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2017年08月23日

奥の細道、いなかの小道(29)− 象潟(1)

  

  「一遍聖絵」第七巻 京極四條釋迦堂

  (旧暦閏7月2日)

  一遍忌、遊行忌
  鎌倉中期の僧、時宗の開祖一遍上人(1239〜1289)の正応二年(1289)旧暦八月二十三日の忌日。

    旅ころも木の根かやの根いづくにか 身の捨られぬ処あるべき

  

  一遍上人像  鎌倉來迎寺藏  『集古十種』古畫肖像之部  (五)二十七

    江山水陸の風光數を盡して、今象潟に方寸を責。酒田の湊より東北の方、山を越、礒を伝ひ、いさごをふみて其際十里、日影やゝかたぶく比、汐風真 
    砂を吹上、雨朦朧として鳥海の山かくる。闇中に莫作して「雨も又奇也」とせば、雨後の晴色又頼母敷と、蜑の苫屋に膝をいれて、雨の晴を待。其朝 
    天能霽て、朝日花やかにさし出る程に、象潟に舟をうかぶ。先能因島に舟をよせて、三年幽居の跡をとぶらひ、むかふの岸に舟をあがれば、「花の上こ
    ぐ」とよまれし櫻の老木、西行法師の記念をのこす。江上に御陵あり。神功皇宮の御墓と云。寺を干滿珠寺と云。此処に行幸ありし事いまだ聞ず。いか
    なる事にや。此寺の方丈に座して簾を捲ば、風景一眼の中に尽て、南に鳥海、天をさゝえ、其陰うつりて江にあり。西はむやむやの關、路をかぎり、東
    に堤を築て、秋田にかよふ道遙に、海北にかまえて、浪打入る所を汐こしと云。江の縦横一里ばかり、俤松島にかよひて、又異なり。松島は笑ふが如
    く、象潟はうらむがごとし。寂しさに悲しみをくはえて、地勢魂をなやますに似たり。
      象潟や雨に西施がねぶの花
      汐越や鶴はぎぬれて海涼し
        祭礼
      象潟や料理何くふ神祭                              曾良
      蜑の家や戸板を敷て夕涼      みのゝ國商人  低耳
        岩上にみさごの巣を見る
      波こえぬ契ありてやみさごの巣                    曾良


    ○十五日 象潟へ趣。朝ヨリ小雨。吹浦ニ到ル前ヨリ甚雨。昼時、吹浦ニ宿ス。此間六リ、砂浜、渡シ二ツ有。左吉状届。晩方、番所裏判済。
        『曾良旅日記』

 
  旧暦六月十五日(陽暦七月三十一日)、朝から小雨が降る中を、象潟の景色を一日でも早く見物したいと、芭蕉翁一行は酒田を旅立ちました。
  酒田の湊から磯伝いの羽州浜街道を能登興屋(のどごや:酒田市高砂)〜宮海を経て日向川を舟で渡り、服部興野から吹浦までの六里にも及ぶ庄内砂丘を北上しました。

  白木〜靑塚を経て十里塚付近にさしかかると天候が俄に一変して、潮風が砂塵を吹き上げ、豪雨が沛然と降りだし、出羽富士鳥海山も朦朧と雨に煙って隠れてしまいました。
  天候の恢復は望めず、一行は月光川を徒にて渡り、昼時に吹浦に着いて、ここに宿泊することにしました。

  当時の吹浦は、南側の宿町と北側の横町に分かれていましたが、芭蕉翁一行が泊まった跡は不明とのことです。

  ここで羽黒手向の近藤佐吉(呂丸)から書簡が届き、夕刻には番所の通判(通行手形)に裏判(通行の承認)を済ませました。吹浦の番所は、大物忌神社の鳥居前を左折した横町の大組頭津右衛門屋敷の南に上の番所、北に下の番所がありました。

