パイポの煙(24)−アカシアの大連

嘉穂のフーケモン

2006年01月16日 23:53

 

 大連大広場

 (旧暦 12月17日)

 帝都東京を午後1時30分に出発する特急「櫻」に乗ると、大阪を午後10時7分、神戸を午後10時44分に発車し、翌朝午前8時に終点の下関に着きます。
 
 下関から午前10時30分発の関釜連絡船に乗り、釜山へは午後6時に到着。

 釜山からは、朝鮮総督府が経営する朝鮮鉄道の午後7時20分発の特急「ひかり」に乗ると、翌朝午前11時23分に国境の街新義州に着き、鴨緑江を渡って安東へは午前11時30分に着きますが、1時間の時差を修正して現地時間午前10時30分。

 特急「ひかり」はそのまま北上して午後4時20分に奉天に到着。

 ここで午後5時43分発の南満洲鉄道の特急「あじあ」に乗り換えると、大連には午後10時30分に到着します。

 東京〜大連間は57時間、神戸〜大連間は49時間弱かかっていました。
 [昭和10年(1935)10月の時刻表『汽車汽船旅行案内』第492号より]


 一方、大阪商船の大連航路の客船吉林丸(6,783総トン)で正午に神戸を出港すると、翌日の早朝に門司に到着。正午に門司を出港して、玄界灘から済州島の北を通過して黄海を北上し、大連入港は翌々日の午前9時。神戸〜大連間は69時間で結ばれていました。
 [日満連絡船定期表 昭和12年(1937) 大阪商船]


 昭和13年当時の東京〜神戸間の所要時間は、特別急行列車で8時間台、急行列車では11〜13時間でしたが、当時は東京〜沼津間と京都〜神戸間が電化区間で、沼津〜京都間は非電化であったので、その区間はC51 などの客車牽引用蒸気機関車が牽引していました。

 昭和13年当時の下関行特別急行列車の東京発時刻は手元に資料がないので定かではありませんが、神戸発東京行は6,7,8,12時台ですから、神戸までだと東京を午前中に出発しても夕刻には到着できますが、12:00発の日満連絡船に乗船するには、前日から神戸に到着していないと乗船できなかったようですね。
 さて、空路の場合、大阪を午前7時に離陸する便では、福岡、蔚山(ウルサン)、京城(ソウル)、平壌、新義州を経由して、午後4時45分に大連に着く、1時間の時差を加算した10時間45分の旅でした。

 航空運賃は大阪〜大連が片道121円、鉄路の場合大阪〜大連間二等席列車では81円90銭、3等席で48円、大阪商船の日満航路では、神戸〜大連間の1等が65円、2等が45円、最低の3等が19円でした。


 従って、戦前に日本から大連に赴く場合、最もよく利用されたのが大連航路(日満航路)で、当時の大連港は大陸と満洲の玄関口でした。

 明治42年(1909)9月6日、文豪夏目漱石(1867〜1916)は、大学予備門時代からの友人である第2代満鉄総裁中村是公(1867〜1927)の招きで大連を訪れ、後に大阪、東京両朝日新聞に『満韓ところどころ』という紀行文を掲載しています。

 詩人で、昭和44年(1969)に第62回(1969年下半期)芥川賞を受賞した清岡卓行(たかゆき)氏の小説『アカシアの大連』でも有名になりましたが、大連は帝政ロシアの租借地時代はダーリニーと呼ばれ、多心放射状街路を持ったパリをモデルとして都市計画が為され、電力供給のために当時としては画期的であった石炭火力発電所も建設されています。

 日露戦争での遼東半島南端の金州地峡全体に築かれた堅固な南山要塞をめぐる戦いでは、金州城攻略で第3軍司令官乃木希典大将の長男、第1師団歩兵第1聯隊第9中隊第1小隊長の乃木勝典中尉が戦死しています。
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