やまとうた(27)-ゆく春よ しばしとゞまれゆめのくに

嘉穂のフーケモン

2011年08月23日 15:16

 
 
 
 歌人 九条武子夫人

 (旧暦7月24日)

 一遍忌,遊行忌
 時宗の開祖一遍上人の正応2年(1289)の忌日

                            光 明
 ゆく春よ しばしとゞまれゆめのくに うたの國にし あそぶ子のため


 明如上人の弟姫(をとひめ)として、大谷光瑞氏の令妹(いろと)として、わが武子夫人は、御影堂の北、四時(しいじ)の花絶えせざる百花園のうちにうまれぬ。緋の房の襖のおく深くひととなりて、縫の衣に身をよそはれ、數多の侍女(まかだち)にかしづかれ、日毎に遊びつるは、飛雲閣、白書院、黒書院、月花の折々に訪ひつるは、伏見の三夜荘なりき。桃山時代の豪華なる建築、徳川盛期の畫人の筆になれる襖畫は、その目にしみ、心にうるほひて、濶達なる性(さが)とともに、典雅なる質(もとゐ)は養はれき。えにしさだまりて外遊の旅に出で、歐州の國々をゆきめぐりて、世界の文明の潮流をも浴みつ。爾来十年、泰西に研学にいそしまるる背の君を待ちつつ、道のために地方を巡らるる外には、ひとり錦華殿のうちにあした夕べをおくりて、あるは洋琴(ぴあの)を友とし、あるは画筆に親しまる。さはれ、法の道におほしたてられし静かなる胸にも、猶さびしさのみたされざるものあればにや、その折々の思ひはあふれて、數百首のうたとしなりぬ。この金鈴一巻よ、世にうつくしき貴人(あてひと)の心のうつくしさ、物もひしづめる麗人(かたちびと)の胸のそこひの響を、とこしへに傳ふるなるべし。
   
     大正九年六月            
                                        佐佐木信綱
 歌集『金鈴』より

 
 千万(ちよろず)の寶はむなしたふときは おやよりつづくただこの身のみ
                                   九条 武子


 この一首は九条武子の歌集『金鈴』の最後に載せられている歌ですが、日展に連続入選している気鋭の女流書家が、自ら主催した東日本大震災復興支援バザーに対する心ばかりの寄付の御礼として、今回、短冊に書いて贈っていただいた歌でもあります。

 ちなみに、日展についてですが、
「日展」は正式名称「日本美術展覧会」(The Japan Fine Arts Exibition)の略称で、その歴史は以下のようです。

 1. 文部省美術展覧会(初期文展) :明治40年(1907)~大正7年(1918)
 2. 帝国美術院展覧会(帝展)    :大正8年(1919)~昭和10年(1935)
 3. 文部省美術展覧会(新文展)   :昭和11年(1936)~昭和19年(1944)
 4. 日本美術展覧会(日展)     :昭和21年(1946)~


 最初期は第1部「日本画」、第2部「西洋画」、第3部「彫刻」の3部制でしたが、昭和2年(1927)から第4部「美術工芸」が加わり、昭和23年(1948)からは第5科「書」が加わって5科制になっています。
また、平成19年(2007)からは、東京での会場を上野の東京都美術館から六本木の国立新美術館に移しています。

 さて、日展の書の作品の横には、作者名と共に「新入選」、「入選」、「会友」、「会員」などと記入された札が付けてありますが、「新入選」、「入選」は判るとしても、「会友」と「会員」の違いについて識者に尋ねると、「会友」とは公募出品して入選回数が10回以上になった人あるいは特選を1回得た人のことだそうです。
 一般公募者+「入選10回」 又は 「特選1回」 ⇒ 「会友」

 「会員」とは「会友」が更に特選を得ることで次回は「出品委嘱」となり無鑑査出品となりますが、この委嘱者の中から新審査員が選出されます。この新審査員になることが「会員」への仲間入りを示しているそうです。
 「会友」+「特選1回」 ⇒ 出品委嘱 → 新審査員 ⇒ 「会員」

