2005年03月05日
板橋村あれこれ(8)-高島平
高島秋帆 徳丸原演習
(旧暦 1月25日)
高島平は、古くは一面の沼や低湿の原野で、徳丸ヶ原と呼ばれていました。また、江戸時代の初期から幕府の直轄領で、歴代将軍の鷹狩の地でもありました。
5代将軍綱吉によって禁止されていた鷹狩りは、8代将軍吉宗が復活し、江戸の周囲5里の範囲を葛西・岩淵・戸田・目黒・品川の六筋に分けて将軍の鷹場に指定しましたが、徳丸ヶ原も戸田筋に組み込まれ鷹狩りの場所として代々の将軍が訪れました。
享保4年(1719)に御鉄砲町技・渡辺長左衛門が「からくり筒」の試射を行い、下って寛保年間(1741〜1743)に幕府の御鉄炮御稽古場となりましたが、寛政4年(1792)には、「鉄砲調練錬場」と定められました。
その後、天保12年(1841)5月、長崎の町年寄/講武所砲術師範役・高島秋帆(1798〜1866)は、川越街道から下赤塚の松月院に入り、ここを本陣として洋式火砲の実弾射撃や歩騎兵の軍事調練を徳丸ケ原で行いました。この時の西洋式調練は当時の国際情勢から広く話題となり注目を集めました。このため後の日本陸軍創設の基になった地と云われています。
明治2年(1869)になり、徳丸ケ原は民間に払い下げられ開墾されて水田地帯となり、用水路の整備も進められ、赤塚タンボ、徳丸タンボと呼ばれる一大穀倉地帯になりました。
戦後になって昭和38年(1963)、日本住宅公団は東京の住宅不足解消のため、この地域に大団地を建設する計画を立て、昭和47年(1972)末には入居が開始されました。
この間、昭和44年(1969)3月の町名改正で、高島秋帆の名にちなみ、「高島平」と定められ、今日に至っています。実は幕末の兵学者/思想家・佐久間象山(1811〜1864)もこの地で洋式火砲の実弾射撃を行いましたが失敗し、そのため、「佐久間平」とはならなかったという言い伝えがあります。
平成14年3月現在の世帯数は30,173世帯、人口63,171人を数えています。
一時期は、自殺の名所として全国に知られていましたね。
明治2年(1869)になり、徳丸ケ原は民間に払い下げられ開墾されて水田地帯となり、用水路の整備も進められ、赤塚タンボ、徳丸タンボと呼ばれる一大穀倉地帯になりました。
戦後になって昭和38年(1963)、日本住宅公団は東京の住宅不足解消のため、この地域に大団地を建設する計画を立て、昭和47年(1972)末には入居が開始されました。
この間、昭和44年(1969)3月の町名改正で、高島秋帆の名にちなみ、「高島平」と定められ、今日に至っています。実は幕末の兵学者/思想家・佐久間象山(1811〜1864)もこの地で洋式火砲の実弾射撃を行いましたが失敗し、そのため、「佐久間平」とはならなかったという言い伝えがあります。
平成14年3月現在の世帯数は30,173世帯、人口63,171人を数えています。
一時期は、自殺の名所として全国に知られていましたね。
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