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2015年06月26日

奥の細道、いなかの小道(24)−尾花沢/立石寺



奥の細道、いなかの小道(24)−尾花沢/立石寺
 
  立石寺納経堂と開山堂

  (旧暦5月11日)

  尾花沢にて清風と云者を尋ぬ。かれは富るものなれども、志いやしからず。都にも折々かよひて、さすがに旅の情をも知たれば、日比とゞめて、長途のいたはり、さまざまにもてなし侍る。

  涼しさを我宿にしてねまる也
  這出よかひやが下のひきの声
  まゆはきを俤にして紅粉の花
  蚕飼する人は古代のすがた哉  曽良



  さて芭蕉翁一行は、陰暦五月十七日に山刀伐(なたぎり)峠の嶮難を越えて東北山系横断を果たし、当時、天領として最上川舟運の要港大石田に隣接し、仙台・山形・新庄への三道が交叉する宿駅として栄えていた尾花沢に到着しました。

  大石田では、「紅花大尽」といわれた豪商で、談林系の俳人でもある旧知の鈴木清風(1651〜1721)の下に止宿しています。

  (残月軒)鈴木清風は、通称島田屋八右衛門(三代目)、諱を道祐と称し、出羽国村山郡尾花沢村に生まれ、そこに生涯を閉じています。
  島田屋は初代、二代目の寛永年間(1624〜1645)、当時最盛期をむかえ、日本でも指折りの銀山に成長した延沢銀山の諸物品の仲買や金融業で財力を蓄えたと見られています。

  芭蕉来訪当時、島田屋は、最上地方で生産される紅花(末摘花:茎の先端につく花を摘み取って染色に用いることからこう呼ばれる)を集荷して京阪へ出荷する紅花荷受問屋を営み、また生産地農民への資金の貸し付けの他、山形藩松平大和守や新庄藩戸沢上総介への大名貸しなどの金融業も兼ね、最上地方の富商として有名でした。

  俳諧においては、京の菅野谷高政(生没年不詳)の『俳諧中庸姿(つねのすがた)』延宝七年(1679年)刊に独吟歌仙一巻が入集、延宝末より天和・貞享にかけての過渡期には、自ら『おくれ双六』(延宝九年)、『稲筵』(貞享二年)、『俳諧一橋』(貞享三年)を撰んでいます。

  これらの撰集を通じて、京都談林派の田中常矩(1643〜1682)、菅野谷高政(生没年不詳)、伊藤信徳(? 〜1698)、斎藤如泉(1644〜1715)、北村湖春(1650〜1697)、江戸談林派の高野幽山(生没年不詳)、岸本調和(1638〜1715)、池西言水(1650〜1722)、椎本才麿(1656〜1738)などの談林派隆盛期の錚々たる俳人との交渉がありました。

  さらに、仙台俳壇の基礎を築いた大淀三千風(1639〜1707)は、『日本行脚文集』貞享三年(1686)玄(ながつき:九月)の条に、次のように記しています。

  暮秋念(廿日)最上延沢、銀山のふもと、尾花沢に着ク。当處にハ予が好身(よしみ)、古友あまたあれば、三十余日休らひ、當處の誹仙、鈴木清風は古友なりしゆへとふらひしに、都櫻に鞭し給ひ、いまだ關をこえざりしとなん。本意(ほい)なミながら一紙を残す。(以下略)

  「日本行脚文集」巻七


  奥の細道、いなかの小道(24)−尾花沢/立石寺




  また、芭蕉とも貞享二年(1685)六月二日、東武(江戸)小石川において興行された「賦花何俳諧之連歌」の七吟百韻、翌三年三月二十日、清風の江戸の仮寓において興行された歌仙にも一座して、すでに面識もありました。

  芭蕉の尾花沢滞在は、陰暦五月十七日より二十七日までの十一日間でしたが、そのうち、清風亭宿泊は十七日・二十一日・二十三日の三日間で、その他は坂上にある弘誓山養泉寺に滞在しました。
 
○十七日 快晴。堺田ヲ立。一リ半、笹森関所有。新庄領。関守ハ百姓ニ貢ヲ宥シ置也。ササ森。三リ、市野ゝ。小国ト云ヘカヽレバ廻リ成故、
  一バネト云山路ヘカヽリ、此所ニ出、堺田ヨリ案内者ニ荷持セ越也。市野ゝ五、六丁行テ関有。最上御代官所也。百姓番也。関ナニトヤラ云村也。
  正厳・尾花沢ノ間、村有。是、野辺沢ヘ分ル也。正ゴンノ前ニ大夕立ニ逢。昼過、清風ヘ着。一宿ス。

