パイポの煙(28)−危急存亡の秋(3)

嘉穂のフーケモン

2006年06月10日 09:31

 

 Zhuge Liang(諸葛亮)
 An artist impression of Zhuge Liang holding his trademark feather fan.


 (旧暦  5月15日)

 源信忌、惠心忌  平安中期の天台宗の僧源信の寛仁元年(1017)の忌日。 比叡山横川の恵心院に隠棲したので惠心僧都とも呼ばれ、寛和元年(985)、『往生要集』を著した。

 平安末期の歌人藤原清輔(1104〜1177)が保元三年(1158)に著した和歌の百科全書とも云うべき『袋草紙』によれば、

 恵心僧都は、和歌は狂言綺語なりとて読み給はざりけるを、恵心院にて曙に水うみを眺望し給ふに、沖より舟の行くを見て、ある人の、「こぎゆく舟のあとの白浪」と云ふ歌を詠じけるを聞きて、めで給ひて、和歌は観念の助縁と成りぬべかりけりとて、それより読み給ふと云々。さて廿八品(法華経二十八品をそれぞれ和歌に詠んだもの)ならびに十楽の歌(極楽浄土で受ける十の楽しみを詠んだ歌)なども、その後読み給ふと云々。

 法華経薬草喩品の心をよみ侍りける
 大空の雨はわきてもそそがねど うるふ草木はおのがさまざま (千載1250)



 パイポの煙(27)−危急存亡の秋(2)のつづき

 諸葛亮、字は孔明、琅邪陽都(現在の山東省臨沂市沂南県)の人なり。漢の司隸校尉(首都洛陽・長安を含む州の長官)諸葛豐の後なり。父は珪、字は君貢、漢の末に太山郡(現在の山東省泰安市)の丞(副長官)と為る。

 亮(諸葛亮)早く孤(孤児)にして、從父(父方の叔父)玄(諸葛玄)、袁術(後漢末期の群雄)の署する所の豫章太守(揚州豫章郡の長官、現在の江西省南昌市)と為り、玄(諸葛玄)亮及び亮弟均(諸葛均)を將(ひき)いて官に之(いた)る。
 漢朝(後漢の朝廷)更に玄(諸葛玄)に代えて朱皓[後漢末の将軍朱儁(しゅしゅん)の子]を選び會(あてはめ)しむ。玄(諸葛玄)素(もと)より荊州(湖北省襄燓市襄陽県)の牧(州の長官)劉表與(と)舊(旧交)有り、往きて之に依る。

 玄(諸葛玄)卒し、亮(諸葛亮)躬(みずから)隴畝(ろうほ、畑)に畊(たがや)し、好んで梁父吟を為す。

 身長八尺、毎(つね)に自らを管仲、樂毅に比し、時に之を許す人莫き也。惟だ博陵(冀州博陵郡、現在の河北省安平県周辺)の崔州平(後漢の大尉崔烈の子)、潁川(豫州潁川郡、現在の河南省許昌市周辺)の徐庶元直(中国三国時代の武将)與(と)亮(諸葛亮)善き友たり、信じて然りと為すと謂へり。
 [三國志卷三十五 蜀書五 諸葛亮傳第五]


 幼くして父諸葛珪を亡くした孔明は、弟の諸葛均とともに父方の叔父である諸葛玄のもとへ身を寄せますが、諸葛玄は後漢末期の群雄袁術の命を受けて豫章(揚州豫章郡、現在の江西省南昌)太守に任じられ、諸葛亮と弟の諸葛均を連れて豫章(現在の江西省南昌)に赴任します。

 しかし後漢の朝廷は、将軍朱儁(しゅしゅん)の子の朱皓を改めて豫章太守に任じたため、諸葛玄は旧知の荊州(湖北省襄燓市襄陽県)の牧(長官)劉表のもとへ身を寄せました。
 その後諸葛玄が死去すると、諸葛亮は湖北省襄燓市襄陽城の西二十里、隆中の臥龍崗の草庵で農耕にたずさわり、臥竜先生と号して晴耕雨読の生活をして暮らしました。そして、好んで『梁父吟』を歌いました。

  「梁父吟」 蜀漢 諸葛亮
  歩して斉の城門を出で 遥に望む 蕩陰の里
  里中に三墳有り 塁塁として正に相い似たり
  問う是れ誰が家の墓ぞ 田疆、古冶氏、(公孫接)
  力能く南山を排し 文能く地紀を絶つ
  一朝讒言を被り 二桃もて三士を殺す
  誰か能く此の謀を為せる 相國斉の晏子なり


 諸葛亮は身長は8尺(後漢の頃の1尺は23cmで8尺は184cm、魏・晋の頃の1尺は24.1cmで8尺は192.8cm)もあり、つねに自分を管仲(中国の春秋時代に最初の覇者たらしめた斉の桓公に仕えた名宰相)、楽毅(燕の昭王を助けて、斉を滅亡寸前まで追い込んだ中国戦国時代の燕国の武将)に擬していましたが、親友である博陵(冀州博陵郡、現在の河北省安平県)の崔州平と潁川(豫州潁川郡、現在の河南省許昌市)の徐庶元直の二人だけは、その通りだと認めていました。

 もう少しつづく
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