北東アジア(36)-中國正史日本傳(2)-後漢書東夷列傳

嘉穂のフーケモン

2009年04月26日 16:27

 

 福岡県福岡市東区志賀島金印公園のモニュメント
  

 (旧暦  4月 2日)

 『後漢書』は中国二十四史の一つで、漢王朝(B.C.206~8)の皇族劉秀(光武帝、在位25~57)が、安漢公王莽(B.C.45~23)に滅ぼされた漢を再興して立てた後漢王朝(25~220)について書かれた歴史書です。

 本紀十巻、列伝八十巻、志三十巻の全百二十巻からなる紀伝体で書かれ、成立は南北朝時代(439~589)の南朝宋(420~479)の時代で、編者は宣城(安徽省)太守范曄(はんよう、398~446)です。

 さて、この『後漢書』の倭に関する記述は、卷八十五東夷列傳第七十五の中で、教化すべき「化外の地」に住む野蛮人として、夫余(ふよ)、挹婁(ゆうろう)、高句麗、東沃沮(とうよくしょ)、濊(わい)、三韓(馬韓、辰韓、弁辰)のあとに記されています。

 倭在韓東南大海中、依山島為居、凡百餘國。自武帝滅朝鮮、使驛通於漢者三十許國、國皆稱王、世世傳統、其大倭王居邪馬臺國、樂浪郡徼去其國萬二千里、去其西北界拘邪韓國七千餘裏、其地大較在會稽東冶之東、與朱崖儋耳相近、故其法俗多同。

 倭は韓の東南大海中に在りて、山島に依りて居と為し、凡(およ)そ百餘國。武帝の朝鮮を滅ぼせし自り、使驛(訳)の漢に通ずる者は三十國許(ばか)り。國ごとに皆な王を稱し、世世に統を傳ふ。

 其の大倭王は邪馬臺國に居る。樂浪郡の徼(けう、国境)は其の國を去ること萬二千里、其の西北界の拘邪韓國を去ること七千餘裏。其の地は大較(おほむね)會稽東冶(福建省福州)之東に在りて、朱崖(しゆがい、海南省瓊山の東南)、儋耳(たんじ、海南省儋州の西北)と相ひ近く、故に其の法俗は多く同じ。


 土宜禾稻麻紵蠶桑、知織績為縑布。出白珠青玉。其山有丹、土氣溫暖、冬夏生菜茹。無牛馬虎豹羊鵲、其兵有矛楯木弓、其矢或以骨為鏃。男子皆黥面文身、以其文左右大小別尊卑之差。其男衣皆橫幅結束相連。女人被髪屈紒、衣如單被、貫頭而著之、竝丹朱坌身、如中國之用粉也。有城柵屋室。父母兄弟異處、唯會同男女無別。飲食以手、而用籩豆。俗皆徒跣、以蹲踞為恭敬。人性嗜酒、多壽考、至百餘歲者甚眾。國多女子、大人皆有四五妻。其餘或兩或三。女人不淫不妒。風俗不盜竊、少爭訟。犯法者沒其妻子、重者滅其門族。其死停喪十餘日、家人哭泣、不進酒食、而等類就歌舞為樂。灼骨以卜、用決吉凶。行來度海、令一人不櫛沐、不食肉、不近婦人、名曰持衰。若在塗吉利、則雇以財物、如病疾遭害、以為持衰不謹、便共殺之。

 土は禾稻(かとう、稲)、麻紵(まちよ、麻)、蠶桑(さんそう、桑)に宜(よ)く、織績して縑布(けんふ、絹布)を為(つく)ることを知る。白珠、青玉を出(いだ)す。其の山に丹(丹砂)有り。土氣は溫暖にして、冬夏に菜茹(さいじよ、野菜)を生ず。牛、馬、虎、豹、羊、鵲(かささぎ)無し。

 其の兵には矛、楯、木弓有りて、其の矢は或ひは骨を以て鏃と為す。男子は皆な黥面文身(げいめんぶんしん、顔と体に入れ墨をする)し、其の文(もよう)の左右大小を以て尊卑の差を別つ。其の男の衣は皆な橫幅結束して相ひ連ぬ。女人は被髪屈紒(ひはつくつけい、ざんばら髪で横向きに髪を結う)し、衣は單被(一枚の布切れ)の如く、頭を貫きて之を著け、竝(なら)びに丹朱(朱色の顔料)もて身に坌(ぬ)ること、中國の粉(白粉)を用うるが如し。

 城柵、屋室有り。父母兄弟は異處し、唯だ會同するに男女別無し。飲食するに手を以てし、而して籩豆(へんとう、祭り用の器)を用ふ。俗は皆な徒跣(とせん、裸足)にして、蹲踞(うずくまる)を以て恭敬と為す。人は性として酒を嗜(たしな)み、多く壽考(長寿)にして、百餘歲に至る者甚だ眾(おほ)し。

 國には女子多く、大人は皆な四、五妻有り。其の餘も或ひは兩、或ひは三なり。女人は淫ならず妬ならず。風俗は盜竊せず、爭訟少なし。法を犯す者は其の妻子を沒し、重き者は其の門族を滅ぼす。

 其の死するや、喪を停(とど)むること十餘日、家人は哭泣して酒食を進めざるも、而れども等類(仲間)は就きて歌舞して樂しみを為す。骨を灼(や)ひて以て卜し、用(もつ)て吉凶を決す。

 行來して海を度(わた)るには、一人をして櫛沐(しつもく、櫛を入れ沐浴する)せず、肉を食らわず、婦人を近づけざらしめ、名づけて持衰(じさい)と曰ふ。若し塗に在りて吉利なれば、則ち雇(つぐな)ふに財物を以てし、如し病疾し害に遭へば、以て持衰謹まずと為し、便(すなは)ち共に之を殺す。
 