○十八日 昼、寺ニテ風呂有。小雨ス。ソレヨリ養泉寺移リ居。

○十九日 朝晴ル。素英、ナラ茶賞ス。夕方小雨ス。

  廿日 小雨。

  廿一日 朝、小三良ヘ被招。同晩、沼沢所左衛門ヘ被招。此ノ夜、清風ニ宿。

  廿二日 晩、素英ヘ被招。

  廿三日ノ夜、秋調ヘ被招。日待也。ソノ夜清風ニ宿ス。

  廿四日之晩、一橋、寺ニテ持賞ス。十七日ヨリ終日清明ノ日ナシ。

  ○秋調 仁左衛門。○素英 村川伊左衛門。○一中 町岡素雲。○一橋 田中藤十良。遊川 沼沢所左衛門。東陽 歌川平蔵。○大石田、一栄 
   高野平右衛門 ○同、川水 高桑加助。○上京、鈴木宗専、俳名似林、息小三良。新庄、渋谷甚兵ヘ、風流。

〇廿五日 折々小雨ス。大石田ヨリ川水入来。連衆故障有テ俳ナシ。夜ニ入、秋調ニテ庚申待ニテ被招。

  廿六日 昼ヨリ於遊川ニ東陽持賞ス。此日モ小雨ス。
〇廿七日 天気能。辰ノ中尅、尾花沢ヲ立テ立石寺ヘ趣。清風ヨリ馬ニテ舘岡(楯岡)迄被送ル。尾花沢。二リ、元飯田(本飯田)。一リ、舘岡(楯岡)。
  一リ、六田。馬次間ニ、内藏ニ逢。二リよ、天童(山形ヘ三リ半)。一リ半ニ近シ。山寺。未ノ下尅ニ着。宿預リ坊。其日、山上・山下巡礼終ル。
  是ヨリ山形ヘ三リ。山形ヘ趣カン(ト)シテ止ム。是ヨリ仙台ヘ趣路有。関東道、九十里余。

一 廿八日 馬借テ天童ニ趣。六田ニテ、又内藏ニ逢。立寄ば持賞ス。未ノ中尅、大石田一英宅ニ着。両日共ニ危シテ雨不降。上飯田(本飯田)ヨリ壱リ半、
  川水出合、其夜、労ニ依テ無俳、休ス。

  『曾良随行日記』


  十日間にわたる尾花沢滞在を切り上げて、芭蕉翁一行が宝珠山立石寺へ向かったのは、陰暦五月二十七日のことでした。

  山形領に立石寺と云山寺あり。慈覚大師の開基にして、殊清閑の地也。一見すべきよし、人々のすゝむるに依て、尾花沢よりとつて返し、其間七里ばかり也。日いまだ暮ず。梺の坊に宿かり置て、山上の堂にのぼる。岩に巌を重て山とし、松栢年旧土石老て苔滑に、岩上の院々扉を閉て物の音きこえず。岸をめぐり岩を這て仏閣を拝し、佳景寂寞として心すみ行のみおぼゆ。

  閑さや岩にしみ入蝉の声

  芭蕉が訪れた当時の立石寺は山形領に属し、松平大和守直矩(1642〜1695)が10万石を領していました。
 
  宝珠山立石寺は、貞観二年(860)、第五十六代清和天皇(850〜881)の勅願により、後の慈覚大師、第三代天台座主圓仁(794〜864)を開基として創建されたとしています。
  伊達の霊山寺、松島の瑞巌寺、平泉の中尊寺・毛越寺、恐山の円通寺など、東北地方に慈覚大師開基と伝えられる寺院が多いのは、弘仁七年(816)、圓仁が開祖最澄(767〜822)の東国巡遊に従って関東に下向し、その後天台宗の東北布教の地歩が築かれたことにもよるとのことですが、同地方への圓仁の巡錫の記録は明らかではないそうです。

  芭蕉訪問当時の立石寺は、天台宗関東総本山の武江(武蔵国江戸)東叡山に所属して寺領千四百二十石を有し、境内約百萬坪、全山凝灰岩からなる山寺でした。

  この立石寺の一章には『寒山詩』の世界を連想させる描写が多く、この『寒山詩』は天和時代(1681〜1683)の芭蕉の愛読書の一つであったとされています。

  『寒山詩』は古来、禅門では非常に読諦された詩集であり、詩中の佳句は、たくみに各種の語録や偶頗に活用されている。それにもかかわらず作者寒山の伝記は全く 不明である。かつては唐の初期に生存していたといわれたが、今日では中唐頃まで時代が下げられている。 一つには、他の中国の所謂詩人と呼ばれる人々か官吏であつたのにたいし、寒山はまつたく、それとはかけ離れた生活環境を送つたせいでもあ ろう。しかし、晩唐の詩人杜牧が、「たとい一生二生を経て詩吟を作るといへども、老杜が境涯にだも到りがたし、況んや亦寒山詩をや」と述懐した等の逸話は、この詩集が普及していたことを物語つている。

