陶磁器(14)−琺瑯彩(景徳鎮官窯)
清雍正 黃地琺瑯彩梅花紋碗 高6.2cm、口径12cm、足径4.6cm
(旧暦1月8日)
景徳鎮官窯の発展に多大な貢献を成した景徳鎮御器廠督陶官唐英(1682〜1756)は、一時、官窯を去る雍正13年(1735)に、御器敞のなかに「陶成紀事碑」という記念碑を建立しました。
それによれば、景徳鎮官窯の一年間の経費には淮安板閘関銭糧八千両(テール)が用いられ、工価、飯食、泥土、釉料は民間の時価に照らして公平に採資して、少しも不正が無いように努めていたと云います。
ちなみに、清朝は銀を秤量貨幣(品位・量目を検査してその交換価値を計って用いる貨幣)として用いていましたが、その秤量の重さの単位「両(Tale)」は、地域や役所によって基準が異なり、その主なものだけでも、
庫平両=37.3125g
海関両(関平両)=37.679g
上海両(申漕平両)=33.824g
などの差異がありました。
1庫平両(清朝政府の納税標準)=37.3125gとして、淮安板閘関銭糧八千両は銀298.5㎏と試算されますが、銀の現在価値80円/g(平均値)とすると、淮安板閘関銭糧八千両は2,388万円に相当します。
余談ですが、日清戦争後の下関条約における清国からの軍事賠償金・庫平銀2憶両(当時の邦貨換算2億9,930万金円)とその後の三国干渉による遼東半島還付代償金・庫平銀3,000万両(当時の邦貨換算4,490万金円)は合計857.9万㎏となり、現在価値では6,863億円、当時の日本の国家予算約8000万円の4倍強の3億4400万円以上を日本は清国に対して3年分割で英ポンド金貨で支払わせています。
20世紀初頭の清国の歳入は約8,800万両と云われており、2億3,000万両は清国の国家予算の3倍弱に相当する膨大な金額でした。
陶成したる廠器は、每歲秋、冬の二季に船隻・夫役(運搬夫)を雇ひ覓(もと)め、圓、琢器皿六百餘桶を解送(護送)す。歲例(例年)、盤、碗、鍾(壺)、碟(皿)等上色の圓器、一二寸の口麵(口径)由り以て二三尺の口麵(口径)に至るものは一萬六七千件。其の選に落ちたるの次色は、尚六七千件有り、一並(一緒)に裝桶して京(北京)に解(護送)し、以て備賞(賜与)に用ふ。其の瓶、罍(らい、雷雲の文様の酒樽)、樽、彝(い、酒器)等上色の琢器、三四寸の高さ由り以て三四尺の高さに至る大なるものは、亦た歲例(例年)二千餘件。尚ほ選に落ちたる次色有り二三千件に等しからず、一並(一緒)に裝桶して京(北京)に解し、以て備賞に用ふ。
《陶成紀事》 唐英撰 嘉穂のフーケモン拙訳
また毎年秋、冬の二季に焼成された敞器は船や運搬夫を雇い、円琢器皿は六百余桶を北京に護送した。盤・碗・鐘(壺)・碟(小皿)などの高品質の円器(円い平面的な磁器)で口径一・二寸から口径二・三尺のものは一万六・七千件の外、選に落ちた次位のものは六・七千件あり、一緒に桶に収蔵してを京師(北京)に送り、皇帝からの下賜の用に供した。
其の瓶、罍(らい、雷雲の文様の酒樽)、樽、彝(い、酒器)等の高品質の琢器(瓶、樽などの立体的な磁器)で、三・四寸の高さから三・四尺の高さに至る大きな磁器は、亦た例年二千餘件。なお選に落ちた次位のものは二・三千件以上あり、是も亦一緒に桶に収蔵してを京師(北京)に送り、皇帝からの下賜の用に供した。
《陶成紀事》 唐英撰
「琺瑯」は日本では七宝焼として知られていますが、金、銀、銅などの金属を素地(胎)として、表面にシリカ(二酸化ケイ素)を主成分とするガラス質の釉薬を高温で焼き付けたもので、中国には北宋の時代(12世紀頃)にヨーロッパから伝わったとされています。
七宝とは法華経見宝塔品第十一の
其の諸の幡蓋(ばんがい)は、金(こん)・銀(ごん)・瑠璃(るり)・碼碯(めのう)・眞珠(しんじゅ)・玫瑰(まいえ)の七宝を以て合成(ごうじょう)し、高く四天王宮に至る。
