奥の細道、いなかの小道(40)− 天龍寺、永平寺

嘉穂のフーケモン

2017年11月10日 16:15

  

      丸岡城天守閣


  (旧暦9月22日)

  汐越の松を訪れた芭蕉翁と北枝一行は濱坂浦へ戻り、北潟湖の西岸に沿って南西に進み、北方浦から東岸の蓮ヶ浦へ藏崎の渡しを渡りました。ここからしばらく南東に進み、蓮ヶ浦の坂口で北國街道に合流し、かつて嫁威(おどし)の茶屋があった柿原を過ぎて、山十楽からしばらく南進し千束一里塚に至りました。街道はさらに花之杜から南下して、竹田川の北岸に沿って東西に細く延びる北金津宿に入り、宿場の東外れを右折して竹田川を渡ると南金津宿、さらに南下して北國街道と金津道に別れ、芭蕉翁一行は金津道を進み、川原井手、池口、長屋、御油田を経て、丸岡城下の北の入口に到着しました。

  

    芭蕉経路 汐越の松〜金津宿〜丸岡

  丸岡城下の中心に立つ丸岡城は、天正四年(1576)、柴田勝家(1522?〜1583)の甥柴田勝豊(1556〜1583)によって築かれました。その後は数奇な運命をたどっています。

  ①  天正十年(1582)、本能寺の変の後の清洲会議により、柴田勝豊は近江国長浜城に移され、柴田勝家は安井左近家清(?〜1583)を城代として置い
       た。

  ②  天正十一年(1583)、柴田勝家が豊臣秀吉によって北ノ庄城で滅ぼされると、この地は丹羽長秀(1535 〜1585)の所領となり、丹羽長秀は丸岡城
       主として青山修理亮宗勝(1561〜不明)を置いた。

  ③  丹羽長秀の死後、領地はそのままに豊臣秀吉の家臣となっていた青山宗勝とその子忠元は、慶長五年(1600)、関ヶ原の戦いで西軍方につき、敗れて
       改易された。越前国には徳川家康の次男結城秀康(1574〜1607)が入封し、丸岡城には秀康家臣の今村盛次が二万五千五百石を与えられ入城し
       た。

  ④  慶長十七年(1612)、今村盛次は越前騒動に連座して失脚し、幕府より附家老として福井藩に附せられた本多成重(1572〜1647)が四万三千石
       で新たな城主となった。

  ⑤  寛永元年(1624)、 福井藩第二代藩主松平忠直(1595〜1650)が、不行跡を理由に豊後配流となり、福井藩に減封などの処分が下された。同時に
       本多成重は福井藩より独立して大名に列し丸岡藩が成立した。

  ⑥  元禄八年(1695) 四代本田重益(1663〜1733)の治世、本多家の丸岡藩でお家騒動が起こり、幕府の裁定により改易となった。代わって有馬清
       純が越後国糸魚川藩より五万石で入城。以後、有馬氏丸岡藩六代の居城となり明治維新を迎えた。


  芭蕉翁一行は全昌寺から七里弱ほどの道程を歩き、丸岡城下には午後五時頃に到着して、城下の谷町あたりの旅籠に宿泊したものと思われています。

      一    八日  快晴。森岡ヲ日ノ出ニ立テ、舟橋ヲ渡テ、右ノ方廿丁計ニ道明寺村有。少南ニ三國海道有。ソレヲ福井ノ方へ十丁程往テ、新田
           塚、左ノ方ニ有。コレヨリ黒丸見ワタシテ、十三四丁西也。新田塚ヨリ福井、廿丁計有。巳ノ刻前ニ福井へ出ヅ。苻(府)中ニ至ルト
           キ、未ノ上刻、小雨ス。艮(即)、止。申ノ下刻、今庄ニ着、宿。
                   『曾良旅日記』


  旧暦八月八日(陽暦九月二十一日)、曾良は日の出(午前六時頃)に森田の六郎兵衛宅を出立し、北國街道を南下して九頭龍川に架かる舟橋(舟を繋いでその上に板を敷いた仮橋)を渡りました。舟橋を渡ると、右手廿丁ばかりの所に燈明寺村があり、また少し南に三國街道があります。その街道を福井城下の方へ十丁程行くと、左手に新田塚があります。