    ○十六日 吹浦ヲ立。番所ヲ過ルト雨降出ル。一リ、女鹿。是 より難所。馬足不通。 番所手形納。大師崎共、三崎共云。一リ半有。小砂川、御領也。庄
       内預リ番所也。入ニハ不レ入手形。塩越迄三リ。半途ニ関ト云村有(是より六郷庄之助殿領)。ウヤムヤノ関成ト云。此間、雨強ク甚濡。船小ヤ入テ休。
    ○昼ニ及テ塩越ニ着。佐々木孫左衛門尋テ休。衣類借リテ濡衣干ス。ウドン喰。所ノ祭ニ付 而女客有ニ因テ、向屋ヲ借リテ宿ス。先、象潟橋迄行而、雨
       暮気色ヲミル。今野加兵へ、折々来テ被レ訪。
          『曾良旅日記』

 
  豪雨のため吹浦で一泊した一行は、早朝に吹浦を出立して象潟へ向かいました。吹浦番所を通り過ぎた頃から、また雨が降り出しました。御殿坂を登って山道に入り、しばらくして坂を下ると湯の田に出、さらに海岸に沿って浜街道を北上して女鹿に到ります。

  さて、女鹿までは庄内藩領ですが、先の小砂川からは庄内藩預かりの幕府領となり出国の手続きが必要でした。そのため曾良は酒田で通判(通行手形)を購入し、吹浦番所の通行許可の承認印(裏判)を捺してもらう必要があったため、前日の晩に吹浦番所で裏判を済ませていました。

  女鹿の人改番所では出手形を提出しましたが、手続き料が必要だったといいます。番所を過ぎると、「是ヨリ難所。馬足不レ通」といわれる三崎峠が待ち構えていました。観音崎、大師崎、不動崎という3つの岬からなる三崎峠は、鳥海山噴火の際の溶岩流の崖が日本海の荒波の浸食を受けて奇岩や怪石として連なり、その険しさは羽州浜街道第一の難所でもありました。

  五十五歳から足かけ十七年をかけて日本全国を徒歩で測量し『大日本沿海輿地全図』を作成した伊能忠敬(1745〜1818)は、享和二年(1802)、三崎峠の難所ぶりを測量日記に以下のように記しています。

    『此の村より外迄七八丁ハ道も上下よし、長持ちハ小砂川より女鹿村迄舟廻にす、馬荷にも亦同し、夫より道途曲々、且狭く、其上丸石岩石おほく、
    上下度々ありて其の行路難し、駕籠も人夫大勢ニ捧げて通るなり、馬・駕籠ニに乗ることならざる所なり、海へ出岬を大師崎と言、亦三崎共言、里人
    言、観音、不動、勢至ノ三仏ニ似たる岩石あるニよりて號スと、其脇を通る、此所則鳥海山の麓の流(スソ)なり、大師崎の上ニ大師堂あり、由利郡・
    飽海郡の界・これよい南庄内領となる』



  三崎峠の難所を超えると羽州浜街道は砂地となり、一里半程で小砂川に至ります。ここには庄内藩の預番所がありましたが、旅人には手形は不要だったようです。小砂川を過ぎ、象潟まで三里余り、大須郷、川袋、大砂川、洗釜、中野澤、關までの街道沿いの集落は幕府直轄領で、庄内大山代官所が支配していました。

  また、このあたりは古代の有耶無耶の関があった所と伝えられ、歌枕にも詠まれていますが、芭蕉の時代にはすでに正確な場所は不明であったようです。

  永久四年(1116)の歌合で、従四位上源俊頼(1055〜1129)が詠んだ歌が最も早いとされています。

    すぐせやななぞいなむやのせきをしも    へだてて人にねをなかすらむ                    
                   『散木奇歌集』  源 俊頼

    もののふのいづさいるさにしおりする    とやとやとおりのむやむやの關             
                   『夫木和歌集』  詠み人知らず

    たのめこし人の心は通ふやと    問いても見ばやうやむやの關                      
                   『土御門院御集』 土御門院


  關に着く前あたりから雨脚が強くなり、一行はずぶ濡れとなって船小屋で雨宿りをしました。

  昼過ぎに塩越(象潟)に着きました。芭蕉にとって、敬慕する能因法師と西行法師の遺跡に富む象潟は、心から憧れていた所であったと云います。

  塩越は本庄藩六郷氏二万石の領地でした。六郷氏は室町中期に、出羽国仙北郡六郷邑より興り、同地を本拠とした一族で、工藤氏流六郷氏の系統に属します。その後裔六郷政乘(1567〜1634)が、元和九年(1623)最上氏が改易された後、常陸国府中藩(石岡)一万石から最上氏の旧領である出羽国本荘に二万石で加増移封され、本庄藩を立藩しました。芭蕉翁一行が訪れたときは、四代政晴(1675〜1741)の代でした。
  象潟の地名は、蓑笠庵梨一の『奥細道菅菰抄』に次のように紹介されています。

