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2016年05月06日

奥の細道、いなかの小道(25)−最上川

 
  (旧暦3月30日)

  奥の細道、いなかの小道(25)−最上川

  鑑眞忌
  唐の高僧で、日本に渡って日本律宗を開いた鑑眞(688〜763)の天平寶字七年(763)の忌日。唐招提寺開山忌は、月遅れで6月6日に行われる。

  奥の細道、いなかの小道(25)−最上川

  万太郎忌、傘雨忌
  小説家・劇作家・俳人・演出家の久保田万太郎(1889〜1963)の昭和三十八年(1963)の忌日。 俳号の傘雨から傘雨忌とも呼ばれる。

  奥の細道、いなかの小道(25)−最上川

  春夫忌、春日忌
  詩人・小説家・評論家の佐藤春夫(1892〜1964)の昭和三十九年(1964)の忌日。


  最上川のらんと、大石田と云所に日和を待。爰に古き誹諧の種こぼれて、忘れぬ花のむかしをしたひ、芦角一声の心をやはらげ、此道にさぐりあしゝて、新古ふた道にふみまよふといへども、みちしるべする人しなければとわりなき一巻残しぬ。このたびの風流爰に至れり。

  最上川はみちのくより出て、山形を水上とす。ごてん・はやぶさなど云おそろしき難所有。板敷山の北を流て、果は酒田の海に入。左右山覆ひ、茂みの中に船を下す。是に稲つみたるをや、いな船といふならし。白糸の瀧は青葉の隙/\に落て仙人堂岸に臨て立。水みなぎつて舟あやうし。
 
  五月雨をあつめて早し最上川
 


  一 廿八日 馬借テ天童ニ趣。六田ニテ、又内藏ニ逢、立寄ば持賞ス。未ノ中尅、大石田一英宅ニ着。両日共ニ危シテ雨不降。上飯田ヨリ一リ半。川水出合。其夜、労ニ依テ無俳、休ス。
 
  『曾良旅日記』


  元禄二年陰暦五月廿八日(陽暦七月十四日)、立石寺をあとにした芭蕉翁一行は、馬を借りて天童に向かい、六田(山形県東根市)で馬を取り替える間に、行きがけに逢った内藏に会い、家に立ち寄って接待を受けます。この内藏という人物はどのような人であったかは不詳ですが、おそらく「紅花大尽」といわれた豪商で、談林系の俳人でもある旧知の鈴木清風(1651〜1721)に紹介された地元の人物であろうと推測されています。
 
  昨日も今日も、雲行きが悪く雨になりそうで心配していましたが、幸いにも雨には遭わず、芭蕉翁一行は午後二時半頃、大石田最上川河畔の船持荷問屋髙野一榮(1636〜1725)宅に到着します。

  五月雨の季節の最上川は満々とした水量を湛えていました。
  此の夜、高桑川水(1644〜1709)が訪ねてきましたが、芭蕉は疲労のために俳諧の興行を行わずに、休息します。
 
  芭蕉翁一行が今回の旅の目的のひとつである出羽三山を目指すのであれば、山形から西へ六十里街道を行くのが本来の道筋でしたが、大石田へと行き先を変更したのは、尾花沢の鈴木清風宅の句筵で知り合った大石田村の大庄屋高桑川水(1644〜1709)と組頭で船持荷問屋の髙野一榮(1636〜1725)のたっての懇請であったとされています。

  大石田は最上川の右岸、朧気川の北側に位置する水駅として栄えた所で、江戸期において最上川船運は唯一の輸送機関であり、山形城主最上義光(1546〜1614)が流域一円を支配すると、天正八年(1580)に碁点、三ヵの瀬、隼(早房の瀬)の三大難所を開削・整備したため、河口の酒田まで通ずる様になりました。
 
  寛永年間(1624〜1644)には延沢銀山の最盛期とも重なり、最上川による船運輸送が活発になって、大石田河岸の役割が重要になりました。
  尾花沢の延沢銀山は、康正二年(1456)に金沢の儀賀市郎左衛門という人が発見したという言い伝えがあり、最盛期には島根の石見、兵庫の生野とともに日本三大銀山と呼ばれ、2万5千人の人々が在住していたと伝えられています。

  その後、船運は幕府や諸藩の年貢米の輸送路として開発され、また同時に京都・大阪に紅花や青荢(あおそ:カラムシ)などの特産物を運び、塩・木綿・海産物などの生活必需品が入ってくる流通路として発展しました。

  芭蕉翁一行が訪れた元禄期(1688〜1704)には、最上川に就航していた船は、大石田船二百九十余艘、酒田船二百五十余艘を数えたと伝えられています。さらに、寛政四年(1792)から大石田が幕府の天領となり、飛躍的な繁栄をもたらしたものといわれています。

