物語(12)−平家物語(4)−先帝御入水の事

嘉穂のフーケモン

2013年09月27日 12:53

 

 第八十一代安徳天皇御影

 (旧暦8月16日)

 

 鬼城忌
 俳人村上鬼城の昭和13年(1938)年の忌日。
 不遇な環境に置かれていたため、困窮した生活や人生の諦念、弱者や病気への苦しみなど、独特の倫理観で憐れみ、哀しみを詠った句が多いのが特色であるとされている。さらに、鬼城自信も耳が不自由だったために、身体障害者に対する感情を詠ったものが多い。
 
 生きかはり 死にかはりして打つ田かな
 小鳥このごろ 音もさせずに来て居りぬ
 冬蜂の 死にどころなく歩きけり



 海中(わだなか)に 都ありとぞ 鯖火もゆ   たかし

 この句は、高濱虛子(1874〜1959)に師事し、句誌「ホトトギス」の同人として昭和前期に活躍した俳人松本たかし(1906〜1956)が、昭和28年に足摺岬で詠んだ句です。

 松本たかしは、虚子門下では、川端茅舎(1897〜1941)、中村草田男(1901〜1983)、芝不器男(1903〜1930)に並び称され、平明な言葉で気品に富む美しい句を残したとされています。

 この句については、

 鯖火をみている作者の目には、平家の軍船がありありと映って見えたのであろうか。そして海の底にあるという都の幻も。作者の平家に寄せる思いのしのばれる美しい句である。

 と、福島壺春は評しています。

 この海の都は竜宮ではなく、平家物語の世界であるとされています。
 寿永4年(1185)3月24日、平家が長門國赤間關の壇ノ浦で破れた時、二位の尼(平清盛の継妻)が幼い安徳天皇(1178〜1185、在位1180〜1185)に、「浪の底にも都の候ふぞ」と言い聞かせて入水する、先帝入水のくだりを指しています。

 

 先帝御入水

 位階従二位により、二位尼と称された平清盛の継妻平時子(1126〜1185)は、清盛との間に三男宗盛(1147〜1185)、四男知盛(1152〜1185)、徳子(建礼門院、1155〜1214)、五男重衡(1157〜1185)らを生んでいました。

 

 

 新中納言平知盛

 
 しかし、『平家物語 灌頂の巻 六道のさたの事』での、生き残った建禮門院(二位尼と称された平清盛の継妻平時子の娘で、第八十代高倉天皇の中宮にして第八十一代安德天皇の国母)の台詞では、しばしまどろみたる夢に、

 昔の内裏にははるかに勝りたる所に、先帝を始め參らせて、一門の月卿雲客、おのおのゆゝしげなる禮儀どもにて、並居たり。
 
として、二位の尼に

 『こゝは何くと云ふぞ』と問ひ候ひしかば、二位の尼答へ申し候ひしは、『龍宮城と申す處なり』。
 
と言わしめています。

 

 

 このくだりは、鎌倉時代に成立した史書で、鎌倉幕府の初代将軍源頼朝から第六代将軍宗尊親王までの六代の将軍記という構成で、治承四年(1180)から文永三年(1266)までの幕府の事績を編年体で記した『吾妻鏡』の元暦二年(1185)八月十四日改元文治元年乙巳の三月大廿四日丁未の条には、下記のように記述されています。

 元暦二年三月大廿四日丁未。
 於長門國赤間關壇浦海上。源平相逢。各隔三町。艚向舟船。平家五百余艘分三手。以山峨兵藤次秀遠并松浦黨等爲大將軍。挑戰于源氏之將師。

 及午剋。平氏終敗傾。二品禪尼持寳釼。按察局奉抱先帝。〔春秋八歳〕共以没海底。建禮門院〔藤重御衣〕入水御之處。渡部黨源五馬允以熊手奉取之。按察局同存命。但先帝終不令浮御。若宮〔今上兄〕者御存命云々。前中納言〔教盛、号門脇〕入水。前參議〔經盛〕出戰塲。至陸地出家。立還又沈波底。新三位中將。〔資盛〕前少將有盛朝臣等。同没水。前内府〔宗盛〕右衛門督〔淸宗〕等者。爲伊勢三郎能盛被生虜。其後軍士等乱入御船。或者欲奉開賢所。于時兩眼忽暗而神心惘然。

 平大納言〔時忠〕加制止之間。彼等退去訖。是尊神別躰。朝家惣持也。神武天皇第十代崇神天皇御宇。恐神威同殿。被奉鑄改云々。後朱雀院御宇長暦年中。内裏燒亡之時。圓規已雖虧。平治逆乱之時者。令移師仲卿之袖給。〔其後奉入新造櫃。民部卿資長爲藏人頭沙汰之〕澆季之今。猶顯神變。可仰可恃焉。
 『吾妻鏡』 元暦二年八月十四日改元 文治元年 乙巳


 

 元暦二年三月大廿四日丁未
 長門國赤間關壇浦海上に於て、源平相逢ひ、各(おのおの)隔たること三町にして舟船を艚ぎ向ふ。平家五百余艘を三手に分け、山峨の兵籐次秀遠并びに松浦黨等を以て大將軍と為し、源氏の將師に挑戰す。
 午の剋に及び平氏終に敗傾す。二品禪尼宝劔を持ち、按察の局は先帝(春秋八歳)を抱き奉り、共に以て海底に没す。建禮門院(藤重の御衣)入水し御ふの處、渡部黨源五馬の允、熊手を以てこれを取り奉る。按察大納言の局同じく存命す。但し先帝終に浮かばしめ御はず。若宮(今上兄)は御存命と云々。前の中納言(教盛、門脇と号す)入水す。前の參議(経盛)先戰塲を出で、陸地に至り出家し、立ち還りまた波の底に沈む。新三位中將(資盛)、前の少將有盛朝臣等同じく水に没す。前の内府(宗盛)、右衛門の督(淸宗)等は、伊勢の三郎能盛が爲生虜らる。その後軍士等御船に乱入す。或いは賢所を開き奉らんと欲す。時に兩眼忽ち暗んで神心惘然たり。
 平大納言(時忠)制止を加うの間、彼等退去しをはんぬ。これ尊神の別躰、朝家の惣持なり。神武天皇第十代崇神天皇の御宇、神威の同殿を恐れ、鑄改め奉らると。後朱雀院の御宇長暦年中、内裏燒亡の時、圓規すでに虧けると雖も、平治逆乱の時は、師仲卿の袖に移らしめ給う。(その後新造の櫃に入れ奉り、民部卿資長蔵人頭としてこれを沙汰す)澆季の今、猶神変を顕わす。仰ぐべし恃むべし。


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