青山霊園(1)ーなりたち
晩秋の青山霊園桜並木
(旧暦10月5日)
晩秋の一日、早朝に板橋村を出発して滝野川〜大塚〜茗荷谷〜江戸川橋〜牛込天神町〜市ヶ谷加賀町〜曙橋〜四谷三丁目〜信濃町〜青山二丁目〜青山霊園とジョギングをしてきました。
目的地の青山霊園は東京都が管理する公営墓地で、わが国最古の公共霊園のひとつです。面積は約二十六万平方メートル、明治五年(1872)、美濃郡上藩四万八千石青山家の下屋敷跡に開設されましたが、当初は神道の葬儀の神葬祭墓地でした。
徳川幕府が編纂した江戸の地誌『御府内備考』には、
青山は天正十九年(1591)青山常陸介忠成が宅地を賜りし地なり。或云、青山忠成十万石の時は、今の青山の地一円に屋敷也。その後忠俊、幸成兄弟街道を隔て住す。 (中略)
後年次第に上げ地となりて、青山氏の上げ地といふべきを下略して青山と呼びしより、おのずから一つの地名となり。又其近き辺をもかの名をおし及ぼして、ともに青山といひしかば、今は広き地名となれり。
と記されています。
つまり青山の地名は、徳川家康の譜代の重臣青山忠成(1551〜1613)が原宿村を中心に赤坂の一部から上渋谷村にかけての広大な土地を屋敷地として拝領したことに由来するようです。
青山霊園案内図
青山氏は、『寛政重修諸家譜』に、
「花山院堀川師賢の子信賢、その子師資、其の嗣師重、初めて青山と称す」
とあり、後醍醐天皇の忠臣であった花山院師賢(1301〜1332)の孫師重が、後醍醐天皇の孫の尹良親王が三河から上野国に移った時、これに従って吾妻郡青山郷(群馬県中之条町)に住んで青山氏と称したのに始まるとされています。
美濃国郡上八幡藩の青山氏の先祖は大職冠の後裔で、その孫房前を祖とする藤原北家から十二代目の大納言藤原師実の子家忠が花山院氏の祖となり、花山院氏十代目師資の子師重が上野国吾妻郡青山郷(現群馬県吾妻郡中之条町青山)に居住して青山氏を名乗った。
大職冠とは大化三年丁未(644)に制定された位階の最高位で、臣下では藤原鎌足が初めて授けられたことから鎌足の別称とされる。
花山院は清和天皇の皇子式部卿貞保親王の邸宅があったところで東一条、東院とも称され、周囲に花木が多く植えてあって花山と呼ばれたことから花山院の名がつけられ、後に藤原師実が伝領してその子家忠の代にこの花山院を氏号としてその祖となった。
建武三年丙子(1336)に後醍醐天皇は邸宅花山院を仮皇宮として吉野へ移り、応仁元年丁亥(1467)に起った応仁の乱で花山院は焼失した。 青山氏の祖師重は新田一族とともに尹良(ただよし)親王を奉じて南朝に合流しようと信州浪合に至った応永三年丙子三月(1396)に北朝軍に攻撃されて壊滅した。このとき師重の子次郎丸が逃れて三河に至り酒井家で育てられ、その子権之丞光教が松平氏に臣従して三河松平氏三代目信光(泰親の子で、家康の曽祖父信忠の曽祖父)の岩津城入城に従い百々(どうどう)村に所領を与えられた。
光教から忠治[明応二年癸丑(1493)没]─長光─忠教─清治[天文四年乙未(1535)没]─忠康─忠門と続き、忠門の子忠成の二男忠俊の系統は宗家として江戸期を通じ、大坂城代、老中などの幕府要職に就き、常陸国江戸崎藩主、武蔵国岩槻藩主、信濃国小諸藩主、遠江国浜松藩主、丹波国亀山藩主などを経て、寛延元年戊辰(1748)に丹波国多紀郡篠山藩(現兵庫県篠山市)へ六万石で入封し維新を迎えて廃藩後は子爵となった。また、忠門の子忠成の三男幸成の系統は分家として、幸道の代に美濃国郡上八幡藩へ移封して四万八千石を領し維新を迎えて廃藩後は子爵となった。
『明宝寒水史』 郡上八幡藩青山氏(他説もある)
藤原師実流青山氏として始めて記録に残る青山忠門(1519〜1571)は、松平宗家で家康の父である松平廣忠(1526〜1549)に臣属していましたが、主君廣忠が死去すると今川家の人質になっていた嫡男家康の帰還を待って仕え、元亀二年(1571)辛未四月に甲斐の武田信玄が遠江の郷民と盟約して岡崎城に押し寄せた際、岩津村で戦って負傷し、同月七日に五十四歳で死去したと伝えられています。
忠門の嫡男忠成(1551〜1613)は早くから家康に近仕していましたが、元亀二年(1572)、二十一歳の時に父忠門が武田氏の三河侵攻による戦いがもとで死亡した事により、その家督を継いでいます。
