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2004年12月13日

染井霊園(2)-羯南・陸實先生之墓

 染井霊園(2)-羯南・陸實先生之墓

 羯南・陸實先生は、津軽藩士中田謙斎の二男として安政4年(1857)、弘前に生まれました。

 東奥義塾卒業後、宮城師範学校に入学しましたが、薩摩出身の校長の横暴に抗議して退校処分、明治19年(1886)の帝国大学令による帝国大学設置以前は官吏登用の最難関であった司法省法律学校に転校するも、ここでも校長の態度に反発して退学、フランス語の才能をかわれて太政官書記局官吏に就職するも、時の政府の条約改正・欧化政策に反対し、退官。
 染井霊園(2)-羯南・陸實先生之墓

 陸羯南先生 (1857〜1907)

 その後、日刊新聞「東洋電報」を創刊し、明治22年(1889)に「日本」と改題、社長兼主筆として、官僚主義と藩閥政府の専横を攻撃し、健筆を揮いました。

 先生の下には、三宅雪嶺、志賀重昂、長谷川如是閑など明治を代表する錚々たる思想家、言論人が集まり、近代ジャーナリズムの礎を築いたとされています。
 
 また、同紙の文芸欄には正岡子規らが掲載し、俳句・短歌の改革を成し遂げたといわれております。
特に、子規の生活を支え、彼の俳句・短歌論を励まし、脊椎カリエスという病に苦しむ子規を慰めました。

 先生は、権威主義や徳義をともなわない人や施策に激しく反発する一方、徳義を備えた優れた人物に対しては、相手の全存在を包み込む仁愛の人であったといわれています。

 明治の日本人の気骨ある生き様に対し、多いに学ぶべきであることを自覚し、且つ、そのような日本人がかって居られたということを誇りにして励むべきであると愚考し、一文を掲載いたしました。

 先生は、染井霊園の日当たりの良い一角で、静かに世の行く末を見つめておられます。

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Posted by 嘉穂のフーケモン at 15:32│Comments(2)染井霊園
この記事へのコメント
司馬遼太郎「坂の上の雲」の重要登場人物として有名ですね。このかたのバックアップがなければ正岡子規の生涯はまったく異なったものになった、と思います。

(^_^)
Posted by はなゆー at 2004年12月13日 16:14
はなゆーさん
私も、「坂の上の雲」により陸羯南先生のことを知りました。
今度は、常盤会寄宿舎の監督になり子規を温かく見守った内藤鳴雪先生のお墓を、東京青山霊園に訪ねようと思っていますが、走っていくにはちょっと遠いですね。
Posted by 嘉穂のフーケモン at 2004年12月13日 16:49
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