秋津嶋の旅(14)-西海道(2)-阿蘇火山

嘉穂のフーケモン

2009年05月14日 11:04

 
 高千穂峡真名井の滝

 (旧暦 4月20日)

 長い黄金週間、皆さんは「どげんされよんなさった」ですかの?
 おいどんは、亡父の法事を兼ねて筑紫の国に下向しておりもしたが、妹が「ぜひに」というもので、高千穂~阿蘇~熊本~太宰府と中部九州を大旅行してきましたぞ。

 国の名勝、天然記念物に指定されている高千穂峡谷の見事さに、なぜこの様な峡谷ができたのかを調べてみました。
 
 それによると、約27万年前頃から始まった阿蘇外輪火山の大規模な4回の噴火活動の内、後半の今から約12万年前(Aso-3)と約9万年前(Aso-4)の噴火により流出した火砕流が五ヶ瀬川に沿って30km以上の帯状に流出し、その堆積物が600℃以上の高温と自重のために圧縮溶結して溶結凝灰岩(welded tuff)と呼ばれる堆積岩に変成した。

 この火砕流堆積物の溶結した部分は、冷却される際に体積が減少することから地表面に亀甲状の割れ目ができ、直径1m前後の大きな柱状節理(columnar joint)と呼ばれる柱状の構造を形成した。

 また、この溶結凝灰岩は川などによって侵食されやすいため、しばしば深い谷や滝など特徴的な地形を形成するが、これが五ヶ瀬川の浸食によってV字峡谷となったものが高千穂峡であり、高さ80m~100mにものぼる断崖が20kmにわたって続いている。


 なるほど。阿蘇から30km以上離れているのに、あれだけ巨大なV字峡谷を作るとは、噴出した火砕流堆積物も莫大な量だったのでしょう。

 さて、推古天皇15年(607)、隋に派遣された小野妹子が携えた国書、「日出づる處の天子、書を日沒する處の天子に致す。恙無しや、云々」で有名な『隋書』東夷俀國傳の前文の記述には、下記のような阿蘇山の記述があります。

 有阿蘇山、其石無故火起接天者、俗以爲異、因行祷祭。有如意寶珠、其色青、大如雞卵、夜則有光、雲魚眼精也。
 『隋書』 卷八十一  列傳第四十六 東夷 俀國

 阿蘇山有り。その石、故無くして火起こり、天に接する者、俗を以って異と為し、因って祷祭を行う。意の如くなる宝珠有り、その色青く、大きさは鶏卵の如し、夜は則ち魚の眼精のごとき光あり。

 「アソ」という言葉は、アイヌ語の「火を噴く山」という意味で、同じ意味をアイヌ語で「アサマ」、「アソウマイ」などとも言うそうです。
 また、『日本書紀』の景行天皇十八年の記述には、

 到阿蘇國也。其國郊原曠遠、不見人居。天皇曰、是國有人乎。時有二神。曰阿蘇都彦、阿蘇都媛。忽化人以遊詣之曰、吾二人在、何無人耶。故號其 國曰阿蘇。
 『日本書紀』 巻七 景行天皇十八年六月丙子
 

 阿蘇國に到る也。其の國、郊の原曠(ひろ)く遠くして、人の居(いへ)を見ず。天皇の曰く、「是の國に人有りや」とのたまふ。時に、二(ふたはしら)の神有す。阿蘇津彦(あそつひこ)、阿蘇津媛(あそつひめ)と曰ふ。忽(たちまち)に人に化(な)りて遊詣(いた)りて曰く、「吾二人在り。何(あ)ぞ人無けむ。」とまうす。故(かれ)、其の国を號(なづ)けて阿蘇といふ。
 さらに、失われた『筑紫風土記』の逸文(かつて存在していたが、現在は伝わらない文章のことで、他書などに引用などの形で伝えられている文章のことを指すこともある)である『釋日本紀』の 「二神曰阿蘇都彥阿蘇都媛」條には、次のように記述されています。 

