2005年04月18日
染井霊園(6)−幣原喜重郎の墓
(旧暦 3月10日)
幣原喜重郎(1872〜1951)といえば、昭和20年(1945)10月首相となり、日本の戦後処理と新日本建設に貢献した政治家として有名ですが、大正後期から昭和初期にかけて、外務大臣として「幣原外交」と呼ばれる国際協調外交を展開し、英米との強調、中国に対する内政不干渉、国際連盟中心主義などの、戦前の日本の外交方針における一つの標準を築いた人でした。
しかし、国内においては、特に中国との関係では、陸軍・政友会・枢密院・右翼の反感を買い「軟弱外交」との批判を受けていました。
幣原の考えは、「中国革命にさいしては、日本や列強が如何なる理由があろうとも干渉することは問題であり、中国の成長を見守ることが必要」という事であったようです。
大正4年(1915)、第2次大隈内閣(外相加藤高明)が、世界大戦のどさくさに紛れて中国に要求した「(対華)二十一ヵ条の要求」は、世界中から反発と顰蹙を買い、中国における反日感情の原点ともなったあきれるほど厚かましい要求でしたが、その内容は、以下のようなものでした。
1.山東省ドイツ権益の譲渡
2.漢冶萍公司(中国の清末に設立された製鉄業を中心とする代表的な企業の一つ)の共同経営
3.南満洲・内モンゴル権益の期限延長(25年から99年に延長)と鉄道敷設権
4.福建省不割譲確認 その他
対華不干渉を唱え、「対華21カ条要求」以来の中国における反日感情をやわらげ、日本を国際的孤立状態から脱却させること、および排日ボイコットの鎮静化による中国市場の回復と中国世論の好転による中国での権益、とくに満蒙における特殊地位の維持が彼の主眼でした。
しかし、昭和2年(1927)3月、蒋介石の国民革命軍が南京を占領した際に起きた日英両国の領事館襲撃事件(南京事件)に対し、幣原は、蒋介石に対して事態収拾を勧告する一方、英米に対して損害賠償の緩和を求めましたが、在留邦人が多大の損害を被ったことを新聞報道で知った国民は、幣原外交を「軟弱外交」として非難したのです。
80年後の今日、反日感情を発端とした中国各地のデモおよび投石等による破壊活動の報に接するとき、「歴史は繰り返す」とは云われますが、泉下の幣原さんはどのように思っているのでしょうか。
染井霊園(11)ー安岡正篤先生の墓
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