に拠り、その七宝に匹敵するほど美しいことから名称がつけられたと伝えられています。
宋代までの中国の陶磁器は、「玉の神秘な色の再現」を追及していたために、白磁、青磁などの純色なものが尊ばれていました。そのため、ガラス質の琺瑯は、その多彩な発色故に異端視されていました。
そのような琺瑯が重用されるようになったのは、明の第7代皇帝景泰帝(在位1450〜1457)であったと云われています。
景泰帝は朝廷内に琺瑯作をつくり、門外不出の技術として琺瑯を制作させました。古くは「銅胎摘絲琺瑯」と呼ばれていた琺瑯は、朝廷の手厚い保護のもと発展し、中国独特の琺瑯芸術へと成長しました。当時の器物の多くは藍釉が下地になっていたので、「景泰藍」と呼ばれました。
清代に入り、白磁の表面に琺瑯を焼き付ける「琺瑯彩」の技術が開発されました。「琺瑯彩」に魅せられた清の第4代康煕帝(在位1662〜1722)は、康煕57年(1718)、琺瑯作を内廷の養心殿に移し、制作体制を強化しました。
当時、琺瑯彩の釉薬はすべて国外から調達していましたが、色彩が九彩しかなく、また表面が滑らかな白磁には剥落しやすいという弱点がありました。
多くの資金と職工が投入されましたが、新しい琺瑯彩の技術は、第5代雍正帝(在位1722〜1735)に引き継がれ、試行錯誤の末、雍正6年(1728)に実用化されました。剥落についても、芸香油という特殊な油を用いることにより改善されました。
清雍正 琺瑯彩山水碗 高6.9cm、口径14.9cm
十七、圓琢白器五采絵画、摹仿西洋、故曰洋采、須選素習絵事高手、將各種顔料研細調合、以白瓷片画染焼試、必熟諳顔料火候之性始可、由粗及細、熟中生巧、総以眼明心細手準為佳、所用顔料与琺瑯色同、其調色之法有三、一用芸香油、一用膠水、一用清水、蓋油色便於渲染、膠水所調便於搨抹、而清水之色則便於堆充塡也、画時有就卓者、有手持者亦有眠側於低処者、各因器之大小、以就運筆之便。
《陶冶圖說》 唐英撰 第十七
十七、圓琢白器の五采の絵画は、西洋を摹仿(模倣)す。故に洋采と曰ふ。須く素習絵事の高手(名手)を選び、はた各種の顔料を研細(細かく磨りつぶす)し調合す。以て白瓷の片画を染めて焼試し、必ず顔料の火候(火加減)之性を熟諳するを始む可し。粗由り細に及び、熟中巧(たくみ)を生じ、総じて眼明、心細、手準を以て佳(よし)と為し、所用の顔料を琺瑯色と同じく与ふ。
其の調色之法に三有り、一に芸香油を用ふ、一に膠水(にかわすい)を用ふ、一に清水を用ふ。油色蓋(おほ)ひて渲染(画面をぼかすように塗る)に便なり、膠水を調(ととの)ふる所搨抹に便なり、而して清水之色則ち充塡を堆するに便なり。画、時に卓に就くあり、手に持ち、亦た低処に眠側する有り、各(おのおの)の器之大小に因り、以て運筆之便に就く。
《陶冶圖說》 唐英撰 第十七 嘉穂のフーケモン拙訳
芸香油の成分は不明ですが、琺瑯の顔料に混ぜると油性を帯びて延びがよく、むらのない渲染(画面をぼかすように塗る)がし易い特徴がありました。
膠(にかわ)を加えた顔料は、塗抹する際釉面に膠着するのでムラがなく、また清水で顔料を調合すれば、粘着性が弱まって堆花(器物の表面に有色土を筆や箆(へら)で盛り上げて、絵や文様を表したもの)を描くのに適していました。
雍正帝は、素地となる白磁は景徳鎮の御窯で焼成させて北京に運ばせ、琺瑯彩の絵付けについては現地の職人に任せずに、直属の宮廷画家に絵付けさせています。
その結果、文様や絵柄には伝統的中国絵画(院体)の筆致が残され、東西の文化が融合する作品が生まれました。
清雍正 琺瑯彩雉雞牡丹紋碗 高6.6cm、口径14.5cm、足径6cm