 更に審査員をもう2回歴任すると、「評議員」への推挙対象となります。
 「会員」+更に審査員をもう2回 ⇒ 「評議員」 
 
 さらにさらに、
「評議員」+内閣総理大臣賞 ⇒ 《日本芸術院賞→日本芸術院会員》 ⇒ 『常務理事』

 平成23年(2011)7月1日現在の日展常務理事は、日本画5名、洋画4名、彫刻9名、工芸美術10名、書6名と錚々たる芸術家が名を連ねていますが、このヒエラルキー(Hierarchie、階層制)には、ものすごいものが感じられます。

 このところの日本経済新聞に掲載されている日本画家小泉淳作氏の「私の履歴書」の中で、美術評論家田近憲三氏について書かれた次のような一節があります。

 真面目な人だった。酒は召し上がらず、絵について淡々と語られる。蘊蓄はさすがだった。大物画家の腰巾着みたいな美術評論家もいるが、田近さんは違った。文化勲章、芸術院会員、美大のポスト……。そういうものに執着する人たちを嫌悪した。
 
 さて、九条武子(1887〜1928)ですが、彼女は才色兼備の教育者・歌人として、かの柳原白蓮(1885〜1967)、江木欣々(1877〜1930)とともに大正三美人と称された佳人でした。

  わが声のいと美しうきこゆなり 山ふところの秋草の原

  よみの道をわれひとりゆく心地しぬ 夜半のねざめに虫の音きけば

  須磨明石源氏絵巻の小屏風に 夢まもらせてやはらかに寝(ぬ)る

  黒髪のその一すぢのふるへだに いかでみすべき見すべしやわれ

  銀の鈴金の鈴ふり天上に 千の小鳥は春の歌うたふ

  神の火か魔の火か知らずわれゆかむ その火の光いざなふ方に

  わが血潮高鳴るほかに天地の おとてふものは更にさらになし

  春がすみ峰よりわれにやはらかう 天つ薄衣そとかけてゆく
 
  ものうさに二日こもりてつくろはず 我が黒髪もかなしかりけり

  歌集『金鈴』より


 西本願寺第21代門主大谷光尊(明如)の次女として京都で生まれた武子は、明治42年(1909) 、九条公爵家の三男、九条良致(よしむね)に嫁ぎましたが、翌年、夫の転勤に伴いロンドンに随行します。
 しかし、1年半の滞在の後に単身帰国、京都本願寺百花苑の錦華殿に移って、佐々木信綱に師事し、『金鈴』『薫染』などの歌集を上梓しています。

 大正11年(1922)、夫の帰国とともに東京築地本願寺の邸に移り住み、大正12年(1923)9月1日の関東大震災以降は、西本願寺が開設した救護所で人々の救済に尽くし、また、西本願寺仏教夫人会会長、東京真宗人会会長、六華園長として社会慈善事業に努め、その行動は全国、台湾、満州にまで及びました。

 また、文筆活動にも力を注ぎ、和歌、随筆等は、戯曲「洛北の秋」も含めて、昭和2年(1927)に出版された随筆『無憂華』に収められています。

 昭和3年(1928)2月7日、敗血症のため42歳の若さで亡くなっています。

 聖夜

   
 星の夜ぞらのうつくしさ
   
 たれかは知るや天のなぞ
   
 無数のひとみかゞやけば
   
 歓喜になごむわがこゝろ

   

 ガンジス河のまさごより
   
 あまたおはするほとけ達
   
 夜ひるつねにまもらすと
   
 きくに和めるわがこゝろ



 

 青函連絡船 翔鳳丸 大正13年(1924)〜昭和20年(1945)
 翔鳳丸は、昭和20年(1945)7月14日、青森港外で投錨中に米軍の空襲を受け15時55分に沈没。47名が戦死。
 
 随筆『無憂華』の中に収められている歌日記に、「北海道の旅」があります。
上野から札幌に向かう途上、青函連絡船「翔鳳丸」での様子が書かれた、今となっては珍しい記述があります。