 建武中元二年、倭奴國奉貢朝賀、使人自稱大夫。倭國之極南界也。光武賜以印綬。安帝永初元年、倭國王帥升等獻生口百六十人、願請見。

 建武中元二年(57)、倭の奴國(なこく)、奉貢して朝賀し、使人は自ら大夫と稱す。倭國の極南界なり。光武賜ふに印綬を以てす。
安帝の永初元年(107)、倭國王の帥升(すいしよう)等、生口(奴隷)百六十人を獻じ、願ひて見(まみ)えむことを請ふ。

 桓靈間、倭國大亂、更相攻伐、歷年無主。有一女子名曰卑彌呼。年長不嫁、事鬼神道、能以妖惑眾。於是共立為王。侍婢千人、少有見者、唯有男子一人給飲食、傳辭語。居處宮室樓觀城柵、皆持兵守衛。法俗嚴峻。

 桓、靈の間(桓帝、靈帝の時代、146~189)、倭國大いに亂れ、更(こもご)も相攻伐し、年を歷(かさ)ねて主無し。一女子有りて名を卑彌呼と曰ふ。年長ずるも嫁せず、鬼神の道に事(つか)へ、能く妖を以て眾(しゆう)を惑わす。是に於て共に立てて王と為す。侍婢は千人なるも、見ること有る者少なく、唯だ男子一人有りて飲食を給し、辭語(言葉)を傳ふ。居處の宮室、樓觀、城柵は皆な兵を持ちて守衛す。法俗嚴峻なり。

 自女王國東度海千餘里至拘奴國。雖皆倭種、而不屬女王。自女王國南四千餘里、至朱儒國、人長三四尺。自朱儒東南行船一年至裸國黑齒國、使驛(訳)所傳、極於此矣。

 女王國自り東のかた海を度(わた)ること千餘里にして拘奴國(くぬこく)に至る。皆な倭種なりと雖も、而れども女王に屬せず。女王國自り南すること四千餘里にして朱儒國(しゆじゆこく)に至る。人の長(たけ)は三、四尺。朱儒自り東南のかた船を行(や)ること一年にして裸國、黑齒國に至る。使驛(訳)の傳ふる所、此に極まる。

 會稽海外有東鯷人、分為二十餘國。又有夷洲及澶洲。傳言秦始皇遣方士徐福將童男女數千人入海、求蓬萊神仙不得、徐福畏誅不敢還、遂止此洲、世世相承、有數萬家。人民時至會稽市。會稽東治縣人有入海行遭風流移至澶洲者、所在絕遠、不可往來。

 會稽の海の外に東鯷(とうてい)の人有りて、分れて二十餘國と為る。又た夷洲及び澶洲有り。傳へて言く、秦の始皇は方士の徐福を遣はして童男女數千人を將(ひき)ひて海に入り、蓬萊の神仙を求めしも得られざれば、徐福は誅せられんことを畏れて敢へて還らず、遂に此の洲に止まり、世世相ひ承けて數萬家有りと。人民、時に會稽の市に至る。會稽東治縣の人に海に入りて行きて風に遭ひ、流移して澶洲に至る者有るも、所在絕遠にして、往來す可からず。

 当時の倭国は、化外の民ではあっても、秩序正しく法俗嚴峻であったと云うことで、勤勉なご先祖様たちだったのでありましょうかね。

 また、徐福の伝説は、司馬遷『史記』の卷一百十八淮南衡山列傳第五十八の以下の記述に基づくものとされているようです。

 又使徐福入海求神異物。還為偽辭曰、臣見海中大神。言曰、汝西皇之使邪。臣荅曰、然。汝何求。曰、願請延年益壽藥。神曰、汝秦王之禮薄。得觀而不得取。即從臣東南至蓬萊山、見芝成宮闕。有使者銅色而龍形、光上照天。於是臣再拜問曰、宜何資以獻。海神曰、以令名男子若振女與百工之事、即得之矣。秦皇帝大說、遣振男女三千人、資之五穀種種百工而行。徐福得平原廣澤、止王不來。於是百姓悲痛相思、欲爲亂者十家而六。


 又徐福をして海に入りて神異の物を求めしむ。還りて偽辭をなして曰く、臣、海中の大神を見る。言ひて曰く、汝は西皇の使か、と。 臣荅へて曰く、 然り、と。汝、何をか求むる、と。 曰く、願はくは延年益壽の藥を請はん、と。神曰く、汝が秦王の禮薄し。觀るを得れども取るを得ず、と。即ち臣を從へて東南のかた蓬莱山に至り、芝成の宮闕を見る。使者有り銅色にして龍形、光上りて天を照す。是に於て臣再拜して問ひて曰く、宜しく何を資としてか以て獻ずべき、と。海神曰く、令名の男子若(およ)び振女(童女)と百工の事とを以てせば、即ち之を得ん、と。

 秦の皇帝大いに説(よろこ)び、振男女三千人を遣り、之に五穀の種種と百工を資して行かしむ。徐福、平原廣澤を得、止まりて王となりて來らず。是に於て百姓悲痛し相思ひて、亂を爲さんと欲する者十家にして六あり。


 日本の各地には徐福が漂着したとする徐福伝説が残っています。その伝承地は、青森県中泊町、東京都八丈島、山梨県富士吉田市、京都府伊根町、三重県熊野市、和歌山県新宮市、福岡県八女市、佐賀県佐賀市、鹿児島県いちき串木野市など数多くあるそうです。
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