  この土地にはふとした機縁で古風の俳諧の流風が伝わり、盛んであった昔のことを慕っているということを聞いた。蘆笛一声に慰む辺土の民の心を俳諧によって風雅に和らげつつ、此の俳諧の道に暗い夜道を足で探りながら歩くようなたどたどしい調子でたどりながら、新風・古風いずれの道に進むべきかに迷い悩んでいるけれども、道を指し示す人もないようなので、請われるままに一巻(最上川歌仙)を残しとどめることになった。このたびの陸奥・出羽の旅における俳諧風流は、この一巻に極まったかの観がある。

  芦角一声の心をやはらげ

  胡笳歌送顏眞卿使赴河隴     胡笳の歌  顏真卿の使ひして河隴に赴くを送る

  君不聞胡笳聲最悲               君聞かずや  胡笳の声最も悲しきを 
  紫髭綠眼胡人吹                  紫髭緑眼  胡人吹く
  吹之一曲猶未了                  之を吹き  一曲猶未だ了らざるに
  愁殺樓蘭征戍兒                  愁殺す  樓蘭征戊の兒
  涼秋八月蕭關道                  涼秋八月  蕭關(せうくわん)の道
  北風吹斷天山艸                  北風吹斷す  天山の艸(くさ)
  崑崙山南月欲斜                  崑崙山南  月斜めならんと 欲す
  胡人向月吹胡笳                  胡人  月に向ひて胡笳を吹く
  胡笳怨兮將送君                  胡笳の怨  望む 隴山の雲
  邊城夜夜多愁夢                  邊城  夜夜  愁夢多く
  向月胡笳誰喜聞                  月に向かひて  胡笳  誰か聞くを喜ばん

  『唐詩訓解 巻二 岑參』

  「芦角」は、蘆笳・胡角・胡笳と呼ばれる胡人の吹く蘆の笛の造語で、「芦角一声」を辺鄙な田舎人の俳諧の譬喩とし、「芦角一声の心」とは、蘆笛一声に慰む心、すなわち素朴な田舎人の風流心を表したものと解されています。

  胡笳曲               胡笳の曲

  城南虜已合         城南  虜  已に合し
  一夜幾重圍         一夜  幾重にか圍む
  自有金笳引         自から金笳の引有り
  能令出塞飛         能く出塞をして飛ばしむ
  聽臨關月苦         聴は関月に臨んで苦(さ)え    
  淸入海風微         清は海風に入りて微かなり
  三奏高樓暁         三奏す  高楼の暁
  胡人掩涕歸         胡人  涕を掩うて歸る

  『唐詩訓解 巻三 王昌齢』


  酒泉太守席上醉後作    酒泉太守の席上 醉後の作

  酒泉太守能劔舞          酒泉太守  能く剣舞し
  高堂置酒夜撃鼓          高堂に酒を置き  夜  鼓を撃つ
  胡茄一曲斷人腸          胡茄一曲  人の腸(はらわた)を斷ち
  座上相看涙如雨          座上相看て  涙  雨の如し
  琵琶長笛曲相和          琵琶 長笛  曲相ひ和し
  羌兒胡雛斉唱歌          羌兒  胡雛  齊(ひとし)く唱歌す
  渾炙犛牛烹野駝          犛牛(ばうぎう:ヤク)を渾炙し 野駝を烹し
  交河美酒歸叵羅          交河の美酒 歸す叵羅(はら:酒盃)
  三更醉後軍中寢          三更 醉後 軍中に寢ぬ
  無奈秦山歸夢何          秦山の歸夢を  奈何ともする無し

  『唐詩訓解 巻七 岑參』


  王昭君                     大江朝綱

  翠黛紅顔錦繍粧        翠黛紅顔  錦繍の粧(よそほ)ひ
  泣尋沙塞出家郷        泣く/\沙塞を尋ねて  家郷を出づ
  邊風吹斷秋心緒        邊風吹き斷つ  秋の心緒
  隴水流添夜涙行        隴水流れ添ふ  夜の涙行
  胡角一声霜後夢        胡角一声  霜後の夢
  漢宮萬里月前腸        漢宮萬里  月前の腸(はらわた)
  昭君若贈黄金賂        昭君  若し黄金の賂(おくりもの)を贈りなば
  定是終身奉帝王        定めてこれ身終(を)はるまで  帝王に奉ぜしならん