 私「嘉穂のフーケモン」の時代は、十和田丸、摩周丸、羊蹄丸、八甲田丸等にお世話になりましたが・・・。

 わすれたるともしびのやう月見草 あかるう見ゆも目ざめし窓に
   
 ひえ/゛\と雨にあけたる磯村の まばら屋並に朝烟りたつ
   
 ひねもすを車にあればおりてふむ ながきホームのあゆみうれしも
   
 疲れすこしおもきひたひを霧雨の つめたうしぶく青森の朝



 六時すぎに列車は青森に着いた。降りた人達はさもホツとした顔つきをして、冷い湿つぽい朝風にふかれつゝ、長い/\ホームを忙しさうに、連絡船さして流れるやうにゆく。
 船のデツキと並行して、待合室が、広い階段をあがつた上にあるのも、この駅らしいと思つた。
 

 連絡船はすぐ前に横づけられてあつた。翔鳳丸といふ名はなくなられた大木伯がつけられたといふ、特種な形をした三千五百トンの美しい船である。貨車、小荷物、郵便車が二十五車そのまゝ船尾から船内レールにひき込まれる装置になつてあつた。内部の設備も気もちよく、ことに手洗場などの完全さは、汽車から乗換たまゝで、清潔と水の潤沢とをもつて、心ゆくばかり煤煙を洗ひおとすことが出来た。

 この航送船によつて、ことしの夏は北海道の青物市場にも、どし/\大和の西瓜が出るやうになつたといふ話も聞いた。今までは六度つみかへねばならなかつた為に大方は割れてしまつて、漸く運ばれたものは、市場でおもはぬ高価を呼んだとのこと、これも航送船が恵んだ、北海の人の小さなよろこびのひとつであらう。


 朝もやに霧雨がにじむ青森湾から、津軽海峡さして静かに出て行く。舳の波がまつ白な花櫛のやうな形しては散りつゝ消える。鴎が慕つてくる。マストにあたる東風はつよいほどでもないのに、快よい唸りをたてゝゐた。けれども重たさうな空は何だか嵐を呼んでゐるのではあるまいか。心もとなさにデツキに出て陰惨な北の海づらをながめるに、一つの船かげだに見えない。いつもながら北海道に渡る心もちを深くせずにおかぬ。

 船長がそこへ見えた。
「嵐になるのぢやないでせうか」
「さア大丈夫でせう、この位なれば……。しかしきのふ上海の北にあつた低気圧は七二八といふ非常に低いものでしたから、それがくれば一荒れやりませうが、尤もオホツク海の高気圧が動かなければ、北へそれてしまふわけですから……」とポケツトの気象図を出して見せられた。
「この海峡は随分荒れるのでせう。冬は休航になることも御座いますか」
「なにこの翔鳳丸などは休航は絶対にしませぬ。然し冬期は大変です。この春でした、レールに入つてある貨車が三尺ばかり持ちあげられて、三輌滅茶々々になつたことがありました。そのときはこの船も二十五度に傾いたのです」と当時を思ひだして語る人に、夏の海はそしらぬ静けさに藍をたゝへてゐる。

 
 船客たちは海豚の群でも見えようかと、冷やかな風にふかれつゝ、濃藍の海を見入つてゐるけれども、群はおろか一疋も出てこない。海豚は大てい嵐の前には必ず出てくるのですがと、空を見ながら船員がいふ。東風がだん/\つよくなつて来た。
 船長は再び来られて、「今無線電信が入りまして、低気圧の中心は朝鮮の北部に上つて北北東に進行してゐるさうですから大丈夫です御安心なさいませ」と親切にも知らせに来てくれた。けれども大間崎をはなれるころから大洋の力づよい大きなうねりがやつて来て、船はすこしくローリングをはじめだした。

 笑はれても早々船室に入つた。
 それも一時間ばかりで静かになつたので、そつと首をもたげて見ると、船窓には函館の山が見え、町が近づいて来た。入りぶねも出ぶねもすくない港は、なんとなく北海のさびしさを思はせられる。ほそい雨がまたふりだした。まひるを靄がぼんやりと包みこまうとしてゐる。船はたくみに桟橋に横づけられた。

   
 
 ほそながくましろきつばさかへしつゝ 船により来ぬ港の鳥は
   
 やうやくに来し心地さへわすらえて 言葉かはしつ函館の友に
 


 親しい人達がたくさん迎へてくれられた。帰途には大沼公園へとの好意をよろこびつゝ、直に札幌にむかふ。

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