  新田塚は、南北朝期に第九十六代後醍醐天皇(在位1318〜1339)方に与した新田義貞(1300頃〜1338)が延元三年(1338)閏七月二日、足利方が籠もる越前の藤島城を攻める味方を督戦するため、わずか五十余騎の手勢を従えて藤島城へ向かった際に、たまたま、救援のために藤島城に向かっていた足利配下の将鹿草彦太郎公相の三百騎と遭遇し、乱戦の中で戦死した所と伝えられています。

  

      燈明寺畷新田義貞戦歿伝説地(新田塚)

  明暦二年(1656)、この地を耕作していた百姓の嘉兵衛が偶然に兜を掘り出し、芋桶に使っていたところ、福井藩の軍学者井原番右衛門頼文がこれを目にし、象嵌や「元応元年八月相模国」の銘文から新田義貞着用のものと鑑定しました。その四年後の萬治三年(1660)には、越前福井藩第四代藩主松平光通(1636〜1674)が兜の発見された場所に、「暦応元年閏七月二日 新田義貞戰死此所」と刻んだ石碑を建て、以後この地は「新田塚」と呼ばれるようになったということです。
  なお、暦応元年とは北朝方の元号で、南朝方では延元三年(1338)となります。

  

      鉄製銀象眼冑(藤島神社所蔵)

  新田塚からは、十三、四丁西に黒丸集落が見渡せます。また、新田塚から福井城下までは二十丁程で、巳ノ刻前(午前十時頃)に福井城下を通過し、足羽川に架かる九十九橋を渡って足羽山東麓の北國街道を南下、江端川に架かる玉江橋を渡り、淺水宿のあさむつ橋に至りました。さらに、鯖江宿、上鯖江宿を過ぎ、日野川の白鬼女渡を渡ってさらに南下すると府中(旧武生)に着きます。
  曾良が府中に着いたのは未ノ上刻(午後一時半頃)で、小雨が降り始めましたが、まもなく止み、脇本宿、鯖波宿、湯尾宿を過ぎ、古代から交通の要衝でもあった湯尾峠を越えて、今庄宿に着いたのは申ノ下刻(午後四時過ぎ)でした。

      一    九日  快晴。日ノ出過ニ立。今庄ノ宿ハヅレ、板橋ノツメヨリ右へ切テ、木ノメ峠ニ趣、谷間ニ入也。右ハ火うチガ城、十丁程行テ、左
           リ、カヘル山有。下ノ村、カヘルト云。未ノ刻、ツルガニ着。先、氣比へ参詣シテ宿カル。唐人ガ橋大和や久兵へ。食過テ金ケ崎へル。
           山上迄廿四五丁。夕ニ帰。カウノヘノ船カリテ、色浜へ趣。海上四リ。 戌刻、出船。夜半ニ色へ着。クガハナン所。塩焼男導テ本隆寺へ
           行テ宿。
                   『曾良旅日記』


  旧暦八月九日(陽暦九月二十二日)、今日も曾良は日の出(午前六時頃)に今庄の宿を出立し、宿場外れの板橋の端から右に曲がり、木ノ芽峠へ行くために谷間に入りました。右手は燧ヶ城で、十丁程行くと歌枕で知られる歸山があり、その下の村を歸と云う。

  燧ヶ城の築城は源平の合戦の頃にまでさかのぼり、壽永二年(1183)、木曾義仲(1154〜1184)が追討してきた平家の軍勢を迎え撃つため、仁科守弘らに命じて城を築かせました。源平盛衰記に「北陸道第一の城郭」と記されたこの城は、交通の要衝を押さえた城であったため、南北朝期には今庄入道浄慶の居城となり、府中(旧武生)の足利高経(1305〜1367)方に属して、建武四年/延元二年(1337)越前杣山城の新田義貞(1300頃〜1338)を攻めています。

