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2008年02月21日

北東アジア(30)-宦官

 北東アジア(30)-宦官

 老いたる宦官

 (旧暦  1月 15日)

 泰忌  高濱虛子の六女章子と結婚、俳誌「春潮」を創刊して主宰し、戦後の「ホトトギス」では新感覚派として特異な存在となった俳人上野泰の昭和48年(1973)年の忌日
 竹を伐る 人にやむなし雪解雨
 秋晴や 太鼓抱へに濯ぎもの
 入学す 戦後飢餓の日生れし子


 日本は中国から政治制度を始めとする様々な文化を学びましたが、科挙制度と宦官の制度だけはついに取り入れませんでした。

 科挙制度については、京都学派の中心人物として戦後の東洋史学界をリードし、『九品官人法の研究』などの著作で有名な故宮崎市定先生(1901~1995)の『科挙史』(東洋文庫、平凡社)に詳しく述べられています。

 また、宦官については、京都支邦学の創設者にして京都帝国大学の学宝とまで呼ばれた内藤湖南博士(1866~1934)および「塞外史」のうち特に「西域史」の研究において日本の西域史学の確立に貢献した後の京都帝国大学総長羽田亨博士(1882~1955)に師事し、戦後は立命館大学で教鞭を執った三田村泰助博士(1909~1988)の著作『宦官-側近政治の構造』 (中公新書、中央公論新社)が著名です。

 第115回(平成8年7月)直木賞候補作、浅田次郎氏の長編小説『蒼穹の昴』でも描写されていますが、湖北大学教授顧蓉博士および同葛金芳博士の共著による『霧横帷牆<古代宦官群体的文化考察>』(陝西人民教育出版社、1992)、訳書名『宦官<中国四千年を操った異形の集団>』(尾鷲卓彦訳、徳間書店)でも、三田村博士の著作を参考にしながら浄身(去勢手術)の様子など近代中国における宦官の実態が詳しく記述されています。

 三田村博士によれば、1870~80年代にイギリス人ステントが宦官の実態について北京で調査した際、紫禁城の南西部西華門外に「廠子(chǎng zǐ)」と呼ばれるみすぼらしい建物があり、そこが宦官となる人の手術場であったそうです。
 「廠子(chǎng zǐ)」には、無給だが清朝公認の「刀子匠(dāo zǐ jiàng)」と呼ばれる執刀人が数人いて、手術料一人銀6両(テール)であり、すっかり治癒するまでの責任を負ったと云います。
 1964年の新中国全国政治協商会議に出席していた清末の宦官の証言によれば、光緒26年(1900)まで北京で浄身手術を行っていたのは、南長安街会計司胡同の畢五家(bì wŭ jiā)と地安門内方磚胡同の小刀劉(xiǎo dāo liú)であり、この二家の主はいずれも清朝の七品官(下級官吏)でした。
 彼らは清朝の内務府(宮廷諸事を司る役所)に節季ごとに40人、1年で160人の宦官を調達する義務があり、北京城内の浄身を一手に行っていたと云います。

 ちなみに、清朝の貨幣の一つである「銀両」は、お椀や馬の蹄に似た銀の塊(馬蹄銀)で決まった重さはなく、常に重さを量りながら使用する秤量貨幣でした。
 重さの単位は「両(テール)」ですが、地域や役所によって、はかりが何種類もあり、主なものだけでも庫平両=37.31g、海関両(関平両)=37.68g、上海両(申漕平両)=36.66gなどの差異があったようです。

 明治33年(1900)年の義和団事変(庚子事變、Boxer Rebellion)のあとに締結された「北清事変に関する最終議定書」(辛丑条約、Boxer Protocol)で定められた為替レートによれば、清の1海関両(37.68g)が日本の1.407円とされているため、清の銀6両は当時の日本円では約8円44銭です。
 米価で換算すると、明治34年の米価が1俵60㎏3円76銭であることから、現在では1俵60㎏約16,000円として約4255倍、従って浄身料銀6両は約36,000円程度になるのでしょうかね。

 さて、三田村博士によれば、その浄身の手順は以下のようになるそうです。

 1. 浄身者は炕(kàng、オンドル)の上に腰を浮かせて座ると、助手の一人が腰を抱きかかえ、他の二人が左右の足を押さえつける。

 2. 刀子匠(dāo zǐ jiàng)が数回、「後悔不後悔(hòu huǐ bù hòu huǐ)」(後悔しないか)と念を押し、少しでも躊躇すると浄身は中止される。

 3. 白い紐あるいは繃帯で下腹部と大腿部を堅く縛り、手術部分を熱い辣椒湯(là jiāo tāng)で洗滌する。

 4. 鎌型に湾曲した小刀で陰茎と陰嚢を同時に切断し、白鑞(銅と亜鉛の合金)の針を尿道に挿入して栓をしたのち、冷水に浸した紙で包んで止血する。

 5. 二人の助手が浄身者を支えて部屋の中を2~3時間ゆっくり歩かせ、そののち横にして休ませる。

 6. 浄身後3日間は水を与えず、喉の渇きと傷口の痛みのため非常な苦痛を味わうが、3日して白鑞の針を抜き取った時に尿が噴出すれば成功となり、そうでなければ苦悶し、誰も救うことはできない。

 7. 100日たって傷口が全快すると、満州族の王府に送られて実務を習い、1年後には紫禁城に移されて、正式の職に就く。


 何ともはやすざまじいものですが、生きる道を宦官に求めた者の覚悟には、敬服する強さがあります。



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Posted by 嘉穂のフーケモン at 10:13│Comments(0)歴史/北東アジア
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