となり村名所あんない(33)−台東村(3)−子規庵

嘉穂のフーケモン

2011年06月16日 22:15

 

 子規庵表門

 (旧暦5月15日)

 台東村の根岸2丁目5番11号にある子規庵は、明治を代表する俳人、歌人である子規こと正岡常規(1867〜1902)が、明治27年(1894)2月に故郷松山より母八重(1845〜1927)と妹律(1870〜1941)を呼び寄せて移り住んだ場所として有名です。

 いつもの通りジョギングで、板橋村から王子、田端を経て、皇居へ向かう途中に立ち寄りました。 
 
 昭和27年(1952)に東京都文化史蹟に指定されて現在に至っている子規庵の建物は、財団法人子規庵保存会のHP(http://www.shikian.or.jp/)によれば、「旧前田侯の下屋敷の御家人用二軒長屋といわれています。」とのことです。

 旧前田侯と云えば加賀藩102万5千石を領していた旧前田侯爵家だし、下屋敷と云えば板橋村の我らが下屋敷以外に考えられないし、「なに〜い!いったい、どないなってんねん!」と怒りを覚えつつも不明を恥じながら調べてみました。

 「根岸倶楽部」の立案及び国語学者大槻文彦博士(1847〜1928)の編集により、根岸の道しるべの図として明治34年(1901)に刊行された『東京下谷根岸及近傍圖』(東京都立中央図書館特別文庫室蔵)では、子規庵がある上根岸82番地は前田家と記載されていました。
 
 『東京下谷根岸及近傍圖』は、東京都立中央図書館では貸出不可、閲覧注意となっているため、わざわざ港村南麻布の有栖川宮記念公園内にある都立中央図書館特別文庫室まで確認に行きましたがな。

 この図には、現在の台東区根岸及び荒川区東日暮里4〜5丁目付近の旧地番と主な旧跡や店舗名等が記載されており、地図の余白には40の項目で旧跡や名物の解説を行っています。

 ここで「根岸倶楽部」とは、小説家、演劇評論家饗庭篁村(1855〜1922)、翻訳家森田思軒(1861〜1897)を中心に、演劇評論家幸堂得知(1843〜1913)、日本画家高橋應眞(1855〜1901)、児童文学者高橋太華(1863〜1947)、東京美術学校第2代校長岡倉天心(1863〜1913)、日本画家川崎千虎(1837〜1902)、随筆家中井錦城(1864〜1924)、小説家宮崎三昧(1859〜1919)、小説家幸田露伴(1867〜1947)、日本新聞社長陸羯南(1857〜1907)、小説家須藤南翠(1857〜1920)などの根岸に住む文人たちの集まりの総称で、根岸派、根岸党とも云われていました。

 また、日本初の近代的国語辞典『言海』の編纂者として著名な言語学者、帝国学士院会員大槻文彦博士(1847〜1928)は、明治17年(1884)に根岸に移り住み、明治34年(1901)に金杉258番地(現在の荒川区東日暮里四丁目21番地)に家を新築。その後、昭和3年(1928)に亡くなるまでここで暮らしています。

 荒川区日暮里、台東区根岸を中心に土地の歴史を、江戸時代から現代まですこしずつ掘り下げてゆき、その報告の場としているHP、『ディープに迫る!日暮里と根岸の里』http://nippori-negisi.seesaa.net/)では、下記のように解説しています。

 前田家(上根岸82)
 加賀前田侯爵家。本間家から明治初期に購入したもののようである。
 板塀にそふて飛び行く蛍哉   <子規 明治27>
 加賀様を大家に持って梅の花  <子規>


 なるほど、それならば納得。

 加賀藩の下屋敷は、我が板橋村以外にはありませんぞ! 文京村の上屋敷(東京大学)、何するものぞ!
 
 根岸前田家近傍図

 さらに同HPの2006年11月22日の解説では、

 「当、上根岸は日光山輪王寺御官坊本間相模守の永代所持の副屋敷にて、建て家・庭石・樹木などもそのままである。明治元年以降、本間氏は柳原謙吾へ建て家だけ譲り、本間氏は本屋敷で暮らした。その後、本間氏は本屋敷を加賀前田家へ譲り、柳原氏から副屋敷を取り返してそこで暮らした。それから本間氏は町人の村田氏へ副屋敷を譲渡した。さらに村田氏は旧土佐藩の伊賀氏へ譲った。明治14年に伊賀氏から譲り受けた伊藤悦子、佐藤為信、宮田正之ならびに与惣治らの希望により、同年10月20日八石教会出張所と定めた。庭木に松が5本ありこれが珍しい木なので嬉しいから、この建物を松翠堂と号することとする」
(「東京登乃記」幽学記念館所蔵 明治15年9月2日の記述を現代風に書き換えたもの)