  『和漢朗詠集 下巻 雜 王昭君』

  さて、ここで本文中の「新古ふた道にふみまよふといへども」という箇所ですが、旧知の鈴木清風が記した『おくれ双六』の序には、次のような記述があります。

  「予も同国(出羽)の所生と言ながら、心の花の都にも二年三とせすみなれ、古今俳諧の道に踏迷ふ。近曾(ちかごろ)より漸新しき海道に出て諸人をまねき、四季折々の佳作を得るといへども」云々
  『おくれ双六』 延寶九年  


  延寶(1673〜1681)末より天和(1681〜1684)・貞享(1684〜1688)にかけては、上品な笑いを目指すが決まりごとが多い貞門派や自由な作風だが俗に流れた談林派の古風な俳諧から、心付・景気付を主体とする優美な俳風を基調とした元禄の新風に向かう過渡期に当たっていたとされています。

  出羽に在っては、尾花沢の鈴木清風(1651〜1721)、酒田の伊東不玉(1648〜1697)、庄内の水軒、調用、器水、山形の未覺などの羽州俳人が岸本調和(1638〜1715)門の俳書に登場し始めるのが、ちょうど奇矯な漢詩文調を織り交ぜた天和(1681〜1684)・貞享(1684〜1688)の過渡期にあったており、そうした渦中にあって、大石田連衆としては、新古二道に踏み迷う感が濃かったのではないかとは、近世文学、特に俳諧を専門とされた尾形仂(おがたつとむ:1920〜2009)先生の解説です。
  『おくのほそ道評釈』 P287
  最上川は、山形・福島の県境の吾妻山に源を発し、山形県を北流、舟形町より西流して出羽丘陵を横切り、庄内平野を潤して酒田市で日本海に注ぐ、延長260㎞、中部の富士川、九州の球磨川とともに日本三急流のひとつに数えられています。


  最上川のぼれば下る稲舟の いなにはあらずこの月ばかり
    古今集    巻二十  陸奥歌  1092

        三条右大臣
  最上川深きにもあへず稲舟の 心軽くも返るなるかな
    後選和歌集  巻十二  戀四    839


  舟運時代、その中流にある碁点、三ヶ瀬、隼の三地点は、通過するのに困難を極めたため「最上川三難所」と呼ばれ、船頭たちに恐れられていました。

   奥の細道、いなかの小道(25)−最上川

  碁点は、大石田の上流12㎞、鼠色の緻密な第三紀の凝灰岩が碁石を敷き詰めたように突起している難所で、奥細道菅菰抄には、「川中あなたこなたに大岩六つ七つ散在して、碁を打(うち)ちらしたるが如し。故に碁点と云。」とあります。

  奥の細道、いなかの小道(25)−最上川

  三ヶ瀬は、最上川が村山市大淀地区の丘に当たって西へ急旋回する直後にある難所で、川底に細長い岩礁が三層をなして縦に並んでいることに由来するといいます。

  また、隼は最上川最大の難所で、岩礁が川底全体を覆い、急流になっています。

  奥の細道、いなかの小道(25)−最上川

 
  奥細道菅菰抄には、
 「此処は水底に盤石ひし/\と有て、晴天にも逆浪たち、水勢至てはやく、隼の落すが如し。故に此名あり。いづれも大石田より上なり。別してはやぶさは最上河中の大難所にて、快晴の時といへども、未の刻(午後二時前後)より末は船を乗らずと云。」    
 とあります。

  白糸の瀧は青葉の隙/\に落て仙人堂岸に臨て立。

  白糸の瀧は、合海・古口の間にある滝で、歌枕にもなっています。

  奥の細道、いなかの小道(25)−最上川

      源重之
  もがみ川 滝のしら糸くる人の ここによらぬはあらじとぞ思ふ
    夫木和歌抄    巻廿六    雜八    12387 

      源重之 
  もがみ河  おちくる滝のしらいとは 山のまゆよりくるにぞありける  
    夫木和歌抄    巻廿六    雜八    12388


 また仙人堂は古口の下流約6㎞にあり、源義経の臣常陸坊海尊を祀る祠と伝えられています。常陸坊海尊は義経の死後、仙人となって奥路を遊歴したと伝えられています。
 
  水みなぎつて舟あやうし。

  秋水漲來船去速      秋の水 漲り來りて船の去ること速かなり  
  夜雲収盡月行遅      夜の雲 収まり盡くして月の行くこと遅し 
  『和漢朗詠集 上巻 秋 月』

