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2005年12月09日

漢詩(9)−魏徴−述懐

 漢詩(9)−魏徴−述懐

 Statue of Wei Zheng 

 (旧暦 11月 8日)

 漱石忌  小説家夏目漱石の大正5年(1916)の忌日

 中原に還(ま)た鹿を逐(お)ひ
 筆を投じて 戎軒(じゅうけん)を事とす。
 縱横の計 就(な)らざるも
 慷慨の志 猶(な)ほ存す。

 策を杖つきて 天子に謁(ゑつ)し
 馬を驅(か)りて 關門を出づ。
 纓(えい)を請ひて 南越を繋ぎ
 軾(しょく)に憑(よ)りて 東藩を下さん。

 鬱紆(うつう)として 高岫(かうしう)に陟(のぼ)り
 出沒して 平原を望む。
 古木 寒鳥鳴き
 空山 夜猿啼く。
 既に 千里の目を傷ましめ
 還(ま)た 九折の魂を驚かす。
 豈(あ)に 艱險を憚(はばか)らざらんや
 深く國士の恩を 懷(おも)ふ。

 季布に 二諾無く
 侯嬴(こうえい)は  一言を重んず。
 人生 意氣に感ず
 功名 誰(たれ)か復(ま)た論ぜんや。
 日本では江戸時代以降唐詩の選集として大いに愛読された『唐詩選』は、明の李攀龍(1514〜1570)の撰とされていますが、最近では李攀龍の名声を利用して出版元が編集した俗本であるとの説が有力となっています。

 その『唐詩選』の冒頭を飾るこの詩は、「一諾千金」といったことわざの出典にもなり、約束を必ず守ることで有名であった前漢の季布や、戦国時代の魏の信陵君の食客となった隠士で、自分の一言とその信義のために自らの言に従い命を絶った侯嬴(こうえい)の故事を述べ、士は己を理解してくれる者に対して感動・感激して生命をも擲(う)つものであり、手柄をたて名をあげるという名誉は、一体だれが問題としようかと結んでいます。

 『史記・巻百・季布欒布列傳第四十』には、「楚人諺に曰く、黄金百(斤)を得るは、季布の一諾を得るに如かず」 ( お金を沢山貰うよりも、季布に頼みごとをして「わかった!」と言ってもらった方がよい)との記述があります。

 また同じく『史記・巻七十八・魏公子列傳第十七』には、 「侯嬴(こうえい)は七十歳で夷門(東門)の監者となり、後、信陵君の食客となりましたが、信陵君が出陣するときに、侯嬴(こうえい)は献策はしましたが老齢ゆえに従軍を辞退しました。しかし、信陵君が目的地に着到すると思われる日に、自刎して信陵君を送ろうと言い、その言のとおりに自殺した」との記述があります。

 侯生曰、「臣宜從、老不能。請數公子行日、以至晉鄙軍之日、北鄕自剄、以送公子」
 
 侯生曰く、臣宜(よろ)しく從ふべし、老いて能(あた)はず。請ふ公子の行日(かうじつ)を數へ、晉鄙(しんぴ)の軍に至るの日を以て、北に鄕(むか)って自剄(じけい)し、以て公子を送らんと

 「命をかけて信義を貫く」、なかなかできることではありません。しかし、このような人間の美学は、本来、古代中国の美学であったはずですが、現代の日本においても若い世代は別としても、私「嘉穂のフーケモン」にはなかなか魅力ある生き様と云わざるを得ないものがあります。

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Posted by 嘉穂のフーケモン at 23:33│Comments(0)漢詩
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