となり村名所あんない(17)−千代田村(5)−松之大廊下跡

嘉穂のフーケモン

2005年05月19日 23:06

 

 江戸城本丸 松之廊下跡

 (旧暦  4月12日)

 大手町1丁目のパレスホテルの向かいにある大手門を入り、さらに進むと両側に石垣を残した大手下乗門(大手三の門)にさしかかります。 この門の前には、戦前の地図には水濠がありましたが、現在は埋め立てられてます。
 江戸時代は、徳川御三家以外の大名は、この門の前で駕籠を降りました。

 大手下乗門をさらに進むと、左側に百人番所があります。伊賀組、甲賀組、根来(ねごろ)組、二十五騎組の4組が交代で護りを固めていましたが、各組には同心百人ずつが配属されていたところから百人番所の名が生まれました。

 百人番所から左に見えるのが大手中の門跡です。この門では、徳川御三家の大名でも駕籠を降りました。この坂を登ると書院門(中雀門)跡で、本丸の玄関前です。
 書院門(中雀門)跡を過ぎると、南向きに大玄関がありました。その後ろに黒書院、西の方に大広間があり、さらに西へ幅三間(5.4m)、長さ十間(18m)余りの大廊下になります。続いて直角に折れて、幅三間半(6.3m)、長さ十五間(27m)余の畳敷きの松之大廊下になり、桜の間と白書院に通じていました。

 

 松之廊下復元模型

 片側の杉戸に松と千鳥の絵が描いてあるので、松之廊下と呼ばれました。片側は中庭で、砂を敷き詰めた白州になっていました。

 ちなみに、私「嘉穂のフーケモン」が勤めていた某電力会社の原子力発電所のタービン建屋(発電機を回す建物)から原子炉建屋(原子炉で蒸気を発生させる建物)へ向かう広い廊下も、「松の廊下」と呼ばれています。

 元禄十四年辛巳三月十四日午の刻(午前11時頃)、将軍の御台所(奥方)から勅使への進物の目録をささげ、奥留守居番の梶川与三兵衛が高家の吉良上野介義央(よしなか)と大広間の角柱より6〜7間のところで立ち話をしているとき、いきなり浅野内匠頭長矩が『此間の遺恨覚えたるか』と声をかけて切りつけてきました。

 世に云う「刃傷松之廊下」の事件ですが、柳原前大納言資廉(すけかど)、高野前中納言保春(やすはる)ら二人の勅使は浅野内匠頭長矩をかばって将軍に取りなしをしなかったため、都へ戻ってから、主上(113代東山天皇)の勘気を被り、しばらく参内も許されなかったと云います。

 ときの近衛基?(もとひろ)、東園基量(もとかず)など公卿の日記にも、「浅野内匠頭存念を達せず、不憫」と記してあったそうです。
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