天正十三年(1585)、家康の三男秀忠の傳役(ふやく)となり、天正十六年(1588)、秀忠十一歳の時に上洛した際、随従して秀吉から従五位下常陸介に叙任されました。
天正十八年(1590)、家康の関東入国後は御書院御番頭に任ぜられ相州佐間(相模国高座郡座間)に五千石の領地を賜っています。
慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いには秀忠に従軍して遅参しましたが、同年十一月には播磨守となり、翌年には常陸国江戸崎に一万八千石を与えられて大名に列しています。さらに慶長八年(1603)の幕府開設後も、江戸奉行、関東総奉行を兼任し、本多正信、内藤清成と並んで幕政の中枢を担っています。
この忠成の四男幸成(1586〜1643)の五代の後胤幸道(1725〜1579)が、宝暦八年(1758)に美濃郡上藩四万八千石に移封され、幕末に至っています。
さて、帝都東京の公立霊園の歴史は明治維新から始ります。
江戸幕府は、寺請証文を受けることを民衆に義務付け、禁制された宗派であるキリシタンや日蓮宗不受不施派などの信徒でないことを各寺院に証明させる寺請制度を宗教統制政策のひとつとして取り入れ、その制度のもとに各寺院はその付属墓地に各檀家の埋葬を行ってきました。
江戸朱引圖
しかし、明治新政府は明治六年(1873)、従前の墓地といえども旧朱印内は埋葬を禁止する旨の布達を行いました。
府下寺院境内一般墓地ニ相定候儀、伺出ノ上許可候處、右ハ取消、向後從前ノ墓地ト雖モ朱引内ハ埋葬禁止候積ヲ以、別段朱引外ニ於テ相当ノ墓地相選、大蔵省ヘ可申出、此旨相達候事
当時の江戸の市域は「御府内」と呼ばれ、正式な区域は文政五年(1822)十二月、備後福山藩十一万石第五代藩主で江戸幕府では老中を務めた阿部正精(まさきよ、1775〜1826)によって、朱線で囲った地図とともに次のような通達によって定義されています。
書面伺之趣、別紙絵圖朱引ノ内ヲ御府内ト相心得候様
• 東 … 中川限リ
• 西 … 神田上水限リ
• 南 … 南品川町ヲ含ム目黒川辺
• 北 … 荒川・石神井川下流限リ
つまり、旧朱印内は、旧東京市の十五区より若干広く、現在の豊島区、渋谷区、荒川区、北区、目黒区の一部、品川区の一部、板橋区の一部をも含む範囲でした。
これに対して市民の不満が高まったため、明治政府は明治七年(1874)六月二十二日に「墓地令」を制定して青山神葬祭地ほか九か所を市民のための共葬墓地として指定しました。
墳墓ノ儀ハ清浄地ニ設ケ永遠保存スベキモノニ候處、府下従前墳墓、市街ニ相望ミ、往々街区路線ノ改正ニヨリ發枢改葬等有之、人情ノ忍ビザル次第ニ付、朱引内従前ノ墓地二於テ埋葬ヲ禁ジ、更ニ九ヶ所ノ墓地ヲ設ケ、別冊ノ通リ取扱規則相定、來九月一日ヨリ施行可致、此旨相達候事。但朱引外墓地ハ從前ノ通可相心得事。
明治七年六月二十二日
太政大臣 三条實美
墓地取扱規則
第一則
東京府下朱引内従前ノ墓地二於テ、自今埋葬ヲ禁ジ左ノ九箇所ヲ以墓地ト定メ埋葬セシムベキ事
第七大區一小區 渋谷羽根澤神葬祭地
第八大區一小區 青山百人町續神葬地
第八大區一小區 青山 右同斷
第九大區一小區 染井 右同斷
第九大區一小區 雜司ヶ谷旭出町
第十大區一小區 谷中天王寺
第十大區四小區 小塚原旧火葬地
第六大區一小區 深川三十三間堂
此分朱引内タリト雖モ、最寄相當ノ場所無之ニ付、此地ヲ以設立ノ筈ニ候事
第十一大區三小區 龜井戸出村羅漢寺
第二則
一 右墓地ノ儀ハ会議所ニ於テ、墓所取扱所相談管轄セシムル事
第三則
一 右墓地ノ儀ハ除税地トシ區入費等差出ニ不及候事
以下略
その指定を受けて東京府は、東京会議所(現在の東京商工会議所)に命じて、指定九か所のうち、青山、同立山、雑司ヶ谷、染井、亀戸、谷中の六か所を造成、明治七年(1874)九月一日に開設し、これに関するすべての事務を東京会議所に委任しました。
その後明治九年(1876)五月に、会議所が廃止され、その事務が東京府に移管されることになり、墓地の造成、管理事務は各墓地のある区の区務所で取り扱うことになります。
甲第三十六號 明治九年五月二十二日