    象潟は、羽州由利郡に在。日本十景のうちにして、当國第一の名所、佳景の地、八十八潟、九十九森ありと云傳ふ。江のかたち、きさに似たり。故にき
    さがたと云と。〈きさとは象の和名なり〉また蚶潟共云。蚶(きさ)は小さき蝸牛(かたつぶり)の殻に似たる貝にて、關東の小兒のもてあそぶ、き
    さごとといふ物是なり。〈上つかたにては、したゞみと云〉此江至て淺して、やうやく蚶などの生ずるのみなれば、かく名づけ侍るならし。〈此所の寺
    を、蚶滿寺と名付るをもて、是を見れば、蚶潟を正字とすべき歟。猶下に詳なり〉江中の廣さ、松島にをさをさ劣らずといへども、舟をあつかふには、
    すべて棹を用ゆ。艪を立つる亊なし。是又一絶のみ。もろこしの西湖も、大船を容る亊あたはず。唯遊人の舟のみと云り。此江と日を同うして語るべ
    し。
      『奥細道菅菰抄』蓑笠庵梨一


  


  象潟の地形は、紀元前466年と推定されている鳥海山の噴火により発生した大規模な山体崩壊による流れ山が日本海に流れ込み、浅い海と多くの小さな島々ができあがったと考えられています。やがて堆積作用の結果、浅海は砂丘によって仕切られて東西20町(約2200m)、南北の30町(約3300m)あまりの潟湖ができ、小さな島々には松が生い茂り、風光明媚な象潟の地形ができあがりました。

    秋田縣由利郡ノ日本海ニ臨メル西部一帶ノ地ハ曽テ鳥海火山ヨリ噴出シタル火山泥流ニヨリテ蔽ハレタルガ其泥流ノ南端ニ當レル象潟町ニ属スル南北五
    キロメートル東西一.五キロメートルノ地域ハ嘉祥年間土地陷落ノタメ海水ノ浸ス所トナリ泥流中ノ「流レ山」ハ大小數十ノ嶋嶼トナリテ松樹其ノ上ニ
    茂リ宛然松島ノ景ニ髣髴シ八十八島九十九潟トシテ其ノ名世ニ喧傳セラレタリ

    然ルニ文化元年六月出羽大地震ニ際シテ其ノ地域再ビ隆起シテ陸地トナリ往古ノ潟ハ化シテ稻田トナリ風景一變シタレドモ古ノ嶋嶼ハ今尚稲田中ニ大小
    六十有五ノ松丘トナリテ点在シ地變以前ノ名残ヲ留ム稲田下ノ泥土中ニハ今尚蚶貝(象潟ノ地名ハ蚶潟ヨリ轉訛シタルモノナリ)ヲ始トシテ數多ノ貝殻
    ヲ埋存シ其ノ曽テ淺海底タリシヲ證ス
                             文化庁 文化遺産オンライン


  塩越(象潟)に付いた一行は、酒田の伊東不玉に紹介された能登屋佐々木孫左衛門を訪ね、衣類を借りて濡れた着物を干し、昼食のうどんを食べました。当日は地元の熊野神社の祭礼があり、女客で部屋が塞がっていたので、筋向かいの向屋佐々木左衛門治郎に宿泊することになりました。吹浦から随行してきた美濃岐阜の商人宮部彌三郎(俳号低耳)がしばらく同行することになりました。

  一行は一休みすると、熊野神社の鳥居の東側の象潟川にかかる象潟橋(欄干橋)に出かけて、雨暮の風情を楽しみました。
  「雨後の晴色又頼母敷」とは中国北宋の詩人蘇軾(1037〜1101)の『飮湖上初晴後雨』という七言絶詩を基にしたもので、この詩は日本においては必ず象潟の形容とされています。