  山口晴通  『寒山詩』


  ○慈覚大師の開基にして、殊清閑の地也。

  出家要淸閑 淸閑即爲貴 
  如何塵外人 卻入塵埃裏
  一向迷本心 終朝役名利
  名利得到身 形容已顦顇
  况復不遂者 虛用平生志
  可憐無事人 未能笑得汝
        拾得詩 十


  出家は淸閑を要す        淸閑即ち貴しと爲す
  如何(いかん)ぞ塵外の人    卻(かへ)つて塵埃の裏(うち)に入る
  一向(いちず)に本心に迷ひ   終朝(ひねもす)名利に役せらる
  名利身に到るを得れば      形容已に顦顇(せうすい)す
  况(いは)んや復た遂げざる者は 虛しく平生の志を用う
  憐む可し無事の人        未だ汝を笑い得ること能はず



  隠士遁人間 多向山中眠
  青蘿疏麓麓 碧澗響聯聯
  騰騰且安楽 悠悠自淸閑
  免有染世事 心靜如白蓮
     寒山詩 二六四


  隠士人間(じんかん)を遁(のが)れ  多く山中に向(ゆ)きて眠る
  靑蘿(ら)は疏にして麓麓       碧澗は響きて聯聯
  騰騰として且(しば)らく安樂     悠悠として自ら淸閑
  世事に染むこと有るを免れて      心浄(きよ)くして白蓮の如し


  また、芭蕉が四十八歳の元禄四年(1691)四月十八日から五月四日までの短期間、当時、京都嵯峨にあった蕉門十哲の一人として名高い向井去來(1651〜1704)の閑居である落柿舎に滞在した折にかかれた唯一の日記である『嵯峨日記』の冒頭には、以下の記述があります。

  元禄四辛未卯月十八日、嵯峨にあそびて去来ガ落柿舍に到。凡兆共ニ来りて、暮に及て京ニ帰る。予は猶暫とゝむべき由にて、障子つゞくり、葎引かなぐり、舍中の片隅一間なる處伏處ト定ム。机一、硯、文庫、白氏集・本朝一人一首・世継物語・源氏物語・土佐日記・松葉集を置。并 、唐の蒔絵書たる五重の器にさまざまの菓子ヲ盛、名酒一壺盃を添たり。夜るの衾、調菜の物共、京ゟ持來りて乏しからず。我、貧賤をわすれて淸閑ニ樂。
  ○岩に巌を重て山とし

  積土成山 風雨興焉 積水成淵 蛟龍生焉 積善成德 而神明自得 聖心備焉
  故不積蹞步 無以致千里 不積小流 無以成江海 
  騏驥一躍 不能十步 駑馬十駕 則亦及之 功在不舍
  『荀子』 勸學篇 九


  積土 山を成して風雨興り、積水 淵を成して蛟龍生じ、積善 德を成さば而ち神明自得し、聖心備はる。
  故に蹞歩(きほ)を積まざれば、以て千里に至ること無く、小流を積まざれば、以て江海を成すこと無し。
  騏驥も一躍にしては十歩なること能はず、駑馬も十駕すれば、則ち亦之に及ぶべし。 
  功は舍(を)かざるに在り。


  重巌我卜居 鳥道絶人迹
  庭際何所有 白雲抱幽石
  住茲凡幾年 屢見春冬易
  寄語鐘鼎家 虚名定何益
        寒山詩 一


  重巌(ちようがん)に我れト居す   鳥道人迹(じんせき)を絶つ
  庭際(ていさい)何んの有る所ぞ   白雲幽石を抱く
  慈(ここ)に住して凡そ幾年ぞ    屢(しば)しば春冬の易(かわ)るを見る
  語を寄す鐘鼎の家          虚名定(かな)らず何の益かあらん


   奥の細道、いなかの小道(24)−尾花沢/立石寺


  獨臥重巖下 蒸雲晝不消
  室中雖暡靉 心裏絕喧囂
  夢去遊金闕 魂歸度石橋
  拋除鬧我者 歷歷樹間瓢
      寒山詩 四十八


  獨り重巖の下に臥す   蒸雲晝も消へず
  室中暡靉(をうあい)なりと雖も 心裏喧囂(けんがう)を絕つ
  夢は去りて金闕に遊び 魂は歸りて石橋を度(わた)る
  拋除(はうじよ)す我を鬧(さわが)す者 歷歷たる樹間の瓢(ひさご)


