さぽろぐ

文化・芸能・学術  |札幌市中央区

ログインヘルプ


2014年04月11日

奥の細道、いなかの小道(21)− 平泉(1)

 奥の細道、いなかの小道(21)− 平泉(1)

  奥州藤原氏三代

  (旧暦3月12日)

  夏草や兵どもが夢の跡

  卯の花に兼房みゆる白毛かな   曽良


  やっとのことで、奥州平泉にたどり着きました。
  かの、藤原三代の栄耀(ええう)、今は見る影もなく、ただ北上川だけが悠然と流れています。

  鎌倉時代に成立した歴史書『吾妻鏡』の文治五年八月大廿一日の条にも、当時の荒廃した平泉の有り様が、次のように描かれています。

  文治五年八月大廿一日戌申
  甚雨暴風。追泰衡、令向岩井郡平泉給
  (中略)
  泰衡過平泉舘、猶逃亡。縡急而雖融自宅門前、不能暫時逗留。纔遣郎從許件館内、高屋寳藏等縱火。杏梁桂柱之搆、失三代之舊跡。麗金昆玉之貯、爲一時之薪灰。儉存奢失。誠以可愼者哉。
  『吾妻鏡』文治五年 己酉


  文治五年八月大八日廿一日戌申(ぼしん)
  甚雨暴風。泰衡を追て、岩井郡平泉へ向は令(し)め給ふ。
  (中略)
  泰衡平泉の舘を過ぎ、猶逃亡す。縡(こと)、急にして自宅の門前を融(とほ)ると雖も、暫時も逗留に能はず。纔(わづか)に郎從許りを件(くだん)の館内(たちない)へ遣はし、高屋、寳藏等(ら)に火を縱(はな)つ。杏梁(きやうりやう)桂柱之搆へ、三代之舊跡を失ひ、麗金(れいこん)昆玉之貯(たくは)へ、一時之薪灰(しんかい)と爲す。儉は存し奢は失す。誠に以て愼む可者哉(をや)。

  文治五年八月大廿二日己酉
  甚雨。申剋、着御于泰衡平泉舘。主者已逐電、家者又化烟。數町之縁邊、寂寞而無人。累跡之郭内、弥滅而有地。只颯々秋風、雖送入幕之響、蕭々夜雨、不聞打窓之聲。但當于坤角、有一宇倉廩。遁餘焔之難。遣葛西三郎淸重、小栗十郎重成等、令見之給。沈、紫檀以下唐木厨子數脚在之。其内所納者、牛玉、犀角、象牙笛、水牛角、紺瑠璃等笏、金沓、玉幡、金花鬘〔以玉餝之〕、蜀江錦直垂、不縫帷、金造鶴、銀造猫、瑠璃燈爐。南廷百〔各盛金器〕等也。其外錦繍綾羅、愚筆不可計記者歟。象牙笛、不縫帷者、則賜淸重、玉幡、金花鬘者、又依重成望申同給之。可庄嚴氏寺之由、申之故也云々。彼瞽叟之牛羊者、雖顯不義之名、此武兵之金玉者、擬備作善之因。財珍係望、古今異事者哉。
  『吾妻鏡』文治五年 己酉


  文治五年八月大廿二日 己酉(きゆう) 
  甚雨(豪雨)。申の刻(午後4時前後)、泰衡の平泉の館に着御す。主は已に逐電し、家はまた烟と化す。數町の縁邊、寂寞として人無し。累跡の郭内、いよいよ滅して地のみ有り。ただ颯々(そふそふ)たる秋風、幕に入るの響きを送ると雖も、簫々(せうせう)たる夜雨、窓を打つの聲を聞かず。但し坤(こん、ひつじさる=西南)の角に當り、一宇の倉廩(そうりん)有り。餘焔の難を遁(のが)る。葛西の三郎淸重、小栗の十郎重成等(ら)を遣はし、之を見せ令(し)め給ふ。沈、紫檀以下の唐木の厨子數脚これに在り。その内に納める所は、牛玉、犀角、象牙の笛、水牛の角、紺瑠璃等(ら)の笏、金の沓(くつ)、玉の幡(はた)、金の華鬘(けまん)〔玉を以て之を餝(かざ)る〕、蜀江錦(にしき)の直垂(ひたたれ)、不縫(ぬはず)の帷(かたびら)、金造の鶴、銀造の猫、瑠璃の燈爐、南廷(銀塊)百(各々金の器に盛る)等なり。其の外、錦繍綾羅、愚筆に計(かぞえ)記す可からざる者歟(か)。象牙の笛、不縫(ぬはず)の帷(かたびら)は清重に賜はり、玉の幡(はた)、金の華鬘(けまん)は、また重成望み申すに依て同じく之を給はる。氏寺を荘厳すべきの由、之を申すの故なりと云々。彼の瞽叟(こそう)の牛羊は、不義の名を顯すと雖も、この武兵の金玉は、作善の因に備へんと擬(こら)す。財珍に望みを係るは、古今事を異にする者哉。