 筑紫の風土記に曰はく、肥後(ひのみちのしり)の國閼宗(あそ)の縣。縣の坤(ひつじさる:西南)のかた廾餘里に一つの禿(あかはだか)なる山あり。閼宗(あそ)の岳と曰ふ。
 『釋日本紀』 卷十 「二神曰阿蘇都彥阿蘇都媛」條 


 古くから火の国肥後のシンボルとして多くの人に親しまれてきた阿蘇山は九州を代表する火山ですが、そのカルデラも大きく、美しく、人々を魅了して止みません。
 その大きさは東西約18km、南北約25km、周囲約128km、中心部には最高峰の高岳(1,592m)、活発な活動をして噴煙を上げている中岳(1,506m)、そのギザギザの山容が猫に似ていることから名付けられた根子岳(1,408m)、烏帽子岳(1,337m)、杵島岳(1,270m)といった阿蘇五岳を中心とした阿蘇中央火口丘群があり、南に南郷谷、北に阿蘇谷の火口原があります。

 
 Aso-4噴火時における阿蘇火砕流の分布

 阿蘇火山の生成過程については、次のよう順序になっています。

 1. 更新世初期(200~60万年前)
   豊肥火山活動の時代で、中部九州各地で噴火がおこり、坂梨、遠見ヶ鼻、宮地、式見の火山岩類は、傾斜のゆるい旧火山体やテーブル状の溶岩台地からなる旧火山体ができた。一部に溶岩円頂丘や岩脈が貫入した。

 2. 更新世中期(60~30万年前)
   豊後火山活動の時代で、豊肥溶岩の台地の上に万年山(はねやま)溶岩が流出し、ややおくれて北方で耶馬溪火砕流の噴火がおこった。

 3. 更新世中期~後期(30~9万年前)
   阿蘇外輪火山の大活動の時代で、4回にわたる大規模な火砕流活動があり、複合広域熱雲式噴火の噴出物は九州一円に及び、溶結凝灰岩となった。

 阿蘇外輪火山の活動は、約27万年前頃から始まり(Aso-1)、約14万年前(Aso-2)、約12万年前(Aso-3)、約9万年前(Aso-4)の4回にわたって大規模な噴火活動を行っているが、特に4回目の約9万年前(Aso-4)の噴火はその中でも特に規模が大きく、その火砕流堆積物は海を隔てた島原、天草や200km以上離れた山口県の秋吉台、宇部周辺でも確認されている。

 その噴出物は富士山の山体とほぼ等しい600km³以上に達し、火砕流は九州の半分を覆ったと推定されている。これらの噴火活動により、地下の大量のマグマが火山砕屑物や火山灰として地上に放出され、そのため地下に巨大な空間ができ、その後陥没が起きて大きなカルデラが形成されたと考えられている。

 4. 更新世後期
   約27万年前の噴火(Aso-1)直後に陥没によってカルデラが生じ、その後の噴火ごとに次第に拡大され、約9万年前の噴火(Aso-4)の後に現在のカルデラの形が形成された。

 5. 更新世末期~現代
  (1) 古阿蘇カルデラ湖
     陥没してできたカルデラの火口原に雨水がたまって湖水となった。このカルデラ湖となった時期は少なくとも2回あると考えられていて、阿蘇市一の宮町片隅のボーリング調査では約300mの厚さで凝灰岩、凝灰質シルト岩、礫岩などの湖底堆積物が確認されており、古い時代のものは、南郷谷西部の久木野層を堆積させた湖で、新しいものは阿蘇谷を埋積して現在の平坦面を作った湖である。その時期については、約2万年まえから約9千年前までの期間と推定されている。

  (2) 中央火口丘群の形成
     Aso-4火砕流の流出によって生じたカルデラの中に、まだ湖水が存在していた時期に次の火山活動が始まり、中央火口丘が次々に作られた。中央火口丘は独立の山体として17あるが、初期の火口丘は後期の火山噴出物に覆われて見えなくなっていると考えられている。

 その後、断層あるいは浸食によって立野火口瀬ができて湖水は流出し、現在に至っている。

 おしまい
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