とあります。

 また、上記の「八石教会出張所」についても、

 大原幽学(1797-1858 江戸期の農村指導者)の教えを奉じ、農作業を実践した教団。ここは男子用の施設であり、女性用の施設は下根岸にあり、北大久保1056(現在の西日暮里4丁目27番地付近)にも支部があった。本部は現在の千葉県旭市長部(現在もここに旭市立大原幽学記念館がある)。石毛源五郎(1832-1915)が3代目教祖となった1874年(明治7)以降旧幕臣の入門が相次ぎ、これまでの農村共同体的な組織から反文明開化、反明治的な精神教団として変質した。東京の組織の証言として、「どこまでいくにも徒歩」「髪は切らない」「どんな小さな子でも髷を結う」「収入はすべて教会に納める」「魚は食べるが肉は食べない」「洋傘や外套は用いない」といった表面的な特徴がみられたという。
 当所は1881(明治14)年10月20日に上根岸の出張所として定められた。


 と解説しています。

 ついでに、子規庵についての解説は、

(上根岸82)正岡子規宅 
 正岡子規(1867-1902 本名 升 愛媛松山藩出身。名は常規、号は獺祭書屋主人、竹の里人)上根岸88番地の陸家の道向かいで明治25年2月~27年1月まで暮らした後、明治27年2月から死去する35年9月までを82番地で過ごした。明治30年の家賃は5円、明治34年で6円50銭であった。革新俳句の「根岸派」(高浜虚子、河東碧梧桐、伊藤左千夫、中村不折、長塚節、夏目漱石)を組織するとともに、万葉調写生主義短歌のグループ「根岸短歌会」(1898(明治31)年~ 伊藤左千夫、岡麓、香取秀真、平福百穂)を立ち上げる。代表作「歌よみに与ふる書」もこの地で書かれたもの。子規全集などの純益により大正12年、1万5千円で前田家から土地を買い取る。昭和2年4月、財団法人子規庵認可。昭和20年4月、空襲のため土蔵を残して全焼。間取りそのままに再建。庭には鼠骨句碑「三段の雲南北す 今朝の秋」がたつ。
 名月や われは根岸の四畳半 <子規 明治26>
 萩桔梗撫子なんど萌えにけり <子規 明治29病起小庭を歩きまわりて>

 
 子規の代表的歌論である『歌よみに与ふる書』はこの子規庵で書かれ、明治31年(1898)2月から10回にわたって新聞「日本」紙上に掲載されたもので、『万葉集』に極めて高い評価を与え、万葉への回帰と写生による短歌を提唱しました。しかし、和歌の規範ともされていた『古今和歌集』を「くだらぬ集にて有之候」と否定し、更に古今集の選者である紀貫之(866,872?〜945?)を「下手な歌よみにて」と酷評しているところは拒否感を示す文学者が多いとされているようですが、その大胆さと独創性には驚嘆させるものがあります。

 再び歌よみに与ふる書
 貫之は下手な歌よみにて『古今集』はくだらぬ集に有之候。その貫之や『古今集』を崇拝するは誠に気の知れぬことなどと申すものの、実はかく申す生も数年前までは『古今集』崇拝の一人にて候ひしかば、今日世人が『古今集』を崇拝する気味合は能く存申候。崇拝してゐる間は誠に歌といふものは優美にて『古今集』は殊にその粋を抜きたる者とのみ存候ひしも、三年の恋一朝にさめて見れば、あんな意気地のない女に今までばかされてをつた事かと、くやしくも腹立たしく相成候。

 先づ『古今集』といふ書を取りて第一枚を開くと直ちに「去年とやいはん今年とやいはん」といふ歌が出て来る、実に呆れ返つた無趣味の歌に有之候。日本人と外国人との合の子を日本人とや申さん外国人とや申さんとしやれたると同じ事にて、しやれにもならぬつまらぬ歌に候。この外の歌とても大同小異にて駄洒落か理窟ツぽい者のみに有之候。それでも強ひて『古今集』をほめて言はば、つまらぬ歌ながら万葉以外に一風を成したる処は取得にて、如何なる者にても始めての者は珍しく覚え申候。
 ただこれを真似るをのみ芸とする後世の奴こそ気の知れぬ奴には候なれ。それも十年か二十年の事ならともかくも、二百年たつても三百年たつてもその糟粕を嘗めてをる不見識には驚き入候。何代集の彼ン代集のと申しても、皆古今の糟粕の糟粕の糟粕の糟粕ばかりに御座候。

 貫之とても同じ事に候。歌らしき歌は一首も相見え不申候。かつて或人にかく申候処、その人が「川風寒み千鳥鳴くなり」の歌は如何にやと申され閉口致候。この歌ばかりは趣味ある面白き歌に候。しかし外にはこれ位のもの一首もあるまじく候。「空に知られぬ雪」とは駄洒落にて候。「人はいさ心もしらず」とは浅はかなる言ひざまと存候。但貫之は始めて箇様な事を申候者にて古人の糟粕にては無之候。
 詩にて申候へば古今集時代は宋時代にもたぐへ申すべく、俗気紛々と致しをり候処はとても唐詩とくらぶべくも無之候へども、さりとてそれを宋の特色として見れば全体の上より変化あるも面白く、宋はそれにてよろしく候ひなん。それを本尊にして人の短所を真似る寛政以後の詩人は善き笑ひ者に御座候。
 後略  
 (明治三十一年二月十四日)

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