また唐英は、《陶成紀事碑》の記述の中で、宋代の陶磁を仿古(古へに仿う)するもの、明代の陶磁を仿古するもの、清代創意の陶磁、西洋の陶磁、東洋(日本)の陶磁の五群に分けて、五十七種類の歲例(例年)の貢御の陶磁を紹介しています。
敞内所造の各種釉水の款項(項目)、甚だ多く、備載すること能はず。ここにその仿古(古へに仿う)採今(今を採用する)して宜しく大小の盤、碗、鐘(壺)、碟(皿)、瓶、罍(らい、雷雲の文様の酒樽)、罇(甕や壺)、彝(い、酒器)において、歲例(例年)の貢御の陶成五七種を介紹せん。
仿古各泑(釉)色
各釉色の古へに仿(なら)ふ
1. 鐵骨大觀泑(有粉青、月白、大綠三種)
北宋第8代皇帝徽宗の大觀年間(1107〜1110)の作風に仿(なら)ひ、粉青(不透明の淡青色)、月白(極めて淡い青白色を呈する白濁青釉)、大綠(深緑)の三種類の釉薬有り。倶に内発宋器の色澤に仿(なら)ふ。
2. 銅骨無絞汝泑(有人麵洗色澤)
宋代汝窯に仿(なら)ひ、八(人)面洗(八角形の筆洗い)の色澤有り。宋器の猫食盆に仿(なら)ふ。
3. 銕骨哥泑(有米色、粉青二種)
南宋郊壇官窯に仿(なら)ひ、米色(黄味を帯びた青色)と粉青の二種の釉薬有り。倶に内発宋器の色澤に仿(なら)ふ。
4. 銅骨魚子絞汝泑
宋代汝窯に仿(なら)ふ。内発宋器の色澤に仿(なら)ふ。魚子(ななこ)絞とは、開片(貫入)の微少なるもの。
5. 白定泑(有粉定、土定。廠止仿具粉定一種)
粉定、土定有り。(御器)廠は唯だその粉定の一種のみを仿(なら)ふ。
6. 均泑(有玫瑰紫、海棠紅、茄花紫、梅一青、騾肝、馬肺、新紫、米色、天藍、窯變十種)
玫瑰紫(紫紅色でバラ科のハマナスの花に喩えたもので、銅の還元による呈色)、海棠紅(桃花片とも称し、粉紅の一種で最も淡い積紅色で銅の還元による呈色)、茄花紫(茄皮紫とも称し、マンガンによる呈色)、梅一青(梅子青の誤り。その緑色を梅子に喩えた命名で、蘋果青と同じく銅の酸化による呈色)、騾肝、馬肺(猪肝、羊肝の類で、銅紅釉の変相か)、新紫、米色、天藍(白瓷胎にコバルトを加えた白釉を施して生じる青色)、窯變(焼窯中の火加減の不均衡と還元・酸化両炎の関係から偶然に生じる釉色の変化で、銅釉の場合に顕著に生じる。清朝御器敞では、是を作為的に成功させるに至った)の十種有り。(内発旧器に仿ひ、新たに深紫、米色、天藍、窯變の四種を加ふ)
7. 宣窯霽紅泑(有鮮紅、寶石紅二種)
宣徳窯に仿(なら)ひ、鮮紅、寶石紅の二種有り。
明朝第5代皇帝宣宗の宣徳年間(1426〜1435)に開発された銅質釉の還元焼成による紅色。時の郊祀(天壇・地壇を設けて皇帝が天地を祀る大礼)に用いる容器に初めて使用されたので、祭紅の呼び名が生じた。この祭紅の名が音通して霽紅とも云われる。この祭紅には、色の深浅により寶石紅(大紅)と鮮紅(積紅)の別がある。
8. 宣窯霽青泑・濃紅泑(有橘皮、棕眼)
宣徳窯に仿(なら)ふ。霽青(霽藍)は、コバルト青料を釉中に混入あるいは直接坯面に塗布して得られる濃い天藍色。前者を瑠璃手、後者を吹墨手という。
橘皮、棕眼は共に釉肌の特徴を示す。
釉汁中凹而縮者、曰椶眼、亦曰髪眼、淺大而滋潤者、曰橘眼。
《飲流斎説瓷》 巻三
椶眼(しゅがん)とは棕梠皮(しゅろひ)もしくは乱髪に喩えられる釉面の微孔状の凹み。橘眼はすなはち橘皮で椶眼(しゅがん)の大なるもの、所謂る柚子肌である。
9. 廠官窯泑(有鱔魚黃、蛇皮綠、黃斑點三種)
鱔魚黃、蛇皮綠、黃斑點の三種有り。
塩田力蔵氏の《支那陶瓷》によれば、鉄釉中の鉄珪酸塩の結晶により、黒・緑の二色を和した如く呈色する茶葉末(蕎麦手)の変種であり、それぞれ褐色・黒緑色・赤褐色を呈する。
10. 龍泉泑(有淺、深二種)
淺(青)、深(青)の二種有り。
つづく
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