さぽろぐ

文化・芸能・学術  |札幌市中央区

ログインヘルプ


2005年12月23日

北東アジア(23)−貞観政要(2)

 北東アジア(23)−貞観政要(2)

 房玄齢 『前賢故実』より(菊池容斎画)

 (旧暦 11月22日)

 北東アジア(22)−貞観政要(1)のつづき

 さてこの『貞観政要』の問答で有名な臣下に、「人生意氣に感ず」という漢詩「述懐」でも馴染みのある魏徴(580〜643)がいますが、「創業と守成いずれが難きや」との太宗皇帝と魏徴のやりとりはよく知られていますね。

 貞観十年、太宗、侍臣に謂ひて曰く、帝王の業、草創と守文と孰(いず)れか難き、と。尚書左僕射房玄齢對(こた)へて曰く、天地草昧(そうまい)にして、群雄競ひ起る。攻め破りて乃ち降し、戦ひ勝ちて乃ち剋(か)つ。此に由りて之を言へば、草創を難しと為す、と。
 魏徴對(こた)へて曰く、帝王の起るや、必ず衰亂を承(う)け、彼(か)の昏狡(こんかう)を覆(くつがへ)し、百姓、推すを楽しみ、四海、命に帰す。天授け人与ふ、乃ち難しと為さず。然れども既に得たるの後は、志趣驕逸(けういつ)す。百姓は静を欲すれども、徭役(えうえき:労役)休まず。百姓凋残(てうざん)すれども、侈務(しむ)息まず。国の衰弊は、恆(つね)に此(これ)に由りて起る。斯(これ)を以て言へば、守文は則ち難し、と。 (巻第一 君道第一 第三章)


 太宗皇帝が臣下に対し、「帝王の業、草創と守文と孰(いず)れか難(かた)き」と問うたのに対し、尚書(詔勅の実行機関)の左僕射(副長官だが、唐朝では長官が欠番となり実権を行使した)の房玄齢は「創業が困難」としたのに対し、秘書監の魏徴は、「守分(維持)は則ち難(かた)し」として以下のような理由を述べました。

 1. 帝王の地位を得た後は、志向が気ままになる。
 2. 臣民は安静な生活を望むのに、労役が休(や)まない。
 3. 臣民は疲れ果てていても、帝王の使役は息(や)まない。
 4. 国が亡びるのは、常にこのような原因によって起きるので、完成されたものを維持していくことの方が困難である。


 このところ、企業の2代目経営者に会う機会が増えていますが、どの分野でも2代目は大変ですね。
 太宗に対して常に直諫(じかに諫言)することを憚らなかった魏徴は巨鹿曲陽(河北省晋県)の人で、幼児期に孤児となり貧困でしたが、大志を抱いて道士となり、広く学問を修めながら時節の到来を待ちました。
 
 その後、隋末の大乱に遭遇して群雄の李密(582〜618)のもとへ身を寄せましたが、李密が敗戦した後は共に唐の高祖李淵(565〜635)に降り仕えました。

 武徳の末年(625、6年頃)、隱太子李建成(高祖李淵の長男、589〜626)の洗馬(側近)となり、主人隱太子と2男で後の太宗李世民とが陰で互いに陥れあい権力闘争をしているのを見て、常に太子李健成に早く適切な手を打つように勧めていましたが、武徳9年(626)6月、2男李世民が長安城内玄武門で太子李建成と弟の李元吉を殺害(玄武門の変)し、8月、2代皇帝(太宗)に即位してしまいした。

 太宗、隱太子を誅するに及び、徴を召して之を責めて曰く、汝、我が兄弟を離間するは、何ぞや、と。衆皆之が為めに危懼(きく)す。徴、慷慨自若、従容として対へて曰く、皇太子、若し臣が言に従はば、必ず今日の禍無かりしならん、と。太宗、之が為めに容(かたち)を斂(おさ)め、厚く礼異を加へ、擢(ぬきん)でて諌議大夫に拝し、數々(しばしば)之を臥内(ぐわない)に引き、訪(と)ふに政術を以てす。
 (巻第二 任賢第三 第三章)

 太宗は、兄の隱太子を殺害した後、魏徴を召して、「汝がわれわれ兄弟の仲を離間させたのはいかなる訳か」と問詰しましたが、魏徴は意気盛んに落ち着いて、「皇太子がもしも私の献策に従っていたならば、今日のような禍はなかったでしょう」と平然と言ってのけたため、太宗が感心して諫議大夫(皇帝の過失を諫め、政治の得失に関して意見を述べる官職)に取り立て、度々寝室の中にまで引き入れて政治について尋ねたと云います。

 このように太宗の信頼厚い侍臣でしたが、貞観17年(643)に魏徴が亡くなったときには、太宗は非常に哀しんで侍臣へこのように謂いました。

 人は銅を以て鏡と為し、衣冠を正すべし、古きを以て鏡と為し、興替を見るべし、人の為す鏡を以て、得失を知るべし。魏徴の沒、朕亡くせし一鏡矣。
 [資治通鑑 巻第一百九十六 唐紀十二 十七年(癸卯)]

 
 「人は銅を鏡とすれば、衣冠を正すことができる。古(いにしえ)を鏡とすれば、興亡の理が見える。人を鏡とすれば、過失を知ることが出来る。魏徴が没して、余は鏡を一つ失った」と。

 とりあえずおしまい。そのうちまた!

あなたにおススメの記事

同じカテゴリー(歴史/北東アジア)の記事画像
北東アジア(37)-瀟湘八景
北東アジア(36)-中國正史日本傳(2)-後漢書東夷列傳
北東アジア(35)-リットン報告書(3)
北東アジア(34)-リットン報告書(2)
北東アジア(33)-リットン報告書(1)
北東アジア(32)-奉天討胡檄(2)
同じカテゴリー(歴史/北東アジア)の記事
 北東アジア(37)-瀟湘八景 (2010-11-04 21:00)
 北東アジア(36)-中國正史日本傳(2)-後漢書東夷列傳 (2009-04-26 16:27)
 北東アジア(35)-リットン報告書(3) (2009-01-10 20:29)
 北東アジア(34)-リットン報告書(2) (2009-01-09 18:06)
 北東アジア(33)-リットン報告書(1) (2009-01-07 22:20)
 北東アジア(32)-奉天討胡檄(2) (2008-11-19 20:13)
Posted by 嘉穂のフーケモン at 11:13│Comments(0)歴史/北東アジア
※このブログではブログの持ち主が承認した後、コメントが反映される設定です。
上の画像に書かれている文字を入力して下さい
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。
削除
北東アジア(23)−貞観政要(2)
    コメント(0)