墓地払下ケ之儀、是迄会議所ニ於テ取扱來候處、來ル二十五日ヨリ該地區務所ニテ払下ケ事務爲取扱候条、墓地入用之節ハ甚區務所ヘ可申出。此旨布達候事。
明治二十二年(1889)、市町村制が施行され、青山墓地は他の墓地とともに東京市が所管することになります。同年五月、青山(立山地区を含む)、雑司ヶ谷、染井、谷中の四墓地が市区改正設計における共葬墓地に指定されています。
「市区改正設計」とは、現在の東京都市計画の前身であり、指定文書には、
「右ノ外東京市内ニ散在スル墓地ハ特別由緒アルモノノ外漸次他ニ移転セシムルモノトス」
とあります。つまり、都市計画上、都心部の墓地は郊外に移転して漸次整理する方針が打ち出されたことになります。
このような状況の中、明治三十六年七月の『新撰東京名所圖絵』第三八編には、往時の青山共葬墓地の様相が次のように紹介されています。
青山共葬墓地
青山共葬墓地は、青山南町三丁目に属せる一帯の丘陵にして、東は麻布新竜土の歩兵三聯隊兵営及射的場と窪地を距(へだ)てて相対し、南は麻布霞町及笄町に界し、其他は南町二、三、四、五の各町に連れり。而して同地は、青山大膳亮の屋舗地なりしが、明治初年市地に属せしめ、同五年十一月共葬地と爲せり。坪數八萬四千五十一坪なり。
中略
日尚殘けれど、府下貴賤幾万の鬼籍者を葬れるを以て、然(さ)しも広き丘陵も、今や剰(あま)す處の地域僅々たるものなり。四時青苔清く掃(はら)はれ、炷香(しゆこう、火のついた線香)、閼伽(あか、霊前に供える水)の絶ゆることなし。偶墓畦に立ち頭(かうべ)を回(めぐ)らせば數萬の墓石累々然たり。中に月卿雲客(げつけいうんかく、高位高官)碩彦(せきげん、学問や徳行のすぐれた人)の大家、英靈空しく地下に瞑して亦當年の慨(なげき)なし。只所々偉大の碑石屹然として聳ゆるあるのみ、嗚呼此所を過ぐるもの誰か懐旧の情に堪ふべけんや。漫(そぞろ)に暗涙の滂沱たるを覚ゆるなり。
ところで、市区改正新設計共葬墓地指定時において、都心部の墓地を漸次整理する方針が打ち出されましたが、明治四十四年に至り、青山墓地移転に関する建議が東京市議会に提出されました。そして、東京市議会は、此の建議を全会一致で可決しています。
青山墓地ハ廣袤(こうぼう)拾萬町歩ニ亘リテ市街地ヲ占領シ、埋葬人員四萬四千、墓標ノ石數壱萬九千余ヲ算ス。明治七年太政官布達當時此方面ハ所謂朱引外ナリシモ、現在ハ人家稠密ニシテ、純然タル商業地域ナリ。從ツテ衛生上、経濟上、体面上、其他何レノ方面ヨリ見ルモ都会ノ斯(かか)ル中心ニ墓地ヲ介在セシムルコトハ有害無用ノ事ニ属ス。
歐米諸國ニ於テモ繁華ナル都心ニ、生ケル人ト死セル人トヲ雜居セシムルコトハ、都市政策上之レヲ許サズ、多クハ墓地ヲ市外ニ設ケテ保健衛生ノ實ヲ挙ゲツツアリ。
我ガ國ニ於テモ明治七年ノ交、政府既ニ此趣意ヲ宣明シタリ。然るに明治四十四年ノ今日、依然トシテ繁華ノ地ニ墓地ヲ置クハ大ニ不可ナリ。
只墓地ノ移転ハ大事業ニシテ、多額ノ費用ト手數トヲ要スルノミナラズ、墓地ノ持主中ニハ、小公園ノ如キ地所ヲ有スル勢力家少カラズ。從ツテ種々ノ障害ヲ覚悟セザルベカラザルモ、中ニハ維新ノ革新ニ翼贊シテ功勞アリシ一家ノ如キ、自ラ進ンデ移転ヲ主張シツツアルモノアリ。
故ニ此際參事會二委員を設ケ、移転實行ニ關スル調査ヲ進メンコトヲ希望シテ止マズ。
結局この建議は可決されたものの、財政的な理由から青山墓地の移転は実行されませんでした。
しかし、その後も移転を要求する東京市民の声は依然強かったといいます。
こうした事情を背景として、明るく爽快な気分でお墓参りができる墓地、いわゆる「墓地公園」の構想が持ち上がりました。移転する代わりに、墓地のイメージを一新し、市民に親しまれる墓地にしようというものです。
また、当時、新規墓地の需要も増大していたため、青山墓地等の既存の墓地の整備が進められる一方、大正十二年(1923)には多磨墓地が、昭和十年(1935)には松戸に八柱霊園が開設されました。
そして、同じく昭和十年(1935)に、他の市営墓地とともに「霊園」と改められ、かくして青山墓地は「青山霊園」と呼ばれるようになりました。
おしまい
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