さぽろぐ

文化・芸能・学術  |札幌市中央区

ログインヘルプ


2005年03月15日

板橋村あれこれ(9)−渋沢栄一翁銅像

 板橋村あれこれ(9)−渋沢栄一翁銅像

 渋澤榮一翁像(1840〜1931)

 (旧暦  2月 6日)

 栄町35番地の板橋養育院内には、渋沢栄一翁の銅像があります。

 渋沢栄一(1840〜1931)は、天保11年(1840)武州榛沢郡血洗島村(埼玉県深谷市)に生まれましたが、実家は豪農で、少年の頃は尊皇攘夷思想に走り、高崎城を乗っ取り、横浜を焼き討ちにして、幕府を倒す計画をたてたこともありました。

 しかし、7歳より漢籍を学んだ従兄の尾高惇忠の弟長七郎の説得により中止します。その後京都に向かい、元治元年(1864)には一橋家家臣の平岡円四郎の推薦により一橋慶喜に仕えることになります。

 慶応3年(1867)、徳川慶喜の弟徳川昭武が万国博覧会使節になったため、随行して欧州に渡り、欧州で近代産業を学び帰国。明治2年(1869)、明治新政府に招聘され、大蔵省租税司となり税制改革などを担当しました。
 明治4年(1871)、大蔵権大丞となりましたが、明治6年(1873)、均衡財政を主張して大久保利通や大隈重信と対立し受け入れられず、井上馨と共に退官しました。

 退官後間もなく、官僚時代に設立を指導していた第一国立銀行の総監役に就任し、以後は実業界に身を置き、第一国立銀行だけでなく、七十七国立銀行など多くの地方の国立銀行設立を指導しました。

 そのほか、東京ガス、東京海上火災保険、王子製紙、秩父セメント、帝国ホテルなど多種多様の企業の設立に関わり、その数は500以上とされています。
 また、渋沢栄一は、明治7年(1874)より昭和6年(1931)までの56年間にわたり養育院長を務めました。

 養育院の起こりは、寛政の改革で知られる老中松平定信が、寛政4年(1792)に町会所を設け、町節約額7分を積立金として、貧困者の救済に充てる制度を設けたことに始まります。

 町会事務所が明治5年(1872)に東京府に引継がれ、7分金の残金で営繕会議所が設立されました。
養育院は、同年に営繕会議所の所管として創立されましたが、営繕会議所は明治8年(1875)には東京会議所に改められて、渋沢栄一は明治9年(1876)に東京会議所会頭に推薦され、同年東京府から養育院本院事務局長(後の院長)に任命されました。

 以来死去するまでの56年間、養育院の整備拡充に尽くし、多大な功績を残しました。

 銅像は高さ3m、重量約1.8tあり、台石4.8mの上に座す堂々たるのもで、大正14年11月に完成しました。

あなたにおススメの記事

同じカテゴリー(板橋村あれこれ)の記事画像
板橋村あれこれ(21)-国立極地研究所(1)
板橋村あれこれ(20)-野口研究所
板橋村あれこれ(19)-東上鉄道記念碑
板橋村あれこれ(18)−千川上水(3)
板橋村あれこれ(17)−千川上水(2)
板橋村あれこれ(16)−千川上水(1)
同じカテゴリー(板橋村あれこれ)の記事
 板橋村あれこれ(21)-国立極地研究所(1) (2007-12-06 21:23)
 板橋村あれこれ(20)-野口研究所 (2007-04-30 20:19)
 板橋村あれこれ(19)-東上鉄道記念碑 (2006-10-26 20:23)
 板橋村あれこれ(18)−千川上水(3) (2006-05-09 23:55)
 板橋村あれこれ(17)−千川上水(2) (2006-05-08 23:49)
 板橋村あれこれ(16)−千川上水(1) (2006-05-07 12:20)
Posted by 嘉穂のフーケモン at 23:40│Comments(0)板橋村あれこれ
※このブログではブログの持ち主が承認した後、コメントが反映される設定です。
上の画像に書かれている文字を入力して下さい
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。
削除
板橋村あれこれ(9)−渋沢栄一翁銅像
    コメント(0)