北東アジア(21)−武昌起義

嘉穂のフーケモン

2005年10月10日 23:49

 

 武昌市街 新軍(蜂起軍)侵攻図

 (旧暦  9月 8日)

 素逝忌  俳人長谷川素逝の昭和21年(1946)の忌日
 
 遠花火 海の彼方にふと消えぬ

 光緒20年(1894)、李氏朝鮮(1392〜1910)において起きた東学党の乱(甲午農民戦争)を契機として介入した清、日本の対立から中日甲午戦争(明治二十七八年戦役)が勃発しましたが、翌光緒21年(1895)、この戦争に敗れた清朝では、西洋式の訓練に基づく新式陸軍の必要性が論じ始められました。

 当初は、光緒21年(1895)3月に広西按察使で中日甲午戦争の兵站を担当した胡燏棻(hú júfén)という人が、天津以南原盛軍駐地小站において、成年男子を募集して十営を編成し、「定武軍」と名づけてドイツ人教官ハンネケンの指導の下に訓練を始めました。

 その後、胡燏棻(hú júfén)の転出に伴い、同年10月には袁世凱(1859〜1916)が継承して、「新建陸軍」と改名されました。また、両広総督などを歴任した張之洞(1837〜1909)によって南洋新軍も創設され、光緒26年(1900)の義和団事変を経た光緒29年(1903)に清朝は正式に新軍三十六営の各省設置を図りましたが、実際に設置されたのは二十六営と云われています。

 特にこの国軍の根幹である新軍には、現状に対して不満をもつ人々が数多く応募し、心情的には満州族の清朝に反感をもつ漢族が圧倒的に多数を占めていたため、清朝の正規軍でありながら、革命派と反革命派の二面性を有し、武昌起義以後の各地の革命運動では、地方の新軍が重要な役割を担いました。
 革命派は新軍工作を活発に行い、新軍の誰にでも、国の現状と革命の必要性を訴えたのです。
 そのころ、武漢のロシア租界で革命派が爆弾を製造しているうちに誤って爆発させるという事件が発生し、清朝当局による厳しい革命党員の摘発、逮捕が行われました。
 逮捕者70名以上におよび、そのうち新軍の軍籍にあったもの3名が、武昌(湖北省武漢市)の総督公署の前で斬首され、新軍内部は動揺しました。
 新軍内部で、革命派の党員名簿が押収されたという噂が流れたためでした。

 新軍の将兵は、自分の名前が革命派の名簿に載っているかどうか疑心暗鬼になり、不安を募らせました。革命派の工作員と話しただけで、名簿に登載されている恐れがあったからです。
 そして、逮捕されて拷問され、斬首されるくらいなら、蹶起するほうがましだという心理状態に落ち入ってしまいました。

 宣統3年(1911)辛亥(かのとい)10月10日午後9時、武昌(湖北省武漢市)の新軍工程営に銃声があがりました。そして、新軍の各標、各営がこれに呼応しました。
 また、場外にいた砲兵が駆けつけ、蛇山という小高い岡から総督公署に向かって砲撃を開始しました。
 時の湖広総督瑞澂(ずいちょう)は、砲声を聞くとあわてて漢口(湖北省武漢市)の租界に逃げ込み、こうして武昌は革命軍の手に堕ちました。

 この武昌起義と呼ばれる蜂起の成功は各地に波及し、清朝政府から独立を宣言した各地方政府は、10月24日の陝西省から始まり、湖南、山西、雲南、江西、貴州、(上海)、江蘇、浙江、広西、安徽、広東、福建、奉天、山東、吉林、黒竜江、四川、甘粛(翌年1月6日)へとひろがり、ついに1644年に順治帝のときに入関してから10代267年の清の統治は崩壊したのでした。
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