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2004年11月30日

パイポの煙(3)-正気の歌(1)

 パイポの煙(3)-正気の歌(1)

 廣東貢院内號舎

 (旧暦11月30日)

 長いこと京都大学で教鞭を執られ、亡くなられた宮崎市定先生(1901〜1995)は、『九品官人法の研究』や『アジア史研究』他、多数の著作を残されましたが、一般向けには『科挙』(中公新書)を著されました。
 
 それによると、清代の科挙では、県試→府試→院試→(歳試)→科試→郷試→挙人覆試→会試→会試覆試→殿試の難関を突破せねばならず、ひと時の日本の受験地獄など足元にも及ばない過酷な試験制度だったようです。

 パイポの煙(3)-正気の歌(1)
 最後の殿試は、会試覆試に合格した者(進士)をさらに皇帝自らが行う試験で、この試験により順位を決め、後々の待遇が決まりました。

 第一甲第一名(テイイーチヤテイイーミン) ○○○○  状元
 第一甲第二名(テイイーチヤテイアルミン) ○○○○  榜眼
 第一甲第一名(テイイーチヤテイサンミン) ○○○○  探花


 上位より3名はそれぞれ「状元」、「榜眼」、「探花」と呼ばれ官僚としての将来が約束されたそうです。

 また、「郷試」、「会試」、「殿試」の全ての試験において首席だった者を三元と呼ぶそうですが、ちなみに麻雀の役満である「大三元」はここに由来しているんだとか。

 このような難関に、主席(状元)で合格したのが、南宋末期の政治家である文天祥(1236〜1282)です。
滅亡へと向かう宋の臣下として戦い、宋が滅びた後は元に捕らえられ、何度も元に仕えるように説得されましたが、忠節を守るために断って刑死しました。

 彼が、大都(北京)の兵馬司の陰惨な地下土牢の中で歌った「正気の歌」およびその生き様は、幕末の日本にも大きな影響を与えました。 

 以下続く

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Posted by 嘉穂のフーケモン at 11:35│Comments(0)パイポの煙
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