  戦国時代には越前国守護斯波氏の家臣赤座但馬守影景秋、後に魚住景固(1528〜1574)が城主となりました。さらに天正三年(1575)には、下間頼照(1516〜1575)ら一向一揆勢が立て籠もって織田信長(1534〜1582)と戦い、次いで天正十一年(1583)の賤ヶ岳の合戦の折りには、主将柴田勝家(1522〜1583)自らがここを守っています。

  「かへる山」は、敦賀湾の東岸の五幡、杉津あたりから、北東にある今庄に抜けるあたりの地域の山と言われています。奈良期の古道は、松原驛(敦賀市)から五幡、杉津を経て比田から山中峠を越え鹿蒜駅(南越前町今庄)に至ったといわれています。

  万葉集巻十八の大伴家持の歌(4055)は、このあたりを指していると思われています。
          可敝流廻の道行かむ日は五幡の 坂に袖振れ我れをし思はば
          可敝流未能 美知由可牟日波 伊都波多野 佐可尓蘇泥布礼 和礼乎事於毛波婆
          かへるみの  みちゆかむひは  いつはたの  さかにそでふれ  われをしおもはば

  また、古今和歌集には、「かへる山」との歌枕が読み込まれた歌が、収載されています。 

          越へまかりける人によみてつかはしける   紀利貞
          かへる山ありとは聞けど春霞 立ち別れなば恋しかるべし        古今和歌集  巻八  離別   370

               凡河内躬恒
          かへる山なにぞはありてあるかひは きてもとまらぬ名にこそありけれ    古今和歌集 巻八 離別  382

                在原棟梁
          白雪の八重降りしけるかへる山 かへるがへるも老いにけるかな          古今和歌集 巻十七 雑歌上  902


  曾良は未ノ刻(午後二時頃)に敦賀に着き、まず、気比神宮に参詣してから唐人橋の大和屋久兵衛宅に宿をとりました。気比神宮は、敦賀の北東部に鎮座する越前國一宮で、「北陸道総鎮守」と称されて朝廷から特に重視された神社でした。主祭神の伊奢沙別命(いざさわけのみこと)ほか、第十四代仲哀天皇、その后の神功皇后など七柱の祭神を祀っています。

  食事の後、曾良は、宿から二十四、五丁ある敦賀北東部、敦賀湾に突き出した金ヶ崎山に築かれた金ヶ崎城の跡地を訪れ、夕方に宿に帰りました。

  金ヶ崎城は、 治承、寿永の乱(1180〜1185、源平合戦)の時、越前三位平通盛(1153〜1184)が木曾義仲(1154〜1184)との戦いのためにここに城を築いたのが最初と伝えられています。
 
  南北朝期の延元元年/建武三年(1336)十月十三日、足利尊氏の入京により恒良親王(1324〜1338)、尊良親王(1310〜1337)を奉じて北陸落ちした新田義貞(1300頃〜1338)が入城、直後、足利方の越前守護斯波高経(1305〜1367)らの軍勢に包囲されて兵糧攻めに遭い、翌延元二年/建武四年(1337)二月五日、新田義貞らは、闇夜に密かに脱出し、越前杣山城で体勢を立て直すも、三月三日、足利方が城内に攻め込み、兵糧攻めによる飢餓と疲労で城兵は次々と討ち取られ、新田義貞嫡男の新田義顕(1318〜1337)は城に火を放ち、尊良親王及び三百余人の兵と共に自害しています。
 また、恒良親王は捕らえられて足利直義(1306〜1352)によって幽閉され、翌年に没しています。

  
    
      Death place of Prince Takayoshi.

