2008年08月25日
歴史/ヨーロッパ(3)-タタールのくびき(2)
キプチャク・ハン国の版図 星印は首都サライ・バトゥ
The domains of the Golden Horde in 1389 before the Tokhtamysh-Timur war, with modern international boundaries in light brown. The Principality of Moscow is shown as a dependency, in light yellow.
1389年、ティムールとの戦い以前のジョチ・ウルス。星印が首都サライ、北西に保護下のモスクワ大公国、クリミア半島海岸にはジェノヴァの植民地が存在する。モスクワの北西のノヴゴロド共和国にも勢力が及んでいる。キエフなど西部はリトアニア大公国に奪われている。サマルカンドなど南はティムール帝国領。
(旧暦 7月25日)
歴史/ヨーロッパ(2)-タタールのくびき(1)のつづき
1223年、ロシア平原に進出し、カルカ河畔においてキエフをはじめとするルーシ(ロシア)諸侯の大軍を打ち破ったチンギス・ハーンの家臣ジェベ(?~1225)とスブタイ(1176~1248)の諸軍は、その後チンギス・ハーンが兵站基地カラコルム(後のモンゴル帝国の首都)に帰還したことを知ると、つぎつぎと帰還をはじめ、遠く東の草原に去りました。
13年後の1236年春2月、モンゴル帝国第2代オゴデイ・ハーン(在位1229~1241)の命を受けて総司令官となったチンギス・ハーンの孫バトゥ(1207~1256)の西方遠征軍数万は、1236年、ヴォルガ川中流域のヴォルガ・ブルガールを席巻し、翌1237年12月にはリャザン公国に侵攻して首都リャザンを6日間の包囲の後破壊し、住民を虐殺します。
その後モンゴル軍は北上して、当時は辺境の町であったモスクワを5日間の包囲の後陥落させ、1238年2月7日、モスクワの東北東200Kmにあるウラジミール・スーズダリ大公国の首都ウラジミールも陥落させます。
援軍を求めて北方にいたウラジミール大公ユーリー2世(1181~1238)は、バトゥの主力部隊とシチ河畔で衝突しますが、3月4日、ユーリー2世は捕縛され処刑されてしまいます。
さらにモンゴル軍はいくつもの部隊に分かれて北東ルーシ(ロシア)各地を襲撃し、ノブゴロド方面を除く多くの都市を破壊して、同年6月南方のステップ地帯へ去ってしまいました。雪解け時期の沼沢に行軍を阻まれたこと、長期にわたる遠征に疲弊していたとも考えられています。
1240年秋、モンゴル軍はふたたび大規模な行動に出てドニエプル川を西に渡り、ロシ河畔の諸都市を攻略しながら北上し、堅固な城壁に囲まれたキエフ大公国の首都キエフを攻撃しました。
キエフはモンゴル軍に激しく抵抗しましたが、バトゥ指揮下のモンゴル軍は破壁機で夜も昼も打撃をして城壁に大穴を開け、そこから城内に侵入して2ヶ月半の攻撃の後陥落させてしまいます。
モンゴル軍による破壊のすさまじさは、5年後の1246年にキエフを通過したローマ教皇インノセント4世の使節プラノ・カルビニが、残っている人家は200戸にすぎないと記録しており、5万人を数えた人口が2千人に減ったと推測されています。
キエフ攻略後モンゴル軍は西進してポーランドとハンガリーに侵攻し、バイダル率いる前衛軍が1241年4月9日にワールシュタット(ポーランド南西)でドイツ・ポーランド連合軍を破ってポーランド王ヘンリク2世(1196~1241)を処刑しました。
一方、バトゥ率いる主力軍はトランシルバニアからハンガリーに侵入し、ティサ川流域のモヒー平原でハンガリー王ベーラ4世(在位1235~1270)を破り、ベーラ4世はオーストリア経由でアドリア海沿岸の孤島へ敗走しました。
しかし、モンゴル帝国第2代オゴデイ・ハーン(在位1229~1241)崩御の報を受け、1242年3月、モンゴル軍はドナウ流域を経由してカスピ海北岸まで撤退しますが、バトゥはヴォルガのサライ・バトゥにとどまり、ここを首都として1243年にカザフ草原から黒海沿岸低地にいたる広大なキプチャク草原にキプチャク・ハン国(ジョチ・ウルス)を立て、ノヴゴロドを含む全ルーシを支配下に組み込みます。
ノブゴロドを含むロシア諸公国(ルーシ)は、キプチャク・ハンの直接統治は受けず、従属国家として徴税・徴兵の義務に服しました。
ロシアに対するキプチャク・ハン国の支配は1480年までの約240年間にわたりますが、モンゴル軍による都市の破壊と住民の虐殺はロシア手工業に大打撃を与え、ロシア手工業の発達を150~200年にわたって押さえ込んだと主張する研究者もいるほどです。
15世紀末まで200年以上にわたって続くことになるこのタタール=モンゴルによる支配のことをロシア史では「タタールのくびき」(the Tatar-Mongol yoke)と呼んでいますが、この「タタールのくびき」こそ、ロシアの後進性の大きな原因であったと主張する歴史家もいるようです。
おしまい
キエフはモンゴル軍に激しく抵抗しましたが、バトゥ指揮下のモンゴル軍は破壁機で夜も昼も打撃をして城壁に大穴を開け、そこから城内に侵入して2ヶ月半の攻撃の後陥落させてしまいます。
モンゴル軍による破壊のすさまじさは、5年後の1246年にキエフを通過したローマ教皇インノセント4世の使節プラノ・カルビニが、残っている人家は200戸にすぎないと記録しており、5万人を数えた人口が2千人に減ったと推測されています。
キエフ攻略後モンゴル軍は西進してポーランドとハンガリーに侵攻し、バイダル率いる前衛軍が1241年4月9日にワールシュタット(ポーランド南西)でドイツ・ポーランド連合軍を破ってポーランド王ヘンリク2世(1196~1241)を処刑しました。
一方、バトゥ率いる主力軍はトランシルバニアからハンガリーに侵入し、ティサ川流域のモヒー平原でハンガリー王ベーラ4世(在位1235~1270)を破り、ベーラ4世はオーストリア経由でアドリア海沿岸の孤島へ敗走しました。
しかし、モンゴル帝国第2代オゴデイ・ハーン(在位1229~1241)崩御の報を受け、1242年3月、モンゴル軍はドナウ流域を経由してカスピ海北岸まで撤退しますが、バトゥはヴォルガのサライ・バトゥにとどまり、ここを首都として1243年にカザフ草原から黒海沿岸低地にいたる広大なキプチャク草原にキプチャク・ハン国(ジョチ・ウルス)を立て、ノヴゴロドを含む全ルーシを支配下に組み込みます。
ノブゴロドを含むロシア諸公国(ルーシ)は、キプチャク・ハンの直接統治は受けず、従属国家として徴税・徴兵の義務に服しました。
ロシアに対するキプチャク・ハン国の支配は1480年までの約240年間にわたりますが、モンゴル軍による都市の破壊と住民の虐殺はロシア手工業に大打撃を与え、ロシア手工業の発達を150~200年にわたって押さえ込んだと主張する研究者もいるほどです。
15世紀末まで200年以上にわたって続くことになるこのタタール=モンゴルによる支配のことをロシア史では「タタールのくびき」(the Tatar-Mongol yoke)と呼んでいますが、この「タタールのくびき」こそ、ロシアの後進性の大きな原因であったと主張する歴史家もいるようです。
おしまい
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