2008年06月07日
おくの細道、いなかの小道(6)-雲巌寺
Tamamo-no-Mae. Print by Yoshitoshi from Wikipedia.
玉藻前 月岡芳年(1839~1892) 画
「狂画家」「血まみれ芳年」などと呼ばれた幕末から明治前期にかけての浮世絵師
(旧暦 5月 4日)
木啄(きつつき)も 庵(いほ)はやぶらず夏木立
東山雲巌寺は、下野国黒羽の東方約3里、八溝(やみぞ)山地山麓の清流、武茂川(むもがわ)沿いにあります。
臨済宗妙心寺派の禅寺で山号を東山と云い、筑前博多・聖福寺、越前志比・永平寺、紀州由良・興国寺とともに禅宗の日本四大道場の一つとされています。
この寺は、後嵯峨院(1220~1272) の皇子として生を受け、康元元年(1256)に出家して東福寺の円爾弁円(聖一国師)と来朝僧兀庵普寧(ごったんふねい)に学んだ後、関東を行脚してこの地に庵を結んだ後の応供広済仏国国師、高峰顕日(1241~1316)の開祖と伝えられています。
また伽藍は、鎌倉幕府の第8代執権北条時宗により、弘安6年(1283)に建立されたとしています。
那須の庵にて、月をみたまひて
しげりあふ峰の椎しば吹きわけて 風のいれたる窓の月影 (佛國禅師集)
芭蕉は旧暦4月5日にこの地を訪ねていますが、その目的は、江戸深川で親交のあった参禅の師佛頂和尚(1642~1715)が修行時代に雲巌寺の山中に結んだ庵の跡を訪ねることにあったようです。
芭蕉は延宝8年(1680)に深川芭蕉庵に移り、元禄7年(1694)10月12日に51歳で没するまで、この地を根拠地として全国の旅に出ていました。
天保5年(1834)および同7年(1836)に刊行された江戸名所図によれば、「芭蕉庵旧址は萬年橋の北詰松平遠州侯(尼崎藩4万5千石松平紀伊守)の庭中にありて、古池の形今も存せりという。」とあります。
また、佛頂和尚は鹿島根本寺21世の住職で、当時、鹿島神社との係争のために江戸に出て仮住まいしていた臨川庵は、小名木川の対岸、深川大工町(現在の江東区清澄3-4-6)にあり、深川に移った延宝8年(1680)頃から芭蕉は臨川庵に参禅する日々を送ったと伝えられています。
十景尽る所、橋をわたつて山門に入(いる)
雲巌寺には、十景、五橋、三水など云う景色のすばらしいところがありますが、同行した曾良の残した「俳諧書留」によれば、次のように記述されています。
雲岩(巌)寺十景は、
海岩閣 竹林 十梅林 龍雲洞 玉几峯
鉢盂峯 水分石 千丈岩 飛雪亭 玲瓏岩
五橋は、
獨木橋 瑞雲橋 瓜瓞橋 涅槃橋 梅船橋
三水は、
神龍池 都寺泉 岩虎井
さて、かの跡はいづくのほどにやと、後の山によぢのぼれば、石上の小菴岩窟にむすびかけたり。妙禅師の死関、法雲法師の石室をみるがごとし。
妙禅師とは、中国南宋時代の臨済宗の高峰原妙禅師(1238~1395)のことで、中国の天目山(浙江省と安徽省の間に広がる海抜1400m程度の山群の総称)の洞窟、張公洞に「死関」という扁額を掲げ、15年間籠もったと云います。
また、法雲法師とは、中国南朝の梁(502~557)の三大法師と呼ばれ、梁の武帝の厚い庇護を受けた法雲(467~529)を指すのが定説のようです。
法雲は、「法華経義記」を著し、その中で、「此の経いまだ碩然(せきねん:明らか)ならず」あるいは「異の方便」として「法華経はいまだ仏理をきわめざる経」であると書いていますが、後に出現した天台大師(538~597)はこうした法雲の教説を破折して、「光宅寺の法雲法師は謗法(法華経誹謗)によって地獄に堕ちぬ」と断じられています。
山深み 昼くるだにもさびしきに よる人やある白糸のたき 曾良「俳諧書留」
つぎはやっと那須温泉の殺生石です。遅いねえ~
雲巌寺には、十景、五橋、三水など云う景色のすばらしいところがありますが、同行した曾良の残した「俳諧書留」によれば、次のように記述されています。
雲岩(巌)寺十景は、
海岩閣 竹林 十梅林 龍雲洞 玉几峯
鉢盂峯 水分石 千丈岩 飛雪亭 玲瓏岩
五橋は、
獨木橋 瑞雲橋 瓜瓞橋 涅槃橋 梅船橋
三水は、
神龍池 都寺泉 岩虎井
さて、かの跡はいづくのほどにやと、後の山によぢのぼれば、石上の小菴岩窟にむすびかけたり。妙禅師の死関、法雲法師の石室をみるがごとし。
妙禅師とは、中国南宋時代の臨済宗の高峰原妙禅師(1238~1395)のことで、中国の天目山(浙江省と安徽省の間に広がる海抜1400m程度の山群の総称)の洞窟、張公洞に「死関」という扁額を掲げ、15年間籠もったと云います。
また、法雲法師とは、中国南朝の梁(502~557)の三大法師と呼ばれ、梁の武帝の厚い庇護を受けた法雲(467~529)を指すのが定説のようです。
法雲は、「法華経義記」を著し、その中で、「此の経いまだ碩然(せきねん:明らか)ならず」あるいは「異の方便」として「法華経はいまだ仏理をきわめざる経」であると書いていますが、後に出現した天台大師(538~597)はこうした法雲の教説を破折して、「光宅寺の法雲法師は謗法(法華経誹謗)によって地獄に堕ちぬ」と断じられています。
山深み 昼くるだにもさびしきに よる人やある白糸のたき 曾良「俳諧書留」
つぎはやっと那須温泉の殺生石です。遅いねえ~
奥の細道、いなかの小道(46)− 大垣(2)
奥の細道、いなかの小道(45)− 大垣(1)
奥の細道、いなかの小道(44)− 種の濱
奥の細道、いなかの小道(43)− 敦賀(2)
奥の細道、いなかの小道(42)− 敦賀(1)
奥の細道、いなかの小道(41)− 福井
奥の細道、いなかの小道(45)− 大垣(1)
奥の細道、いなかの小道(44)− 種の濱
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