  その後、足利方の越前平定により、越前守護代甲斐氏の一族が守備し、敦賀城と称しています。

  室町期の長禄三年(1459)、守護斯波氏と守護代甲斐氏の対立が深まり、関東の古河公方足利成氏(1438〜1497)征討の幕命を受けた斯波義敏(1435〜1508)は兵を集めたものの関東には赴かず、引き返して金ヶ崎城を攻撃するも、敦賀城甲斐方の守りは堅く、斯波義敏方は大敗を喫しています。

  戦国期の元亀元年(1570)四月二十六日、朝倉氏一族の敦賀郡司が守護していた金ヶ崎城は、越前に侵攻した織田、徳川軍の攻撃により、郡司朝倉景恒(不明〜1570)は兵力差もあったことから織田信長の降伏勧告を受け入れ開城しました。
  しかし、同盟関係にあった小谷城の浅井長政(1545〜1573)が離反して挟撃の危機に瀕したため、木下藤吉郎(1537〜1598)が後衛となって、信長本隊が近江朽木越えで京に撤退するまで援護した金ヶ崎の戦いがあり、金ヶ崎の退き口または金ヶ崎崩れとも呼ばれ、戦国史上有名な織田信長の撤退戦の戦場でもありました。
 
  その後曾良は、河野(福井県越前町)へ行く船に便乗し、色の濱(種の濱、敦賀市色浜)へ赴きました。海上四里で、戌刻(午後八時過ぎ)に出船し、夜半に色の濱に着き、そこで製塩を生業とする男に案内されて、本隆寺に行き宿をとりました。

        丸岡(松岡)天龍寺の長老、古き因あれば尋ぬ。又、金澤の北枝といふもの、かりそめに見送りて、此處までしたひ來る。所々の風景過さず思
        ひつゞけて、折節あはれなる作意など聞こゆ。今既別に望みて、 
                物書て扇引きさく餘波(なごり)哉
        五十丁山に入りて永平寺を礼す。道元禪師の御寺也。邦機千里を避て、かゝる山陰に跡をのこし給ふも、貴きゆへ有とかや。


       ○丸岡天龍寺
           「松岡」天龍寺の誤り。松岡は福井県吉田郡永平寺町松岡で、丸岡の南約六キロ、福井の東約八キロに当たる。天龍寺は山号を清涼山と
           いい、曹洞宗大本山永平寺の末寺で、松岡藩主松平家の菩提所、寺禄二百石であった。

       ○長老
           禅宗寺院の住持の呼称で、大夢和尚をさす。『清涼山指南書』によれば、大夢和尚は貞享四年(1687)から元禄六年(1693)まで天龍
           寺の住持を務めた。

       ○古き因
           大夢和尚が江戸品川天龍寺の住持であった時代の交遊を指すものと思われるが、詳細については明らかではない。芭蕉は江戸深川で佛頂
           禪師について禅を学んだ関係から、大夢和尚と交遊があったものか。

       ○所々の風景過さず思ひつゞけて
           北枝が加賀、越前沿道諸所の風景を見のがさずに句案を続けて。

               野田の山もとを伴ひありきて 翁にぞ蚊屋つり草を習ひける    『卯辰集』
               くさずりのうら珍しや秋の風    (多太神社奉納)
               かまきりや引こぼしたる萩の露    (曽良「書留」)
               元禄二の秋、翁をおくりて山中温泉に遊ぶ三両吟 
               馬かりて燕追行わかれかな    (「馬かりて」歌仙)
               山中温泉にて 子を抱て湯の月のぞくましら哉


       ○五十丁山に入りて
           松岡から福井へ向かう街道よりそれて五十丁(約5.5キロ)

       ○永平寺
           福井県吉田郡永平寺町志比にある曹洞宗の大本山。山号は吉祥山。道元禪師の開基。当時、寺禄二百四十石。

 


      The original of this map of Eihei-ji took a priest in Aichi Prefecture 4.5 years to paint.

       ○道元禪師
          日本における曹洞宗の開祖(1200〜1253)。臨済宗の開祖明菴榮西(1141〜1215)の弟子明全(1184〜1225)に師事して禅宗を
           おさめ、貞應二年(1223)入宋、安貞元年(1227)帰朝、山城深草に興聖寺を開いたが、越前国志比荘の地頭波多野義重(不詳〜
           1258)の招きにより越前に至り、寛元二年(1244)傘松に大佛寺を開く。寛元四年(1246)大佛寺を吉祥山永平寺に改め、座禪辨道
           の修行道場を開いた。
           著書に『正法眼蔵』(仮名記述) 八十七巻、拾遺四巻、『永平元禅師清規』二巻などがある。

  

