北東アジア(9)-安禄山(3)

嘉穂のフーケモン

2005年02月19日 08:34

 

 安禄山(705〜757)

 (旧暦  1月 11日)

  瓢々忌  小説家・尾崎士郎の昭和39年(1964)の忌日。 代表作『人生劇場』の主人公・青成瓢吉から瓢々忌と呼ばれる。

 北東アジア(8)-安禄山(2)のつづき

 945年に完成し、唐の成立(618年)から滅亡まで(907年)について書かれた『旧唐書(くとうじょ)』によれば、安禄山は機転が利く愛敬者で、体重は330斤あったと記録されています。唐代の1斤は約600gなので、何と198kgもあったことになります。

 その腹は弛んで膝を過ぎたと云い、玄宗から「一体その中に何が入っているのか」と訊(き)かれ、「臣の腹中は、唯だ赤心のみ」と答えた話は有名です。

 また、玄宗の寵姫・楊貴妃(719〜756)に取り入ってその義子になりたいなどと言い、参内すると先に楊貴妃に挨拶し、「蕃人は母を先にして、父をあとにいたします」と人を笑わせたそうです。

 ひょうきん者で、開けっぴろげで、他人に警戒心をもたれない安禄山は、やすやすと玄宗と楊貴妃の心を掴んだと云います。
 

 楊貴妃(719〜756)

 しかし、宰相李林甫が没すると、楊貴妃の従祖兄(またいとこ)でありその縁故で宰相となった楊国忠と対立、楊国忠がたびたび安禄山に叛意ありと讒言したため、天寶14載(755)に危機感に駆られて禄山は叛乱を起こしてしまいました。

 これが世に云う「安禄山の乱」で、反乱軍は挙兵からわずか1ヶ月で唐の副都というべき洛陽を陥落させました。

 ここで安禄山は大燕聖武皇帝(聖武皇帝)を名乗り、さらに長安へと侵攻を開始、瞬く間に唐の国軍を破り、玄宗は蜀(現在の四川省)に逃亡します。

 その途中の馬嵬(長安より西へ50kmほどの陝西省興平県)で、玄宗に従い逃走した楊国忠は、安禄山の挙兵を招いたとして禁衛六軍の兵士に殺害されました。

 また楊貴妃は楊国忠と同罪であるとして、禁衛六軍の兵士からその殺害が玄宗に対して要求され、やむなく玄宗の意を受けた高力士によって絞殺されました。

 しかしこの頃に安禄山は眼病を患って失明し、疽(悪性のできもの)に悩まされ、遊楽にふけり、粗暴な振る舞いが多くなり、自らの実子安慶緒(?〜759)を廃して、養子に後を継がせようとしたために、安慶緒に殺されてしまいました。

 その後、この乱は安慶緒を殺した安禄山の部下の史思明(?〜761)に引き継がれたために『安史の乱』と呼ばれるようになり、宝応2年(763)まで続きました。
 この乱により唐は大きく傾き、これ以降の唐は斜陽となって天祐3年(907)に滅亡します。

 あ〜疲れた!
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