  天龍と名づけたるわたりあり。川ふかく流激しくみゆ。秋の水みなぎり來て、舟の去る事速なれば、徃還の旅人たやすくむかひの岸につき難し。此の河水まされる時、舟などもをのづから覆りて、底の水屑となるたぐひ多かりと聞くこそ彼の巫峽の水の流おもひよせられていと危き心ちすれ。しかはあれども、人の心に比ぶれば、静なる流ぞかしと思ふにも、たとふべき方なきは世にふる道のけはしき習なり。
  『東關紀行』

  一 廿九日 夜ニ入小雨ス。発・一巡終テ、翁両人誘テ黒瀧ヘ被参詣。予所労故止。未尅被帰。道々俳有。夕飯、川水ニ持賞。夜ニ入帰。
  
  〇一 晦日 朝曇、辰刻晴。歌仙終。翁其辺ヘ被遊、帰、物ども被書。
 
  『曾良旅日記』

 
  翌二十九日(陽暦七月十五日)、髙野一榮宅での句筵興行に出席した芭蕉は、
 表発句に、
  五月雨を集めて涼し最上川
と詠みました。

  この句は兼好法師の、
  最上河早くぞまさる天雲の 昇ればくだる五月雨の頃
を捩ったものと思われています。
  しかし、豪壮な最上川と「涼し」の釣り合いが、どことなく不自然である。これは、芭蕉が意識的に亭主に対する儀礼の用法を含めた表現であると言われています。

  脇句に、
  岸にほたるをつなぐ船杭    一榮
  瓜畠いざよふ空に影待て    曾良
  里をむかひに桑の細道       川水


と一巡を終わったところで、この句筵は一時中断することになりました。
  芭蕉翁は一榮、川水に誘われて、大石田の対岸横山村の黒滝にある禅刹の黒滝山向川寺に参詣します。

  寺伝に依れば、黒滝山向川寺は永和三年(1377)、室町前期の禅僧で後に曹洞宗の総本山總持寺住持を務めた大徹宗令(1333〜1408)の開創で、以来、總持寺の直末寺として重きを置き、多くの名僧を輩出したとされています。向川寺の歴代禅師が開創した末寺は二十八ヵ寺を数え、中本山としての寺格を有していました。

  向川寺は寛永十七年(1640)、出羽新庄藩初代藩主戸沢政盛(1585〜1648)から寺領三十石を拝領しましたが、数度の火災のために本堂はじめほとんどの堂宇や諸仏を焼失し、往時の面影は残っていません。

  晦日(陽暦七月十六日)、ふたたび髙野一榮宅で句筵興行が催され、前日からの四吟歌仙「五月雨を」が満尾(完了)します。

  「俳諧書留」には、

  初折表六句
       大石田、高野平右衞門亭にて
 
  五月雨を集て凉し最上川           翁 
  岸にほたる(を)つなぐ舟杭      一榮 
  爪畠いざよふ空に影待て         ソラ 
  里をむかひに桑の細道           川水 
  うしの子に心慰む夕間暮         一榮
  水雲重しふところの吟               翁

  初折裏十二句

  佗笠を枕にたてゝ山颪              川水
  松むすびをく國の境め              ソラ
  永樂の舊き寺領を戴て               翁
  夢とあハする大鷹の紙              一榮
  たき物の名を曉とかこちたる       ソラ
  爪紅うつる双六の石                 川水
  卷揚る簾にちごの這入て          一榮
  煩ふ人に告る秋風                     翁
  水かハる井手の月こそ哀なれ  川水  
  碪打とて撰ミ出さる                 ソラ  

  名残ノ折表十二句

  花の後花を織する花莚           一榮
  ねハんいとなむ山陰の塔         川水
  ゑた村はうき世の外の春富て      翁
  刀狩する甲斐の一亂             ソラ
  八重葎人も通らぬ關所            川水
  もの書度に削る松の風          一榮
  星祭ル髪は白毛のかるゝ迄        ソラ
  集に遊女の名をとむる月           翁
  鹿苗にもらふもおかしぬり足駄    一榮
  柴賣に出て家路忘るゝ            川水
  ねむた咲木陰を晝のかげろいに     翁
  たえだえならす万日のかね        ソラ
 
  名残ノ折の裏六句

  古里の友かと跡をふりかへし        川水
  ことば論する船の乘合                  一榮
  雪みぞれ師走の市の名殘とて       ソラ
  煤掃の日を草庵の客                    翁
  無人をふるき懐紙にかぞへられ     一榮
  やまめがらすもまよふ入逢           川水
  平包明日も越べき峯の花              翁
  山田の種を祝ふ村雨                  ソラ  

   芭蕉九
   一榮九
   曾良九
   川水九
  最上川のほとり一榮子宅におゐて興行
  元禄二年仲夏末  芭蕉庵桃靑書


 の三十六句を収載しています。

 つづく

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