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2005年01月22日

日本(5)-播州赤穂藩

 

 赤穂城 大手隅櫓

 (旧暦 12月13日)

 森蘭丸(乱丸)(1565〜1582)といえば織田信長の小姓として仕え、天正10年(1582)6月2日、本能寺で主君信長と共に討ち死にしたことで有名です。

 織田信長の小姓として傍に仕えた森兄弟も、蘭丸(長定)、坊丸(長隆)、力丸(長氏)の3兄弟が本能寺で信長に殉じ、嫡男の可隆(よしたか)は元亀元年(1570)4月、父森可成(よしなり)と共に信長の命で朝倉方の籠もる越前敦賀・手筒山城を攻め、初陣で城に一番乗りを果たしましたが、深入りをし過ぎて討死しました。

 次男の「鬼武蔵」と異名を取った長可(ながよし)も天正12年(1584)3月、小牧長久手の戦いで鉄砲の弾が額に命中して即死してしまい、唯一の生き残り、末弟の千丸(忠政)が秀吉、家康に仕えて、慶長8年(1603)美作津山藩18万6,500石で津山に移封されました。
 しかし、忠政の養子・長継が隠居したあと、長武、長成と継ぎますが、いずれも早く亡くなり、長成が急逝すると、関衆利(あつとし)を末期養子として願い出て認められましたが、衆利(あつとし)が発狂したため、ついに森家は断絶となりました。

 ところが、4代前の藩主であった隠居・長継が87歳で存命であったため、森家の名跡を継ぐことを許されて、備中西江原に2万石で再出仕を命じられ、その23男の長直が宝永3年(1706)、2万石で播州赤穂に入封し、廃藩置県までの12代165年間、赤穂藩主としては最も長く在封しました。

 森家の在封期間を通じて藩政は困窮し、5代忠洪は財政改革を断行、藩主自ら質素倹約を行い、貯蓄を奨励しました。
 更に塩田開発や蝋燭の原料となる櫨の植林等の殖産興業にも努めましたが、財政の再建はままならなかったようです。
 10代忠徳は文化6年(1809)、塩を専売制としています。

 幕末の安政4年(1857)になると、藩政の改革をめぐり保守派・革新派の対立が起こり藩内は分裂。
 革新派の一部は脱藩して長州藩へ奔るなど混乱が続き、文久2年(1862)には、攘夷派が保守派の家老を暗殺するという事件が起こり、藩論は分裂したまま明治維新を迎えるこになりました。

 明治4年(1871)廃藩置県により赤穂県となり、その後、姫路県、飾磨県を経て兵庫県に編入されました。
 また、 森家は明治17年(1884)子爵となり華族に列しました。

 現在赤穂を訪れても、浅野家の赤穂浪士一色で、最も治世の長かった森家に関するエピソードに接することはほとんどないそうです。

 森蘭丸の子孫が生きているなんて、不思議な気がしますね。

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Posted by 嘉穂のフーケモン at 17:11│Comments(0)歴史/日本
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