  奥州平泉文化は、藤原清衡(1056 ?〜1128)、基衡(1106 ?〜1157)、秀衡(1122 ?〜1187)の三代によって築かれました。

  われらが先祖みたちの権太郎清衡にこの国の守護を賜はつしよりこのかた、その子に小次郎基衡、いま秀衡まで三代は、国穏やかに治まり、忝くも一天の君の宣旨を蒙り、弓矢の家の名を得しこと、しかしながら当家のご恩たり。
  幸若舞 『泉が城』


  初代藤原清衡(1056 ?〜1128)は、陸奥国亘理の豪族亘理経清(生年不詳〜1062)と、陸奥国奥六郡(胆沢郡、江刺郡、和賀郡、紫波郡、稗貫郡、岩手郡)を治めた俘囚長安倍頼時(生年不詳〜1057)の娘の有加一乃末陪(あるかいちのまえ)の間の子として生まれ、父の亘理経清が亘理権大夫(わたりのごんのたいふ)を称した関係から、幼名を権太郎と呼ばれたとの説もあるようです。
 
  前九年の役(1051〜1062)で安倍一族が滅亡した後に、母の再婚に従って清原武貞(生没年不詳)の養子となり清原性をとなえますが、後三年の役(1083〜1087)の後、一族最後の残存者として奥六郡を領する勢力者となり、また寬治三年(1089)に陸奥国押領使に任命され、江刺郡豊田に居館を構えました。

  寛治五年(1091)、清衡は関白藤原師実(1042〜1101)に馬を献上するなどして京の藤原氏と交誼を深め、この関係より藤原の姓を称するに至ったと言われています。

  寬治五年十一月十五日
  亥の刻関白殿(師実)の使者来たり曰く、清衡(陸奥の住人なり)、馬二疋進上の由、仰する所也。承りおわんぬ、云々。
   『後二条師通記』


  嘉保年間(1094〜1096)には磐井郡平泉に居を移し、長治二年(1105)からは中尊寺の中興に着手して壮大な中世都市平泉の原型をつくり、奥州藤原氏三代百年の栄華の基礎を築きました。

  二代基衡は毛越寺を再興して京を凌ぐ寝殿造りの金堂と浄土庭園大泉が池を造営し、三代秀衡は無量光院を建立して父祖の業を継承し、嘉応二年(1170)五月二十五日には従五位下鎮守府将軍に叙任され、養和元年(1181)八月二十五日には従五位上陸奥守に叙任されて、名実ともにみちのくの覇者として君臨しました。

  一 十三日
  天気明。巳ノ尅ヨリ平泉ヘ趣。一リ、山ノ目。壱リ半、平泉ヘ以上弐里半ト云ドモ弐リニ近シ(伊沢八幡壱リ余リ奥也)。高館・衣川・衣ノ関・中尊寺・(別当案内)光堂(金色寺)・泉城・さくら川・さくら山・秀平やしき等ヲ見ル。泉城ヨリ西霧山見ゆルト云ドモ見ヘズ。タツコクガ岩ヤヘ不行。三十町有由。月山・白山ヲ見ル。経堂ハ別當留主ニテ不開。金鶏山見ル。シミン堂、无量劫院跡見、申ノ上尅帰ル。主、水風呂敷ヲシテ待、宿ス。 

  一 十四日
 天気吉。一ノ関(岩井郡之内)ヲ立。
  (曾良随行日記)

  『奥の細道』本文中の「秀衡が跡」は、曾良が随行日記にも「秀平やしき等」と記してあるところですが、この場所は、三代秀衡の居館であった嘉楽館(加羅御所)とも呼ばれ、享保四年(1719)に完成した仙臺藩の地誌である『奥羽観蹟聞老志』によれば、
  
  嘉楽館址 

  其地在新御堂來神河西高舘東北秀衡常居也祖父淸衡旧居江刺郡餅田郷豊田舘堀河帝康和中遷此地往時來神河流過長部山下道路在河東架長橋而來往後来流于西畔亦後洪水瀰漫失舘下地東史曰無量院東門搆一郭號嘉樂舘秀衡常居所也泰衡相継而居焉者乃是地也


