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2005年01月17日

染井霊園(3)−天心岡倉覚三先生之墓(1)

 染井霊園(3)−天心岡倉覚三先生之墓(1)

 (旧暦 12月 8日)

 天心岡倉覚三先生は、文久2年12月26日(1863年2月14日)、越前福井藩士岡倉覚右衛門の次男として横浜(江戸馬喰町との説もある)に生まれました。

 当時、越前福井藩では、横井小楠、三岡八郎(由利公正)を中心とした藩財政改革が進行しており、安政6年(1859)横浜に越前福井藩の出資による商館「石川屋」が設置され、翌年の万延元年(1860)に覚右衛門が主命(藩主松平春嶽)により、越前福井藩商館を代表して横浜での生糸の輸出業の責任を担っていました。

 先生は、早くから英語と漢籍を学び、明治10年(1877)東京開成学校(後の東京大学)に入学、政治学・理財学を専攻、卒業後(明治13年)は文部省に出仕しました。

 先生は、父覚右衛門の方針で、幼い頃(6歳)からジェイムズ・バラーの英語塾に通っていましたが、あるとき先生が漢字の立て札を読めないことに気付き、勘右衛門はようやく漢籍の教育を始めたといわれ、生涯先生は英語を母国語同然に使ったと伝えられています。
 ちなみに英語学者で、昭和2年(1927)の研究社新英和大辞典(初版)の執筆で有名な岡倉由三郎博士は実の弟になります。

 東京大学(帝国大学になったのは明治19年)在学中に、講師アーネスト・フェノロサ(Earnest Francisco Fenollosa) の通訳を務め、フェノロサの日本美術研究を手伝いました。

 先生は、大学の卒業論文「国家論」を妻とのいさかいから破棄され、一週間で「美術論」を書き上げたというエピソードからも分かるように、早くから美術に興味を持ち、フェノロサ、男爵九鬼隆一と共に奈良、京都などの古社寺の文化財調査を重ねるうちに、美術行政の先頭を走るようになっていきました。

 何百年間も人目に触れることのなかった有名な法隆寺夢殿の国宝『救世観音像』のご開扉はこの時のことです。

 以下つづく

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Posted by 嘉穂のフーケモン at 18:06│Comments(0)染井霊園
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