      道元禪師(1200〜1253)

       ○邦機千里
           「機」は「畿」の当て字。
           邦畿千里、維民所止 『詩経』商頌
           邦畿千里、維れ民の止まる所
           「邦畿」は帝都の地の意。

       ○貴きゆへ
           相傳ふ、はじめ寺地を京師にて給らんと有しを、禪師の云、寺堂を繁華の地に營ては、末世に至り、僧徒或は塵俗に堕するものあらん
           歟、と固く辞して終に越前に建立すと云、此亊なり
                   『奥細道菅菰抄』

           と注しているが、その所拠を詳らかにしていない。
           一方、『越前名勝志』吉田郡には、吉祥山永平禪寺の説明の中で、「或記に云」として、
           (前略)
           又天福嘉禎の頃、城州宇治(深草の誤り)に興聖寺(現在は宇治)を建立し給ひ、暫く滯座ましましければ、國々十餘ヶ所より和尚を招
           き奉りしか共、大地伽藍の地なしとて、終に動轉し給はさりける所に、越前の大守波多野義重頻りに請侍申されけれは、和尚笑を含み、
           宋師加淨禪師は震旦越州の人なるに依て、今正に越前と聞は、師道に見參の心地のみせり、其上白山權現は予か宋地より歸朝の砌碧岩書
           寫の助筆に預り、歸路の船中にも加護を蒙り、殊に神恩不殘、旁以越前は望ある國なればと宣ひ、越前に下向在て、吉田郡志比庄に一宇
           の精舎を創立ありて、當山は震旦の天童山に少も不違、寂寞たる深谷自然の佳境、佛法興隆に吉祥の靈地なりとて、卽山號を吉祥山と名
           付たり。
           (後略)

           云々と記している。

  旧暦八月九日(陽暦九月二十二日)、芭蕉翁と北枝一行は丸岡城下谷町から鳴鹿道を南東へ進み、猪爪、末政、板倉、下久米田、上久米田を経て、鳴鹿で九頭龍川を渡し船で渡って東古市に出、勝山街道を西方へ一里ほど進んで松岡城下に至りました。

  松岡は、福井藩の支藩松岡藩の置かれた城下町で、芭蕉翁一行が訪れた時は、初代藩主松平昌勝(1636〜1693)の代でした。松平昌勝は福井藩初代藩主松平忠昌(1598〜1645)の長子でしたが、生母が側室であったために宗家を相続できず、正保二年(1645)父忠昌の死後、その遺言により五万石を分与され、慶安元年(1648)に芝原と呼ばれていた地を松岡と改め、松岡藩を立藩して初代藩主となっています。
 
  承應二年(1653)、藩主松平昌勝が祖母清涼院(福井城主結城秀康の室)の冥福を祈るために創建したのが、曹洞宗大本山永平寺の末寺天龍寺でした。

  芭蕉翁は松岡の天龍寺住持と古い交際がある故に訪ねています。芭蕉翁は江戸江戸深川で佛頂禪師について禅を学んだ関係から、江戸品川の天龍寺の住持であった大夢和尚と交遊があったものか、その後、大夢和尚が松岡の天龍寺の住持代理となったので、旅の途中に天龍寺に立ち寄ったものと思われます。
芭蕉翁と北枝は、この天龍寺に二泊しています。

      十日  快晴。朝、浜出、詠ム。日連(蓮)ノ御影堂ヲ見ル。巳刻、便船有テ、上宮趣、二リ。コレヨリツルガヘモ二リ。ナン所。帰ニ西福寺へ 
      寄、見ル。申ノ中刻、ツルガヘ帰ル。夜前、出船前、出雲や彌市良へ尋。隣也。金子壱両、翁へ可レ渡之旨申頼預置也。夕方ヨリ小雨ス。頓 而止。
              『曾良旅日記』


