となり村名所あんない(13)−文京村(2)-赤門

嘉穂のフーケモン

2005年03月19日 06:44

 

 御守殿門

 (旧暦  2月10日)

 東京大学(本郷7丁目)のシンボル「赤門」は、11代将軍家斉(在1787〜1837)の娘溶姫(やすひめ)が、文政10年(1827)、加賀藩102万5千余石第13代前田斉泰(なりやす)に嫁いだときに造営された薬医門で、両側に唐破風造りの番所があり、千鳥の棟瓦には三葉葵の徳川家の紋、軒の丸瓦には前田家の梅鉢の家紋があしらわれた最高の格式の武家屋敷門です。

 将軍家の権勢を象徴する丹塗りの門としては現存する唯一のもので、国の重要文化財に指定されています。 

 我が板橋村でも金沢との交流姉妹都市を結んでおり、何とか板橋村を観光面でアピールしたいのですが、如何せん、文京村は上屋敷、板橋村は下屋敷、文京村は東京大学、板橋村は「嘉穂のフーケモン」の邸宅(?)と知名度においては全く比較になりません。残念!
 さてこの赤門、官位三位以上の大名に嫁した将軍の子女、あるいはその住居を御守殿と称するため、正式には御守殿門と呼ばれますが、仮にこの門が火事で焼失しても再建は許されませんでした。

 このため、赤門(御守殿門)の造営に当たっては、防火のために周辺の町家が取り壊されましたが、取り壊された町家の数は数百戸にも及び、

 御守殿が できて町家は かたすかし

と川柳にうたわれたほどでした。

 当時の江戸御府内の防火組織としては、旗本の「定(じょう)火消」、町方の「店(たな)火消」「町火消」があり、諸大名は幕府の課役により各家で編成した火消組を持っていました。

 これらは、時に応じて「大名火消」「方角火消」などの名称で幕府の要所の消火役を勤めましたが、それぞれの火消制度が整ったのは、8代将軍吉宗(在1716〜1745)の時代であったと云われています。

 加賀藩江戸屋敷の大名火消は、本郷上屋敷周辺八丁四方の消防にあたるほか、幕府学問所の聖堂御火消役も勤めました。

 有名な「加賀鳶」は、そのお雇い鳶のことをいいます。
文政年間(1818〜1830)の後期、2世歌川豊国の正確な描写による「加賀鳶行列図」が残されていますが、身長6尺(1.82m)近いたくましい鳶たちが、2列に行列を組んで練り歩く様は、圧巻であったと伝えられています。
関連記事