と戦ひ

 今日まで前進しつづけた友を

 今敵中の土の中に埋めてしまったのだ。


 はげしい夜の春雷である。

 ごうごうたる雷鳴の中から

 今俺は彼等の声を聞いてゐる。

 荒天の日々

 俺はよくあの堀り返された土のことを考へた。

 敵中にのこしてきた彼等のことを思い出した。

 空間に人の言葉とは思へない

 流血にこもった喘ぐ言葉を

 俺はもう幾度きいたことだらう。

 悲しい護国の鬼たちよ!

 すさまじい夜の春雷の中に

 君達はまた銃剣を執り

 遠ざかる俺達を呼んでゐるのだらうか。

 ある者は脳髄を射ち割られ

 ある者は胸部を射ち抜かれて

 よろめき叫ぶ君達の声は

 どろどろと俺の胸を打ち

 ぴたぴたと冷たいものを額に通はせる。

 黒い夜の貨物船上に

 かなしい歴史は空から降る。


 明るい三月の曙のまだ来ぬ中に

 夜の春雷よ、遠くへかへれ。

 友を拉して遠くへかへれ。

     

 1941年3月10日 予南作戦後 長江上にて

 【田邊利宏】
 岡山県浅口郡長尾町生まれ。1930年、小学校高等科卒業、上京し神田の帝国書院に勤務しながら法政大学商業学校(夜間部)に学ぶ。1934年、法政大学商業学校卒業、日本大学予科文科入学。1936年、日本大学予科修了し日本大学法文学部文学科進学。1939年3月日本大学卒業、9月福山の増川高等女学校に赴任、12月入営。船で上海へ送られ蘇州で訓練を受ける。その後華南・華中を転戦。1941年8月24日、江蘇北部で戦死。/「従軍詩集」より

 この詩を書いた田邊利宏氏は、昭和13年(1938)3月に日本大学法文学部文学科を卒業し、9月に福山の増川高等女学校に赴任するも、わずか3ヶ月後の12月に松江の歩兵六十三聯隊に入営、華南、華中戦線を転戦して昭和16年(1941)8月24日、中国江蘇省で戦死しています。陸軍伍長。享年26歳。

 同じく田邊氏の「雪の夜」とともに、私の若きときより心に残る詩でした。
凄まじい春雷に託して、戦友達の無念さと生き残ったものの慚愧の念を伝えるこの詩は、東京大学消費生活協同組合出版部の中に作られた「日本戦没学生手記編集委員会」が全国の大学高専出身の戦没学生の遺稿を募集し、75名、300ページ余の1冊にまとめ、昭和24年(1949)秋10月に出版した『きけわだつみのこえ』の中にも収められています。
  

 風神雷神図 (俵屋宗達)

 アメリカで生まれたのちイギリスに帰化した詩人、劇作家で文芸批評家のT・S・エリオット(Thomas Stearns Eliot、1888〜1965)の有名な長詩『荒地』(The Waste Land、1922年)のなかに、「雷の言葉」として次のような一節があります。

 V. What the Thunder Said   
       
 After the torchlight red on sweaty faces
 After the frosty silence in the gardens
 After the agony in stony places
 The shouting and the crying
 Prison and palace and reverberation
 Of thunder of spring over distant mountains
 He who was living is now dead
 We who were living are now dying
 With a little patience

 V.雷の曰く

 汗ばむ顔と顔に松明の赭く映え
 園また園に沈黙の霜のおき
 き処に死ぬばかり苦しみありてより
 ある人の叫喚とかの泣き声と
 牢獄と宮殿と、回春の雷
 遙かなる山脈(やまなみ)にとどろきてより
 生命(いのち)ありしものもいまは亡く
 生命(いのち)ありしわれらいまは死にゆく
 一筋の忍耐にすがりて


 Here is no water but only rock
 Rock and no water and the sandy road
 The road winding above among the mountains
 Which are mountains of rock without water
 If there were water we should stop and drink
 Amongst the rock one cannot stop or think
 Sweat is dry and feet are in the sand
 If there were only water amongst the rock
 Dead mountain mouth of carious teeth that cannot spit
 Here one can neither stand not lie nor sit
 There is not even silence in the mountains
 But dry sterile thunder without rain
 There is not even solitude in the mountains
 But red sullen faces sneer and snarl
 From doors of mudcracked houses

 ここは水なくただ岩あるのみ
 岩ありて水なく砂の道のみ
 この山は岩のみありて水なき山
 水あらばわれら停りて飲まんものを
 われら岩の中にては停り得ず考うあたわず
 汗は乾き脚は砂中に埋まり
 岩の中によし水ありとも
 腐蝕せる歯根の死の山の口、唾はくあたわず
 ここに立つあたわず臥すあたわず坐すあたわず
 山ありて静寂さえもなく
 乾ける不毛の雷鳴に雨なく
 山ありて孤独さえもなく
 ひび割れし泥壁の家の戸口より
 赭き憂憤の顔と顔、嘲り唸るあり



               If there were water
 And no rock
 If there were rock
 And also water
 And water
 A spring
 A pool among the rock
 If there were the sound of water only
 Not the cicada
 And dry grass singing
 But sound of water over a rock
 Where the hermit-thrush sings in the pine trees
 Drip drop drip drop drop drop drop
 But here there is no water

                 
                  もし水ありて
 岩なきことあらば
 もし岩ありて
 水またあらば
 そも水
 泉
 岩のなかなる水溜り
 ただ水音のみにてもあらば
 蝉にもあらず
 枯草の歌にも非ず
 隠者鶫(つぐみ)の松林に鳴くところ
 ただ岩わたる水音のしたたりあらば
 ポッ ポトッ ポツ ポトッ ポトッ ポトッ ポトッ
 一粒の水もあることなし
                  (深瀬基寛訳)


 T・S・エリオットの長詩『荒地』は、彼の創刊した季刊雑誌「クライテリオン」の創刊号1922年10月号と翌年の1月号にわたって掲載されました。

 この詩によってエリオットの詩人としての名声が確立したばかりでなく、この詩の出版は、「ゴールデン・トレジュアリ」(1861年刊行以来、古今東西の数ある詞華集の中でも代表的な抒情詩選としての名声を誇り、エリザベス朝からロマン派の英詩まで、珠玉の詩編を収録して詳注を加えている。)的な英詩の固定観念に対する現代英詩の最初にして最大の反逆として、画期的な事件でもありました。

 1922年には、ジェイムズ・ジョイス(James Augustine Aloysius Joyce:1882 〜1941)の『ユリシーズ』刊行の年でもありましたが、『ユリシーズ』がダブリンのある一日(1904年6月16日)に起こった出来事を、様々な文体で、意識の流れなどの実験的な手法を用いて描写しているのとは逆に、わずか四百数十行のうちに過去数千年の人類の意識を圧縮し、同時に現代人の精神境位を歴史的に限定し、この詩の全編を貫くライト・モチーフに混じって、過去と現在を貫く精巧無比の伴奏曲が織られ、あたかも一大交響曲の観を呈しているとも評されています。

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