  旧暦八月十日(陽暦九月二十三日)、曾良は色の濱に出て日の出を詠め、日蓮の御影堂を拝観しました。巳刻(午前十時頃)、便船があったので常宮(日記には)へ赴いています。常宮は敦賀湾の西岸にあり、色の浜から二里、敦賀へも二里ですが、道が悪路のため、船便を利用しています。常宮から敦賀への帰路、浄土宗の西福寺に参詣し、申ノ中刻(午後四時頃)に敦賀に戻っています。
  前夜、河野へ船で渡る前に、大和屋の隣の出雲屋彌市郎宅を訪ねて、後日、芭蕉一行が来るはずなので、訪れたら渡してほしいと金子一両を預けておきました。
 
  芭蕉翁と北枝は、この日も天龍寺に宿泊しており、金澤から随行してきた北枝とは最後の日となっています。

  北枝編の『卯辰集』(元禄四年刊)によれば、前書に「松岡にて翁に別侍し時、あふぎに書て給る」として
      もの書て扇子(あふぎ)へぎ分る別哉        翁
      笑ふて雰(きり)にきほひ出ばや             北枝

の唱和が収載されています。しかし、『おくのほそ道』本文には、
      物書て扇引さく餘波(なごり)哉
と推敲改作されています。

  天龍寺で芭蕉翁と立花北枝は、最後の夜を過ごしました。 

      一  十一日 快晴。天や五郎右衛門尋テ、翁へ手紙認、預置。五郎右衛門ニハ不レ逢。巳ノ上尅、ツルガ立。午ノ刻ヨリ曇、涼シ。申ノ中刻、木ノ本
          へ着。
              『曾良旅日記』


  旧暦八月十一日(陽暦九月二十四日)、先行する曾良は天屋五郎右衛門宅を訪ねたが会うことができず、芭蕉翁宛ての手紙を書いて預けておきました。曾良は巳ノ上尅(午前九時頃)に敦賀を出立し、申ノ中刻(午後四時頃)近江木之本に着いています。

  芭蕉翁はこの朝、金澤から天龍寺まで十七日間にわたって案内しながら随行してきた立花北枝と別れることになりました。地元の口碑によれば、芭蕉は松岡城下の北郊九頭龍川畔(五松橋あたり)まで見送り、たちばな茶屋において別れたと伝えられています。

  北枝を見送った芭蕉翁は、大夢和尚の案内で、曹洞宗の大本山永平寺へ向かいました。天龍寺を出立し、九頭龍川の南岸に沿う勝山街道を東へ進み、志比境、法寺丘を経て、九頭龍川の支流永平寺川を渡って東古市で右に折れ、永平寺川に沿って遡り、京善で西から来た永平寺道と合流して南東に進み、市野々、荒谷を通過すると永平寺に至ります。

  

    芭蕉経路 丸岡〜松岡〜永平寺

  永平寺は寛元二年(1244)、道元禪師(1200〜1253)によって開創された出家参禪道場です。福井市の東南四里ほど隔てた白山山系に連なる傘松峰によって、渓声山色豊かな幽邃の境に七堂伽藍を主軸とし、大小七十餘棟の殿堂楼閣が建ち並んでいます。境内は約十万坪の廣さを持ち、樹齢六百年以上といわれる鬱蒼たる老杉に囲まれた靜弱な佇まいのなかに渓谷の響を傳えて、修行道場にはまことにふさわしい禪域とされています。

  開祖道元禪師(1200〜1253)は貞應二年(1223)二十四歳の春、中国南宋(1127〜1279)に渡り、南宋慶元府天童山景徳寺の如淨禪師(1163〜1228)について修行し、南宋の寶慶元年(1225)/嘉禄元年(1225)夏安居の期間に如淨の「身心脱落」の語を聞いて得悟し、印可を授けられています。

  安貞元年(1227)に帰朝し、京の建仁寺に滯まること約三年にして、山城深草の安養院に移り、天福元年(1233)、山城深草に興聖寺を建立。
  寛元元年(1243)七月、越前の地頭波多野義重(不詳〜1258)の招きで越前志比荘に移り、寛元二年(1244)傘松に大佛寺を開き、寛元四年(1246)大佛寺を吉祥山永平寺に改め、座禪辨道の修行道場を開いています。
  爾来、開祖が説き示した只管打坐(座禅の正修行)が、綿々密々と続けられています。


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