2005年03月24日
パイポの煙(15)−博多人形もびっくり
福岡県西方沖地震による志賀島周回道路上の崖崩れ
(旧暦 2月15日)
檸檬忌 作家梶井基次郎の昭和7年(1932)の命日。代表作の『檸檬』にちなみ檸檬忌と呼ばれる。
このところ地震が相次いでいますが、3月20日に発生した「福岡県西方沖地震」では、日頃地震災害などは関係ないと思っていた我が古里筑紫の国の住人たちも、さぞかしびっくりしたことでしょう。
何しろ、彼らにとっては今時世界大戦による福岡空襲よりも、文永の役(1274年)と弘安の役(1281年)による元寇の方が未だに強烈な印象を残しており、まあ、それ以外は大した災害のない平和な土地柄だったからでしょうかね。
ちなみに福岡空襲では、昭和20年(1945)6月19日、マリアナ基地を出発したB29爆撃機221機が、有明海から背振山地を越えて西南部方面から福岡市内に侵入、午後11時過ぎから市内の東部ならびに西部地区に焼夷弾が投下され、約2時間にわたる空襲で福岡市街は焦土と化し、死者902人、行方不明244人、負傷者1,078人という甚大な被害を受けました。
福岡市戦災略図
「博多の空が真っ赤に燃えとった」と死んだばあちゃんも良く云っていましたが、それでも福岡以外では他人ごと。
麁原に陣を布く蒙古軍。詞四に「けうとハすそはらにちんをとりて、いろゝのはたをたてならへて、らんしうやうひまなくして、ひしめきあふ。」とある。(『蒙古襲来絵詞』前巻・絵8・第27紙)
文永の役では、文永11年(1274)10月19日、博多湾の沖に、元・高麗連合軍2万5000の兵を乗せた約900隻の軍船が襲来し、翌20日早朝一斉に上陸を開始しました。
主力元軍2万は筥崎・博多方面に、また残りの高麗軍は西方の佐原に上陸しましたが、これを迎え撃つ日本軍は、鎮西奉行少弐資能の3男少弐景資が総大将を務めて筥崎に本陣を構えました。
両軍が激突したのは午前10時ごろでしたが、戦法や武器の違いにより日本軍は大混乱となり、元軍の一方的な勝利に終わりました。
しかし元軍は陸に上がらず、海上で明日の攻撃に備えて待機したばかりに、その夜、博多湾を吹き荒れた台風により、海上の元軍は壊滅的な打撃を蒙り、死者13,500余人の多数に上りました。
弘安の役では、弘安4年(1281)6月18日、江南軍(宋軍)は兵員10万、戦艦3,500艘で慶元(明州寧波)・定海(舟山島)から出航、平戸に直航しました。
そして、7月に入って平戸や五島列島に到着し、壱岐で破れて平戸に退いた東路軍と会同しました。
両軍の兵員は14万に達し、戦艦は約5千艘もの大軍でした。その後、20日ぐらい海上に浮かんだままでいましたが、7月27日になって、その主力が鷹島に侵入し始めました。
しかし、7月30日、北部九州を襲った台風により、元軍10万、高麗軍7千が海没し、約14万の大軍はその4分の3を失いました。
災害は、忘れた頃にやってくる。
パイポの煙(33)−お引っ越しのごあいさつ
パイポの煙(32)-御名御璽
パイポの煙(30)−震は四知を畏る
パイポの煙(29)−危急存亡の秋(4)
パイポの煙(28)−危急存亡の秋(3)
パイポの煙(27)−危急存亡の秋(2)
パイポの煙(32)-御名御璽
パイポの煙(30)−震は四知を畏る
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パイポの煙(28)−危急存亡の秋(3)
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