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2009年02月02日

おくの細道、いなかの小道(9)-須賀川

 おくの細道、いなかの小道(9)-須賀川 
 
 乙字ケ滝(玉川村竜崎) 名前の由来は水が乙字の形をして流れ落ちることに因んでいる。落差6m、幅100m。
 
 廿九日  快晴。巳中尅(午前10時ころ)、発足。石河滝(乙字ケ滝)見ニ行。 曾良随行日記 

 須か川の驛より東二里ばかりに、石河の瀧といふあるよし。行て見ん事をおもひ催し侍れバ、此比の雨にみかさ增りて、川を越す事かなハず 
 
 さみだれは 瀧降りうづむみかさ哉 (芭蕉) 曽良「俳諧書留」


 (旧暦  1月 8日)

 風流の 初(はじめ)やおくの田植うた

 芭蕉研究に生涯を捧げた越前丸岡の蓑笠庵梨一(1714~1783)が著した『奥細道管菰抄』によれば、

 奥州の田うへ歌は、生佛といふ、目くら法師の作と云伝ふ。此生佛は平家物語に、ふしを付て、琵琶に合せ初たるよし、徒然草にしるせり。故に風流のはじめとは申されたるなり。

 と云うことです。

 生佛という法師については、京都市左京区吉田神楽岡町の吉田山にある吉田神社の神職の子として生まれた卜部兼好(1283~1350?)、通称「吉田兼好」の随筆「徒然草」の第226段に、信濃前司行長が平家物語を作って、生佛と云う盲目の法師に教え語らせたという記述が記載されています。

 徒然草226段
 後鳥羽院の御時、信濃前司行長稽古の譽ありけるが、樂府の御論議の番に召されて、七徳の舞を二つ忘れたりければ、五徳の冠者と異名をつきにけるを、心憂き事にして、學問をすてて遁世したりけるを、慈鎭和尚、一藝ある者をば、下部までも召しおきて、不便にせさせ給ひければ、この信濃入道を扶持し給ひけり。

 この行長入道平家物語を作りて、生佛といひける盲目に教へて語らせけり。さて山門のことを殊にゆゝしく書けり。九郎判官の事は委しく知りて書き載せたり。蒲冠者の事は能く知らざりけるにや、多くの事どもを記しもらせり。武士の事弓馬のわざは、生佛東國のものにて、武士に問ひ聞きて書かせけり。かの生佛がうまれつきの聲を、今の琵琶法師は學びたるなり。


 あぶくま川を渡る

 離別歌
       陸奥に介にて罷りける時範永朝臣のもとに遣はしける     高階經重朝臣
 ゆく末に あふくま川のなかりせば いかにかせましけふのわかれを (新古今866)


 橡ひろふ太山(みやま)もかくやと閒(しづか)に覚られて

       入道寂然大原に住み侍りけるに、高野より遣しける   西行法師
 山ふかみ 岩にしたゝる水とめむ かつがつ落つる とちひろふ程 (山家集1202)
 世の人の 見付ぬ花や軒の栗

 『奥細道管菰抄』には、

 按ずるに此句は、佛教に云、衣裏宝珠の喩もて、趣向とし給へる歟(か)

とありますが、「衣裏宝珠の喩」とは、法華経の第8章:五百人の男性出家者たちへの予言(五百弟子受記品第八)に出てくる喩えで、

 ある男が友人の家に行ってから、酒に酔うか、あるいは眠り込んでしまい、その友人が『この宝石が、この男のためになるように』と考えて、値段もつけられないほど高価な宝石を衣服の縁に結びつけます。ある男はその後他国に行って大変な苦労をしますが、高価な宝石が衣服の縁に結びつけられていることに気付かないでいます。

 つまり、衣裏宝珠とは一切衆生がもっている仏性を譬え、苦労する男は自身の内に仏界があることに気がつかない凡夫を譬えています。

  一 廿二日  須か川、乍単斎(さたんさい)宿、俳有。
     廿三日  同所滞留。晩方ヘ可伸(栗斎、俗名簗井弥三郎)ニ遊、帰ニ寺々八幡ヲ拝。
  一 廿四日  主(等躬相楽伊左衛門)ノ田植。昼過ヨリ可伸庵ニテ会有。会席、そば切。祐碩(吉田等雲)賞之(之を賞す)。雷雨、暮方止。
     廿五日  主(等躬相楽伊左衛門)物忌(穢を避ける)、別火(火を別にする)。
     廿六日  小雨ス。
  一 廿七日  曇。三つ物(発句・脇句・第三句から成る三つの句)ども。芹沢の滝(須賀川市五月雨)へ行。
  一 廿八日  発足ノ筈定ル。矢内彦三郎来テ延引ス。昼過ヨリ彼宅ヘ行テ及暮(暮れに及ぶ)。十念寺・諏訪明神ヘ参詣。朝之内、曇。
  一 廿九日  快晴。巳中尅(午前10時ころ)、発足。石河滝(乙字ケ滝)見ニ行。(此間、さゝ川ト云宿ヨリあさか郡) 須か川ヨリ辰巳(南東)ノ方壱里半計有。滝ヨリ十余丁下ヲ渡リ、上ヘ登ル。歩ニテ行バ滝ノ上渡レバ余程近由。阿武隈川也。川ハヾ百二、三十間(216~234m)も有之(之有り)。滝ハ筋かヘニ百五、六十間(450~468m)も可有(有る可し)。高サ二丈(約6m)、壱丈五、六尺(約7.5~7.8m)、所ニヨリ壱丈(約3m)計(ばかり)ノ所も有之(之有り)。 

 
 結局、芭蕉翁一行は、相楽等躬宅に8日間にわたって滞在したことになります。
 相楽等躬宅は、現在の須賀川市本町の新町街道沿いにあるNTT東日本-福島の敷地にあったとされています。

 須賀川は、昭和における特殊撮影技術の第一人者であった円谷英二監督(1901~1970)の生まれ故郷であり、東京オリンピックのマラソン銅メダリスト円谷幸吉選手(1940~1968)のふるさとでもありますが、私「嘉穂のフーケモン」の従兄夫婦も住んでおり、10ha(東京ドームの3倍の広さ)の園内で290種、7,000株の古木が咲き誇る須賀川牡丹園も有名ですね。

 須賀川牡丹園は、明和3年(1766) 薬種商であった伊藤祐倫が摂津国山本村(兵庫県宝塚市)より苗を求め薬用に栽培したのが始まりで、その後柳沼牡丹園となり、今や牡丹の古園としては東洋一と云われている。園内には樹齢二百年以上の在来古木をはじめ、明治以降に育成された銘柄牡丹三百有余種五千株が園内一面に咲き誇り、園の周辺には老松巨樹が茂る閑静な花園である。この牡丹園も戦後には樹木の衰えがみられたが復興対策を進めた結果今日の盛況がもたらされた。
 昭和七年十月十九日文部省告示第二一八号をもって名勝に指定された。
 昭和三十二年一月十二日財団法人設立許可
平成四年四月二十八日
  財団法人 須賀川牡丹園保勝会


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Posted by 嘉穂のフーケモン at 22:32│Comments(0)おくの細道、いなかの小道
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