歴史/ ヨーロッパ(2)-タタールのくびき(1)
All significant conquests and movements of Genghis Khan and his generals during his life time from Wikipedia.
(旧暦 4月11日)
PUCK
I go, I go; look how I go,
Swifter than arrow from the Tartar's bow.
A Midsummer Night’s Dream -Act III, SCENE II : Another part of the wood.-
パック(いたずら小僧の妖精)
行きます、行きます、ほらこのとおり、
韃靼(ダッタン)人の矢よりも早く。
「夏の夜の夢」 第3幕第2場:森の別の場所
シェークスピアの喜劇「夏の夜の夢」に出てくるいたずら小僧の妖精パックは、妖精の王オーベロンに、森の中を風よりも早く駆け回り、恋のきちがいすみれ(三色すみれ、 love-in-idleness)の花の汁を塗られて、ロバに変えられた職人ボトムに恋した妖精の女王タイターニアを連れてくるように命ぜられます。
そこで妖精パックは、
「韃靼(ダッタン)人の矢よりも早く」と云い残してすっ飛んで行きます。
それほど
「韃靼(ダッタン)人の矢」の速さは、中世ヨーロッパ人に脅威を与えたという言い伝えがあるのでしょうか。
韃靼(ダッタン)とは中国語で塞外の民族を漠然と指す名称で、アラビア語ではタタル、ロシア語では Татар(タタール)、西ヨーロッパの諸言語では Tartar(タルタル)と呼ばれてきました。
ここでタタールというのは元来はモンゴルの一種族を指す言葉でしたが、チンギス・ハーンが西征の際、ユーラシア平原の多くの遊牧民族をその支配下に治めて西征軍に加えたことから、ヨーロッパではギリシア語のタルタロス(Tartaros、地獄)の連想もあって、モンゴル=タタール勢のことをタタールと呼ぶようになったと云います。
モンゴルの軍勢は遠征に際し1人で何頭もの馬を連れていき、これらを乗用としてだけではなく食料としても利用していたそうですが、乗用の馬は硬く筋張っていたので、刀で細かく切った肉を入れた袋を鞍の下に置いて馬に乗り、潰してから味付けして食べる習慣があったそうです。
タルタルステーキは、このタルタル人達の馬肉料理に由来するという説もあるようです。
さて、1218年、モンゴル帝国の初代大ハーンであるチンギス・ハーン(1162?~1227、在位1206~ 1227)は、中央アジアからイラン高原に至る広大な領域を支配したホラズム・シャー朝(1077~1231)に国書を携えた使節団を送りました。
しかし、東部国境にあるオトラル(Otrar、カザフスタン南部)の総督イナルジュクは、使節団のムスリム(イスラム教徒)商人450人を殺害して商品を略奪してしまいました。
総督イナルジュクは、使節団をホラズム・シャー朝の内情を偵察するスパイと判断し、第7代スルターンであるアラーウッディーン・ムハンマド(?~1220)の許可のもとに殺害したとも云われています。
チンギス・ハーンはその報復として、20万の大軍を率いて中央アジアに遠征し、1219年にはシルダリア川流域まで達しました。
モンゴル軍は三方に分かれてまたたくまに中央アジアを席捲し、その中心都市サマルカンド(Samarkand)、ブハラ(Bukhara)、ウルゲンチ(Urganch)を征服し、殺戮と破壊をしつくしました。
ホラズム・シャー朝の第7代スルターンであるアラーウッディーン・ムハンマドはモンゴル軍の追撃を逃れてはるか西方に去ったため、チンギス・ハーンは腹心の家臣ジェベとスブタイ(Sübütei、 1176~1248)にそれぞれ1万騎を与えてアラーウッディーン・ムハンマドを追撃させます。
彼らは現在のイランに入り、アゼルバイジャン、グルジアを席巻し、カフカース山脈を越えてロシア平原に進出し、1223年5月31日、カルカ河畔(アゾフ海の北方)においてキエフ大公国をはじめとするルーシ(ロシア)諸侯の大軍を打ち破ってしまい、その脅威はヨーロッパにまで伝えられました。
つづく
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