陶磁器(12)−郎窯紅(景徳鎮官窯)
宝石紅観音尊 (清 康煕官窯) Ruby-red Kuan-yin Tsun Vase Height: 25.6 cm, rim diameter: 7.3 cm, base diameter; 11.1 cm
In the period from 1705 to 1712, during the K'ang-hsi reign, Lang T'ing-chi, the Governor of Kiangsi, was ordered to go to Ching-te-chen and manage the firing of ceramics at the imperial kiln works. Among the porcelains produced there was a red-glazed vessel in imitation of one that goes back to the Hsüan-te reign (1426-1435) in the Ming dynasty. Its strikingly beautiful color is especially attractive. Since Lang T'ing-chi oversaw the production of ceramics there, it became known as "Lang-ware Red". The shape of this vessel is similar to the purification vase seen held in the hand of the Buddhist figure Kuan-yin, which is why it is also known as a Kuan-yin tsun-vase. The irregular shedding of the glaze at the mouth here is typical of the style of Lang-ware red.
Text: Yu P'ei-chin
(旧暦 7月20日)
磁器を生産する窯場が繁栄する条件には、素地や釉薬の原料、焼成のための燃料が豊富なこと、製品運搬のための交通が至便なことがあげられています。
北宋(960〜1127)の景徳年間(1004〜1007)、それまでの昌南鎮という地名から年号により改名された景徳鎮は、江西省東北部に位置し、東は浙江省、北は安徽省の省境に近い山間にあります。
すでに漢代から陶磁器生産が始まっていたとされ、豊富な製磁原料、特に明代末期以降に用いられた安徽省で産出する祁門土(きもんど)と云われる原料に恵まれていました。
景徳鎮はまた昌江の河沿いに形成された街で、昌江は鄱陽湖(ポーヤン湖)、さらには長江(揚子江)へと通じ、この水運は重要な交通手段としてごく近年まで利用されてきました。
清朝の康煕年間(1661~1722)にイエズス会の宣教師として布教の名目で2度にわたって景徳鎮を訪れ、磁器の製造技術をフランスに送ったダントルコール神父の書翰によれば、当時の景徳鎮は次のように記述されています。
景徳鎮には一万八千戸有之候。巨商の住居は広大の地域を占め、驚くべく多数の職工を包含致し候。而して通説には、人口百万ありて、日々米一万俵と豚一千頭以上を消費せらると申し候。また景徳鎮は、美しき河の岸に沿いて、延長一里を十分に超え申し候。
そは家屋の集積に過ぎざらんと想像さるべく候えども、決してさならず、街路は縄墨に則り区劃されて、等距離に交叉し、諸坊皆空地なく、家竝は狭きに過ぎ申し候。町を行けば恰も市場の中央に在る如く、四方八方より担夫の道を払う叫声喧しく聞こえ申し候。(中略)
『浮梁県志』によれば、往昔は景徳鎮に窯数三百を算えしに過ぎざるに、現今は其の数三千にも及び候。(中略)
景徳鎮は、高き山嶽に囲まれたる平地に位せるが、その東方に在りて鎮のよりかかれる者は、その外側に一種の半円形を形成致し候。その傍の山丘よりは二川流れ出でて、やがて合流致し候。その一川の寧ろ小なるに対し、一川は甚だ大にして、約一里に亙り水勢緩やかなる広き良港を現出致し候。時としては、此の広大の水面に小舟の舳艪接して、二、三列にも竝び居り候こと、有之候。斯くの如きが、峡谷の一より港へ進入致し候時に看らるる景色に御座候。
即ち、火焔は諸方より渦巻き上がり、一望直ちに景徳鎮の広袤(こうぼう、広さ)と奥行と輪郭とを示し居り候。夜ともなれば、恰も全市火に包まれたる一巨邑を観る如く、又は多くの風孔ある一大炉を視る如き感、致し候。恐らくは、この山嶽に囲繞されたる地形が瓷器の制作に好適せるならんかとも被存候。
ダントルコール著・小林太市郎訳注 『支那陶瓷見聞録』 第一書房 1943
佐藤雅彦補注 『中国陶瓷見聞録』 平凡社東洋文庫363
清朝第4代康熙帝(こうきてい、在位1661〜1722)の康煕13年(1674)、景徳鎮は平西親王として平西藩(雲南・貴州)に封じられていた清朝入関の功臣、呉三桂(Wú Sānguì、1612〜1678)の兵乱により戦渦に巻き込まれ、鎮の房舎の半分以上が焼失するという壊滅的な被害により、磁器の生産活動は停滞してしまいました。
康煕十三年の変乱により、鎮の房舎は半ば以上焼失し、窯戸は悉くその資を失ひ、窯を業とする者は十に僅かに二、三に留る。
『饒州府志』 康煕二十二年重修
しかし、康煕19年(1680)9月、御器焼造の命が下され
(十九年、命内務府工部司員各一人、往江西焼造瓷器 「欽定大清会典事例 巻1190 内務府庫蔵」)、内務府総官の広儲司郎中・徐廷弼、内務府主事の李廷禧、工部虞衡司郎中・臧応選、筆帖式・車爾徳の4人が景徳鎮に派遣されることになりました。
清朝政府は徐廷弼は事務の総監として、臧応選は現業の総監として景徳鎮官窯の再建に当たらせようとしたのです。
翌、康煕20年(1681)2月、彼らは景徳鎮に着任して督造を開始します。明代では官窯の経費は各地方の負担となっていましたが、清代においては中央政府から支給されることとなりました。
そして、彼ら景徳鎮官窯監陶官の方針は、
1. 製成の器ごとにその価格を報告させ、進呈して供閲させる。
