漢詩(28)ー毛澤東(2)−沁園春 長沙

嘉穂のフーケモン

2011年07月23日 13:13

 

 橘子洲

 (旧暦6月23日)

 沁園春 長沙
 一九二五年


 獨立寒秋        獨り 寒秋に立てば
 湘江北去        湘江は 北に去る
 橘子洲頭        橘子洲頭(きつししゆうとう)
 看萬山紅遍       看よ 萬山の紅きこと遍(あまね)く
 層林盡染        層林 盡(ことごと)く染まるを
 漫江碧透        漫江 碧(あお)く透み
 百舸爭流        百舸 流れに爭ふ
 鷹撃長空        鷹 長空を撃ち
 魚翔淺底        魚 淺底に翔(ひるが)へる
 萬類霜天競自由     萬類 霜天に自由を競ふ
 悵寥廓         寥廓を悵(なげ)き
 問蒼茫大地       蒼茫たる大地に 問ふ
 誰主沈浮        誰か 沈浮を主(つかさど)ると

 携來百侶曾游      百侶を携へ來りて 曾て游べり
 憶往昔 崢嶸歳月稠   往昔を憶へば  崢嶸(さうくわう)として  歳月 稠(おほ)し
 恰同學少年       恰(まさ)に 同學 少年にして
 風華正茂        風華 正に茂れる
 書生意氣        書生の 意氣は
 揮斥方遒        揮斥(きせき)して 方(まさ)に遒(つよ)し
 指點江山        江山を 指點(してん)し
 激揚文字        文字に 激揚し
 糞土當年萬戸侯     當年の 萬戸侯を糞土とす
 曾記否         曾て 記すや否や
 到中流撃水       中流に到りて 水を撃てば
 浪遏飛舟        浪 飛舟を 遏(とど)めたるを


 独り 晩秋の岸辺にたたずめば
 湘江は北へ流れ去る
 橘子洲の南端
 見よ 山々は全て紅く
 山腹に重なる木々は ことごとく紅葉となる
 水面は一面 青く澄み
 多くの舟が 流れに逆らって上る
 鷹は大空を羽ばたき
 魚は浅瀬でひるがえる
 命あるもの 霜天の下 自由に生きる
 天を恨み
 果てしなく広がる大地に問う
 人の世で 誰が浮き沈みを司っているのか

 かつて多くの友人と集い来て この地で青春を過ごした
 昔を顧みれば なみなみならぬ歳月が積み重なる
 私たちは皆若く
 花の盛りだった
 書生の意気は
 奔放でまさに強く
 国事を論じ
 文章に激昂し
 世の軍閥を罵倒した
 友よ 覚えているだろうか
 湘江の中ほどで水を撃ち 
 祖国の回復を誓ったとき
 激しい波が 飛ぶように速い舟さえ止(とど)めようとしたことを


 詞は、中国における韻文形式あるいは歌謡文芸の一つとされています。
詞調に合わせて詞が作られますが、詞調には特定の名称が決められており、これを詞牌と呼んでいます。詞の題名には詞牌が使われており、詩のような内容による題はつけられないきまりがありますが、その代わりに詞牌の下に詞題が添えられたり、小序が作られたようです。

 「沁園春」はこうした詞牌のひとつで、114字、双調(詞の段落が上下2つある形式)から成り立っています。
 したがって、詞牌が「沁園春」、詞題が「長沙」となるようですね。

 『沁園春 長沙』は毛澤東数え年33歳の作で、公表された作品の中ではこれが一番早く、「壮年期に達した作者が心中に決意するところがあって過去を追想し、自己の前半生に一種の総括を行っているので、今後の詩の世界の導入部の役割を果たしている」と竹内実氏はその著『毛沢東その詩と人生』で述べています。
 
 中国の南部に位置する湖南省の省都「長沙」は、古い歴史を有する都市であり、また、湖南省の経済の中心地としても発展してきました。

 明治40年(1907)、長沙を訪れた東京帝国大学文科大学助教授宇野哲人(1875〜1974)は、その著『支那文明記』で当時の長沙を次のように描写しています。

 諺に湖南は六水三山一耕地と稱して耕地は割合に多くはないが、又湖廣熟天下足(湖廣熟れば天下足る)と稱せらるゝ肥沃の土である。其貨物に富むことを以て推知すべきである。而して長沙は其省城の在る所、人口凡そ五十萬あり、其市街は輻(はば)僅(わずか)に二三間極めて狭隘なるが為め、坡子街(はしがい)、南正街、太平街および青石橋の如き繁華の街は或は轎(けう;かご)を飛ばし、或は洋車(ヤンチョ;人力車)を馳せ、負ふもの荷(にな)ふもの、來往織るが如く、眞に肩摩轂撃(けんまこくげき;人の肩や車輪がふれあう)の狀がある。粤漢鐵道(広州−漢口間鉄道)開通の曉を待たずとも、洞庭を控へ湘江を帯び、水運の便遺憾なく、長沙は實に湖南に於ける貨物の一大集散地である。

 獨り貿易上のみならず、由來健兒多き湖南の地、慷慨気節の士も亦少なからず、且つ湖南紳士比地方官大(湖南の紳士は地方の官より大なり)と稱せられ、北京朝廷に在りても湖南人は重きをなし、隠然一敵國の觀をなして居る。もし將來支那の局面開展する期(とき)あらば、湖南人は其重要なる部分を占むること疑なかるべし。斯の如くなれば、之を經済上より見るも、湖南は必らず閑却すべからざる所である。况んや湖南文明は殆んど我國文明の由來する所かと思はるゝ斗類似し、湘山湘水宛として鄕國の觀あるをや。唯長沙の地卑濕を以つて稱せらるれども、濕氣多き祖國に慣れたる我同胞には何等の碍(さまたげ)あるまいと思ふ。具眼の士請ふ獨り大江(長江)に止まらずして直ちに長沙に往け。