  重巌中 足淸風    
  扇不揺 涼気通   
 
  明月照 白雲籠
  獨自坐 一老翁     
  寒山詩 三○三


  重巌(ちようがん)の中   淸風足る
 
  扇 揺(うご)かざるに   涼気通ず
  明月照らし         白雲籠る
  獨り自ら坐す        一老翁


  ○松栢年旧土石老て苔滑に

  登陟寒山道   寒山路不窮   
  谿長石磊磊   澗濶草濛濛   

  苔滑非関雨   松鳴不假風   
  誰能超世累   共坐白雲中   
        寒山詩 三十二


  登陟(とうちよく)す  寒山の道
  寒山 路窮(きはま)らず

  谿(たに)は長くして  石磊磊(らいらい)
  澗(たにがわ)は濶(ひろ)くして  草濛濛(もうもう)
  苔の滑らかなるは 雨に関はるに非ず
  松の鳴るは 風を仮らず

  誰か能く世累(せるい)を超えて
  共に白雲の中に坐せん


  ○佳景寂寞として

  寒山唯白雲 寂寂絕埃塵
  草座山家有 孤燈明月輪
  石牀臨碧沼 虎鹿每爲鄰
  自羨幽居樂 長爲象外人
      寒山詩 二八五


  寒山は唯白雲のみ  寂寂として埃塵を絕す
  草座は山家に有り  孤燈月輪明らかなり
  石牀碧沼に臨み   虎鹿每に鄰を爲す
  自から幽居の樂しみを羨(ねが)い  長(とこし)へに象外の人と爲らん


  寒山無漏巖 其巖甚濟要
  八風吹不動 萬古人傳妙
  寂寂好安居 空空離譏誚
  孤月夜長明 圓日常來照
  虎丘兼虎谿 不用相呼召
  世間有王傅 莫把同周邵
  我自遯寒巖 快活長歌笑
      寒山詩 二九五


  寒山の無漏(むろ)の巌(いわ)  其の巌は甚だ済要(さいよう)なり
  八風吹けども動ぜず        萬古 人 妙を傳う
  寂寂として安居に好く       空空として譏誚(きせう)を離る
  孤月夜長(とこし)へに明らかに  圓日常に來たりて照らす
  虎丘と虎谿と           相ひ呼召するを用いず
  世間に王傅(わうふ)有り     把(と)りて周邵と同ずること莫かれ
  我れ寒巖に遯(のが)れし自り   快活にして長く歌笑す


  奥の細道、いなかの小道(24)−尾花沢/立石寺


  我居山          
  勿人識          
  白雲中          
  常寂寂          
  寒山詩 三○一


  我れ山に居す
  人の識る勿し
  白雲の中
  常に寂寂たり


  ○閑さや岩にしみ入蝉の声


  奥の細道、いなかの小道(24)−尾花沢/立石寺


  寒山道  無人到
  若能行  稱十號
  有蟬鳴  無鴉噪
  黃葉落  白雲掃
  石磊磊  山隩隩
  我獨居  名善導
  子細看  何相好
   寒山詩 二九九


  寒山の道は    人の到る無し
  若し能く行かば  十號を稱せよ
  蟬の鳴く有り   鴉の噪ぐ無し
  黃葉落ち     白雲掃(はら)ふ
  石は磊磊たり   山は隩隩(あうあう)
  我れ獨り居り   善導と名づく
  子細に看れば   何の相好ぞ


  遊少林寺  沈佺期
  長歌遊寶地 徙倚對珠林
  雁塔風霜古 龍池歲月深
  紺園澄夕霽 碧殿下秋陰
  歸路煙霞晚 山蟬處處吟
     全唐詩 巻九十六



  和裴迪登新津寺寄王侍郎 杜工部
  何限倚山木 吟詩秋葉黃 
  蟬聲集古寺 鳥影度寒塘
  風物悲遊子 登臨憶侍郎
  老夫貪佛日 隨意宿僧房


  裴迪の新津寺に登りて王侍郎に寄するに和す  杜甫
  何の恨みか山木に倚り 吟詩す秋葉の黃
  蟬聲 古寺に集り   鳥影 寒塘を度(わた)る
  風物 遊子を悲しまん 登臨 侍郎を憶ふ
  老夫佛日を貪る    隨意 僧房に宿せん


  奥の細道、いなかの小道(24)−尾花沢/立石寺


  山中    秘演
  結茅鄰水石 澹寂益閒吟
  久雨寒蟬少 空山落叶深
  危楼乘月上 遠寺听鐘尋
  昨得江僧信 期來此息心
     全宋詩 第十九部


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