さぽろぐ

  文化・芸能・学術  |  札幌市中央区

新規登録ログインヘルプ


2005年01月18日

染井霊園(4)−天心岡倉覚三先生之墓(2)

 

 (旧暦 12月 9日)
 
 天心岡倉覚三先生之墓(1)のつづき

 奈良法隆寺の夢殿には、人目に触れずに仕舞い置かれた秘仏がありました。法隆寺の僧侶の間には、この秘仏を開く(仏像を巻いている布を取り除く)と、必ず雷が落ちて天罰が下ると信じられていました。

 先生達は、恐れる僧侶たちを説得し、ようやくにして秘仏を開くにいたりましたが、布を取り除く際には、僧侶たちは恐れて皆その場を離れてしまったといいます。

 布から出てきた秘仏は千年の眠りから覚めた現在の国宝『救世観音像』でした。

 明治22年(1889)に東京美術学校が設立され、翌年先生は第2代校長に就任、横山大観、菱田春草等に大きな影響を与え、また、帝室博物館理事・美術部長も務め、古美術の保護に尽力しています。

 このころ親交のあった男爵九鬼隆一の妻初子との悲恋(今風に言えば不倫)もあり、当時としては何かと話題を提供したようですね。
 明治31年(1898)に紛争により美術学校長を辞職した後は、橋本雅邦とはかり、横山大観・菱田春草・下村観山らを率いて「日本美術院」創設の中心となり、東洋古典美術の精神を復興し、西洋絵画の写実味も加味した新日本画運動を展開しました。

 その後、明治34年(1901)、1年間に及ぶインド旅行に出かけ、この間に英文で執筆された『東洋の理想』はイギリスから出版されました。
 
 明治37年(1904)渡米、翌年フェノロサの紹介でボストン美術館迎えられ、明治43年(1910)中国・日本美術部長に就任しましたが、この前後に『日本の目ざめ』『茶の本』等の英文著作による東洋美学の紹介に努めています。
 
 明治43年(1910)には、東京帝国大学にて美術史を講義し、『古寺巡礼』や『人間の学としての倫理学』 等の著作で有名な倫理学者・哲学者の和辻哲郎らが聴講しています。

 大正2年(1913)病により帰国し、新潟県赤倉で病没しましたが、「我逝かば花な手向けそ浜千鳥 呼びかう声を印にて 落ち葉に深く埋めてよ 12万年明月の夜 弔い来ん人を松の影」の和文の辞世が残されています。

 享年51歳。

あなたにおススメの記事

同じカテゴリー(染井霊園)の記事画像
染井霊園(11)ー安岡正篤先生の墓
染井霊園(10)−ローデスカ・ワイリック先生の碑
染井霊園(9)−高田早苗先生の墓
染井霊園(8)−福岡孝弟(たかちか)の墓
染井霊園(7)−松浦詮(あきら)の墓
染井霊園(6)−幣原喜重郎の墓
同じカテゴリー(染井霊園)の記事
 染井霊園(11)ー安岡正篤先生の墓 (2011-05-08 15:13)
 染井霊園(10)−ローデスカ・ワイリック先生の碑 (2005-12-25 16:36)
 染井霊園(9)−高田早苗先生の墓 (2005-09-25 21:18)
 染井霊園(8)−福岡孝弟(たかちか)の墓 (2005-07-12 23:45)
 染井霊園(7)−松浦詮(あきら)の墓 (2005-06-05 23:13)
 染井霊園(6)−幣原喜重郎の墓 (2005-04-18 18:36)
Posted by 嘉穂のフーケモン at 09:20│Comments(0)染井霊園
※このブログではブログの持ち主が承認した後、コメントが反映される設定です。
上の画像に書かれている文字を入力して下さい
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。
削除
染井霊園(4)−天心岡倉覚三先生之墓(2)
    コメント(0)