 長沙において毛澤東は、二十代のほとんど全ての時期、いわば人格形成期都も云うべき時期を過ごしており、青年らしい社会活動やそののち中国共産党の一員として活動したのもこの長沙においてでした。
 
 毛澤東と「長沙」の関係は、1911年にはじまります。
 当時の長沙は改革の気運に満ちあふれていました。老朽化した清朝の改革あるいは革命を実行しようとする知識人が、活発な活動と激烈な言論戦を展開して当時の中国をリードしていたのが湖南省であり、長沙であったと云われています。

 その前年の秋、湘潭県城の米屋に奉公に行かせようとした父順生を説得した16歳の毛澤東は、湘郷県城郊外東台山麓にある湘郷県立東山高等小学堂に入学して寄宿舎に入ります。

 入学試験の作文「言志」で、毛沢東は『盛世危言』を読んで知った教育救国の思想を表し、学業を研鑽して国を救うと志をつづり、李元甫校長に「建国の人材」と評価され、12歳という年齢制限を越えたにも関わらず、特別に入学を許され、第5班(戊班)に編入された。
 論文:「毛沢東の教育思想」形成における青少年期の学習体験
 中国社会科学院 マルクス主義研究院 鄭萍副研究員 


 『盛世危言』とその著者鄭觀應については、神田神保町にある(株)東方書店の
 盛世危言 上、下 鄭觀應文獻選集 精装 〔清〕鄭觀應 著 上海圖書館 澳門博物館 編
の案内には、次のように在ります。

 鄭観応(1842〜1921)は、民主と科学の序幕を開いた近代中国の最初の維新思想家である。その代表作《盛世危言》は、清代後期の中国は政治・経済・教育・輿論・司法など社会生活の多くの面で西側に遅れを取っており、全面的に西方の社会を学び、中国社会に根本的な改造を加えなければならないと主張したため、近代中国において伝統社会から現代社会への転身を論述す最初の著述と位置づけられている。

 1911年春(満17歳)毛沢東は、中学堂への進学を勧められた。東山高等小学堂の教員賀嵐岡が長沙にある湘郷駐省中学堂で教鞭をとることになったので、連れて行ってもらい、有名な湘郷駐省中学堂(現在の湘郷第一中学の前身)に入学して、予科で半年勉強した。
 (中略)
 湘郷駐省中学堂時代、毛沢東の思想にまた変化が起きた。彼はここで儒教的な大同思想と西洋の平等の観念を導入した孫文らの共和革命の思想を受け入れたのである。于右任が編集した革命派の新聞『民立報』を読み、「韃虜を駆除して中華を恢復する、民国を創立する、地権(土地所有権)を平均にする」という孫文ら率いる同盟会の綱領に感銘を受け、「打倒清王朝」というタイトルをつけた文章を書いて学堂の壁に貼り出して、孫文と康・梁から構成する政府をつくるという政治見解を発表した。孫文と康有為らの違いもまだ理解していなかった毛沢東だったが、清朝の良民としてのシンボルだった辮髪を切り落とし、民族主義を意識した漢民族中心の近代的な民主主義国家を建てることへと信仰を変えた。そして、革命に助力するため、1911年10月(満17歳)に退学して革命新軍に入隊した。
 論文:「毛沢東の教育思想」形成における青少年期の学習体験
 中国社会科学院 マルクス主義研究院 鄭萍副研究員 

 民国元年(1912)、清朝の崩壊と孫文(1866〜1925)、袁世凱(1859〜1916)の南北和議成立のため、毛澤東は革命は終わったと思って軍隊を除隊し、湖南公立高等商業学校に1ヶ月就学した後、湖南全省公立高等中学校に就学しましたが、学校の課程・校規を嫌って中退、のち、湖南省立図書館に半年ほど通って独学し、世界地理・世界歴史を修学しています。
 
 民国2年(1913)春(毛澤東満19歳)、湖南公立第四師範学校の学生募集広告を新聞で見つけ、二人の友人の作文の代作も引き受けて三人分合格し、寄宿制度と食費と月謝無料の最低保障のもとに、五年間の師範学校生活がはじまりました。

 
 徐特立先生と若き日の毛澤東

 翌民国3年(1914)秋、湖南省立第一師範学校に合併されますが、この5年間の正規の師範教育の期間中、楊昌済(1871〜1920)、徐特立(1877〜1968)という良き師に巡り会い、蔡和森(1895〜1931)、張昆弟(1894〜1932)、陳昌(1894〜1930)、郭亮(1901〜1928)、向警予(1895〜1928)、羅学瓉(?〜1928)、夏曦(1901〜1936)、何叔衡(1876〜1935)といった新民学会あるいは湖南学生連合会の友人達と出会っています。

 さて、沁園春長沙の第三連にある橘子洲は湘江に浮かぶ中州で、第一師範学校時代の毛沢東が勉強の合間にしばしば散策し、水泳に興じたところとされており、現在、 橘子公園として市民の憩いの場となっているようです。
 ミカンなどの柑橘類が多くとれたために、橘子洲と呼ばれるようになったとのことです。
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