    飮湖上初晴後雨    湖上に飮み 初め晴れるも後に雨ふる

    水光瀲灔晴方好    水光瀲灔(れんえん)として 晴れて方(まさ)に好く
    山色空濛雨亦奇    山色空濛として 雨も亦た奇なり
    欲把西湖比西子    西湖を把(も)ちて 西子と比せんと欲せば
    淡妝濃抹總相宜    淡妝濃抹 總て相ひ宜し

    江山水陸の風光
  大河と山、水と陸の風景をさし、同意の語を畳み重ねて、多くの地を経歴してきた思いを強めた表現で、また、次のような解説もあります。

    張説謫幷州詩愈悽惋人謂得江山助  『圓機活法』文学門 詩

    張説、幷州ニ謫セラレ、詩、愈(いよいよ)悽惋タリ。人、江山ノ助ヲ得タリト謂フ。

    初唐の官僚張説(667〜730)が女帝武則天(在位:690〜705)によって幷州(山西省)に流されたが、その詩はますます悲しみ心が痛むものであっ
    た。人は江山の助けを得たものだと謂った。


  


  江山の語の中には、行旅、詩作といった連想が含まれています。
   
    象潟に方寸を責

  「象潟に対して詩心を苦しめ凝らす」の意で、方寸は一寸四方、転じてわずかの大きさの義にいい、また、胸中方寸の間にあるところより心の意に用い、寸心ともいいます。

    病變やふりわきけんなど、方寸を砕而已候
                『元禄三年一月十七日付杜國宛書簡』

    樂天が腸をあらひ、杜子が方寸に入
                『元禄五年二月十八日付曲翠宛書簡』

    筆をとりて羲素の方寸に入
                『小文庫』机銘

    かれは予が宵寝をたゝきて方寸をくみしり
                『續寒菊』嗒山送別

    此論を再翁に申述侍れば、一句の問答に於いては然るべし、但予が方寸の上に分別なし
                其角『雑談集』

  心を責めるとは、詩心を苦しめ凝らすこと。

    たどりなき風雲に身をせめ、花鳥に情を勞じて
                『幻住庵記』

    古しへより風雅に情ある人々は、後に笈をかけ、草鞋に足をいため、破笠に霜露をいとふて、をのれが心をせめて、物の実を知る亊をよろこべり
                『韻塞』許六を送る詞


    雨朦朧として鳥海の山かくる。闇中に莫作して「雨も又奇也」とせば、

  芭蕉は、二度に渡って遣明船で明に渡り、副使、正使としての責務を果たした臨済宗の禅僧策彦周良(1501〜1579)の詩や南宋の詩人劉克莊(1187〜1269:號後村)の詩を踏まえて、本文を記しています。

    晩過西湖    策彦 

    餘抗門外日將晡    餘 抗門外日 將ニ晡(く)れんとす
    多景朦朧一景無    多景朦朧として 一景無し
    参得雨奇晴好句    参し得たり 雨奇晴好の句
    暗中模索識西湖    暗中に模索して 西湖を識る
      『南游集』

  

  策彦禪師像  嵯峨天龍寺塔中妙智院藏  『集古十種』古畫肖像之部  (五) 三十七

    西湖値雨    劉後村

    山入煙雲半有無    山は煙雲に入りて半ば有無
    驀然風雨暗平湖    驀然たる風雨 平湖に暗し
    却將錦様鶯花地    却(かえり)て錦様鶯花の地を將(ひきい)て
    變作元暉水墨圖    變じて元暉(米友仁)が水墨の圖と作す
    『聯珠詩格』巻二

     蜑(あま)の苫屋

  漁師の苫葺きの粗末な家と表現したのは、次のような古歌を踏まえたものでした。
 
        能因法師
        出羽の國にまかりて、きさかたといふ處にてよみ侍る
      世の中はかくても経けり象潟の    あまの苫屋をわが宿にして
                    後拾遺集 巻九 羈旅  0519

        藤原顕仲
        堀河院御時、百首歌たてまつりける時、旅の歌
      さすらふるわが身にしあれば象潟や    あまの苫屋にあまたたび寝ぬ
                    新古今集 巻十 羈旅  0972


  つづく


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