2005年07月16日
詩歌(3)−北帰行
雪の北大旧理学部
(旧暦 6月11日)
窓は夜露にぬれて 都すでに遠のく
北へ帰る旅人ひとり 涙流れてやまず
建大一高旅高 追われ闇をさすらう
汲めど酔わぬ恨みの苦杯 嗟嘆ほすに由なし
富も名誉も恋も 遠きあこがれの日の
淡きのぞみはかなきこころ 恩愛我を去りぬ
わが身容るるにせまき 国を去らんとすれば
せめて名残りの花の小枝 尽きぬ未練の色か
いまは黙して行かん 何をまた語るべき
さらば祖国わがふるさとよ あすは異郷の旅路
[旅順高等学校寮歌 作詞・作曲 宇田博]
同じく宇田博氏が作詞した第1回寮歌「薫風通ふ」で有名な旅順高等学校は、昭和15年(1940)、旧制高等学校唯一の外地の学校として中国遼東半島の租借地関東州旅順に設置されました。官立ではありますが、旧文部省の管轄ではなく、旧拓務省所管の関東州立でした。
薫風通ふ春五月 父祖奮戦の地に立てば
肉弾のあと草萌えて 楊柳岸に陰淡く 渤海湾の波青し
昭和18年(1943)に寮が完成し、禁酒、禁煙、門限10時の全寮制となりましたが、時あたかも大東亜戦争の激化に伴い、既設の旧制高等学校のように伸びやかな自治寮の生活とは行かなかったようです。
しかし、昭和20年8月の敗戦と共に廃校になり、わずか5年4ヶ月でその姿を消しました。
さてこの「北帰行」は、昭和36年(1961)に当時の日活映画「渡り鳥シリーズ」でスターダムに上ったアクションスター小林旭が歌って大ヒットとなりました。
「北帰行」は、宇田博氏が退校処分になった後の作品だから、正式な旅高の寮歌ではないとする説もあるようですが、『官立旅順高等学校創立四十年史』に寄稿された鈴木三郎元教授の手記の要旨が、『旧制高校物語』(秦郁彦著 文春新書)に紹介されています。
昭和16年春、作詞・作曲者の宇田博が退校処分にされて間もない教授会に、「北帰行」を廃歌とする(ただし曲は存続、他の歌詞を以て入れかえる)案が提出された。
この歌の持つ高い芸術性を愛していた鈴木は歌の価値と作者の行状は別だと強調し、同調した教官もいて、川瀬校長は議案の撤回を宣言したという。云々・・
なぜ宇田氏が退校になったかは、当時旅順の新市街にあった深川洋品店の19歳のメッチェン(maedchen ドイツ語:若い女性)と仲良くなりましたが、ある日彼女と大連に映画を見に行ったことを誰かに告げられ、帰りにバスを降りたところで学生課長に待ちかまえられてみつかり、査問されて退校になったそうです。
しかし、昔は女性と付き合うのも大変だったんですね。
詳しくは、「二木紘三のMIDI歌声喫茶」というHPに掲載されてます。
(http://www5f.biglobe.ne.jp/~futakoz/versoj/v-folksong/hokkiko.htm)
宇田氏はその後、旧制一高文科丙類(仏語専攻)に入学し、昭和20年3月に卒業して、その後、東大仏文科を卒業、TBSで常務・監査役を歴任されています。
しかし、昭和20年8月の敗戦と共に廃校になり、わずか5年4ヶ月でその姿を消しました。
さてこの「北帰行」は、昭和36年(1961)に当時の日活映画「渡り鳥シリーズ」でスターダムに上ったアクションスター小林旭が歌って大ヒットとなりました。
「北帰行」は、宇田博氏が退校処分になった後の作品だから、正式な旅高の寮歌ではないとする説もあるようですが、『官立旅順高等学校創立四十年史』に寄稿された鈴木三郎元教授の手記の要旨が、『旧制高校物語』(秦郁彦著 文春新書)に紹介されています。
昭和16年春、作詞・作曲者の宇田博が退校処分にされて間もない教授会に、「北帰行」を廃歌とする(ただし曲は存続、他の歌詞を以て入れかえる)案が提出された。
この歌の持つ高い芸術性を愛していた鈴木は歌の価値と作者の行状は別だと強調し、同調した教官もいて、川瀬校長は議案の撤回を宣言したという。云々・・
なぜ宇田氏が退校になったかは、当時旅順の新市街にあった深川洋品店の19歳のメッチェン(maedchen ドイツ語:若い女性)と仲良くなりましたが、ある日彼女と大連に映画を見に行ったことを誰かに告げられ、帰りにバスを降りたところで学生課長に待ちかまえられてみつかり、査問されて退校になったそうです。
しかし、昔は女性と付き合うのも大変だったんですね。
詳しくは、「二木紘三のMIDI歌声喫茶」というHPに掲載されてます。
(http://www5f.biglobe.ne.jp/~futakoz/versoj/v-folksong/hokkiko.htm)
宇田氏はその後、旧制一高文科丙類(仏語専攻)に入学し、昭和20年3月に卒業して、その後、東大仏文科を卒業、TBSで常務・監査役を歴任されています。
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