2. 諸資材の内容証明を明確にする。
3. 経費を正しく調査させて給発を行わせる。
4. 焼造の一切の経費は官が支給する。
5. 製品の運搬には、関係する地方には負担をかけない。
といった、画期的なものでした。
特に工部虞衡司郎中・臧応選は、荒廃した景徳鎮官窯の復興整備と人材育成、焼成技術の向上に努め、清代官窯の基礎を築いたと云われています。
臧応選が景徳鎮で督理製造に携わっていた康煕20年(1681)から康煕27年(1688)までの官窯を「臧窯」と呼び、「茶葉末」などの単色釉の作品に優れていたとされています。
茶葉末六聯瓶 清 康煕 高24.2cm
この「臧窯」の時期は、清朝官窯の黎明期にあたりますが、この時期に御器の文様や様式の創作に活躍したのは刑部主事劉源という河南祥符出身の人で、後に鑲紅旗漢軍の八旗籍に入ったとされています。
劉源、字は伴阮、河南祥符の人にして漢軍旗籍に隸す。康熙中、官は刑部主事、内廷に供奉し、蕪湖、九江の兩關(税関)を監督す。
技巧絕倫、少にして畫(画)工(たく)み、曾て唐の淩煙閣功臣像を繪す。鐫刻(せんこく、彫刻する)して世に行ひ、呉偉業(明末清初の詩人、1609〜1672)之を紀して詩を贈る。及び内廷に在りて、殿壁に竹、風枝雨葉を畫(えが)き、生動之致を極め、時を為して所を稱す。手製の清煙墨、「寥天一(墨の名称)」在り、「青麟髓(墨の名称)」之上なり。一笏(こつ)に滕王閣序(唐代の詩人王勃が詠んだ散文)を上刻し、心經(摩訶般若波羅蜜多心經)、字畫(画)嶄然(ざんぜん、一段高くぬきんでている)たり。敕を奉じて太皇太后及び皇貴妃の寶範(宝璽)を製(つく)り、撥蠟精絶たり。
江西景德鎮の御窰(窯)を開く時、源、瓷樣數百種を呈す。古今之式を參し、新意を以て運び、諸く巧妙を備ふ。彩繪人物山水花鳥に於て、尤も各の其の勝を極む。成るに及び、其の精美は明代諸窰(窯)に過ぐ。其の他の御用木漆器物、亦た多く作りて出監し、聖祖甚だ之を眷遇(特別に目をかける)す。卒するに及び、子無く、官に命じて茶酒を奠(さだ)め、侍衞(貴人のそばに仕えて護衛する)して柩を護り、馳驛して歸葬し、禮、特に異なれり。
(清史稿 列傳 卷五百五 列傳二百九十二 藝術四 劉源) 嘉穂のフーケモン 拙訳
臧応選を継いだのは雲南順寧知府の郎廷極(1663〜1715)でした。康煕44年(1705)、郎廷極は江西巡撫に任ぜられ併せて景徳鎮御器廠監陶官の兼任を命ぜられました。
郎廷極は康煕51年(1712)に転任するまでの8年間、各種の陶磁を監督して製作せしめましたが、特に深い色調の銅紅色釉が著名となり、後年、この銅呈色の単色釉磁を「郎窯」と呼ぶようになりました。
郎窯の紅釉は、西洋人が「牛血紅」と呼んだように鮮やかな真赤色を呈し、釉表には貫入が入り、高台は白磁で無款(年款を書き込まない)であると言われています。
銅はもともと高火度の下では固体から気体へと一気に気化してしまい(融点1084.4 ℃)、1300℃内外の焼造温度が必要な高火度釉の調整では大変な困難を強いられるため、理想的な還元焼成をうけてきらきらと輝く鮮紅色となった郎窯の紅釉磁は、絶賛の対象であったようです。
ちなみに還元焼成とは、炭素が多く、酸素が不足した状態の焔で焼成する技法で、窯内に送る空気を制限することで酸素が不足し、素地や釉薬に含まれる銅などの金属が還元性の化学変化を引き起こすことにより発色されるようです。
また、コロイド状になった銅の比率の違う釉を何層にも重ねてかけ、酸化、還元を絶妙に行って紅色と緑色が入り交じった優美な淡紅色の「桃花紅」(豇豆紅)も康煕官窯に限られる清代を代表する色釉と云われています。
豇豆紅釉萊菔尊(Peach-bloom Radish-shaped Zun Vessel) 清 康熙,高19.9cm 口径3.2cm 足径3.9cm
This zun takes its name from its resemblance to a radish. Late Kangxi-era peach-bloom red glaze, produced at Jingdezhen, is a kind of high-temperature copper red glaze that is named for its resemblance to the color of the peach blossom. The luminous red glaze is otherwise known as "cowpea skin red", "baby's cheek", and "tipsy beauty". The glaze just under the neck is thin and transparent, thereby revealing the color of the clay body. THE PALACE MUSEUM
さらに、紅釉磁と同じ銅呈色の高火度釉が酸化焔をうけて緑色化した「蘋果緑」(ひんかりょく、蘋果=リンゴ)と呼ばれる緑郎窯も存在し、清代景徳鎮官窯では驚くほど多彩な色釉が焼造されています。
蘋果青釉瓶(Apple-green Glazed Vase) 清 康熙 高21.2cm 口径8.4cm 足径8.9cm
Pale green celadon is a traditional Chinese glaze made from traces of ferric oxide fired at a high temperature. The color of this glaze is delicate and reserved, resembling ice and jade. The shape of this vase is unique to the Kangxi era. The exquisite quality of the porcelain is graced with a uniform celadon glaze that resembles a green apple. THE PALACE MUSEUM
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