  其の地、新御堂來神(きたかみ)河の西、高舘の東北に在り、秀衡の常居也。祖父淸衡、旧居の江刺郡餅田郷豊田舘を堀河帝の康和中(1099〜1103)に此地に遷す。往時、來神(きたかみ)河は長部山の下を流過す。道路は河東に在り、長橋を架けて而して來往す。後に西畔に來流し、亦後の洪水、瀰漫(びまん、広がる)して舘の下地を失ふ 。東史(吾妻鏡)に曰く、無量院の東門に一郭を搆へ、嘉樂舘と號す。秀衡の常居の所也。泰衡相継ぎて居すとは乃ち是の地也。


とあり、江戸中期の仙臺藩医、相原友直(1703〜1782)が宝暦十年に著した『平泉舊蹟志』には、

 一、加羅樂跡 新御堂の東、北上河の西、高舘の東南に在り、今の海道の北なり、東鑑に無量光院の東門に一廓を搆へ、加羅樂と號し、秀衡か常の居所となす、泰衡も相續て居所とすと云へり、里俗又加羅御所とも云へり、

と記されています。

  さらに、三代秀衡が富士の形に擬して、山頂に平泉鎮護のために金鶏を埋めたと伝えられる金鶏山は、前の『奥羽観蹟聞老志』によれば、

  金鶏峯 

  中尊寺東南有高峯秀衡擬之駿州慈峯且埋金鶏一匹於峯頭號金鶏山乃是地也

  中尊寺の東南に高峯有り。秀衡之を駿州の慈峯に擬し、且つ金鶏一匹を峯頭に埋め、金鶏山と號す。乃ち是の地也。

  『平泉舊蹟志』には、

  一、 金鶏山 圓隆寺の鬼門にあたり、高舘未申(ひつじさる、南西)にある山を臺のかたちに築けり、基衡、黃金を以て雞の雌雄を造り、此山の土中に築こめて平泉を鎮護せしむると云ひ傳へり、又郷説に、秀衡、漆萬盃の内に、黄金億金を交へ、土中に埋み隠し置く、末世の子孫に遜(ゆず)り傅へんとせしと、里俗のかたり傅へしは此山の事なり、其時の歌なりとて、
 朝日さす夕日かゝやく木のもとに漆萬盃黄金萬置く
又億置とも云へり、


とあります。

  さて、平泉に着いた芭蕉翁一行がまず最初に訪ねたのは、義経が最期を遂げたとされている髙舘でした。この舘は、三代秀衡の在世のとき、平治の乱(1159)に縁座して陸奥に流された民部少輔基成の居館に当てていたのを、義経の下向を迎え、その別館に居さしめたと云われています。

  文治五年閏四月卅日已未
  今日、於陸奥國、泰衡襲源豫州。是且任勅定、且依二品仰也。豫州在民部少輔基成朝臣衣河舘。泰衡從兵數百騎、馳至其所合戰。豫州家人等雖相防、悉以敗績。豫州入持佛堂、先害妻〔廿二歳〕、子〔女子四歳〕、次自殺云々。
   『吾妻鏡』文治五年 己酉

 
  文治五年閏四月卅日 己未(きび)
  今日、陸奥の國に於いて、泰衡源豫州を襲う。これ且つは勅定に任せ、且つは二品の仰せに依てなり。豫州、民部少輔基成朝臣の衣河館に在り。泰衡の従兵数百騎、その所に馳せ至り合戰す。豫州の家人等相防ぐと雖も、悉く以て敗績す。豫州持佛堂に入り、先ず妻(二十二歳)、子(女子四歳)を害し、次いで自殺すと云々。


  文治五年五月小廿二日辛巳
  申剋、奥州飛脚參着。申云、去月晦日、於民部少輔舘誅豫州。其頚追所進也云々。則爲被奏達事由、被進飛脚於京都。御消息曰、去閏四月晦日、於前民部少輔基成宿舘〔奥州〕、誅義經畢之由、泰衡所申送候也。依此事、來月九日塔供養、可令延引候。以此趣、可令洩達給。頼朝恐々謹言。
 (後略)
   『吾妻鏡』文治五年 己酉


  文治五年五月小廿二日 辛巳(しんし)
  申の剋、奥州の飛脚参着す。申して云く、去る月晦日、民部少輔の館に於いて豫州を 誅す。その頸送り進す所なりと。則ち事の由を奏達せられんが為、飛脚を京都に進せ らる。御消息に曰く、去る閏四月晦日、前の民部少輔基成の宿館(奥州)に於いて、義經を誅しをはんぬるの由、泰衡申し送り候所なり。この事に依て、来月九日の塔供養延引せしむべく候。この趣を以て洩れ達せしめ給うべし。頼朝恐々謹言。

( 後略)


 奥の細道、いなかの小道(21)− 平泉(1)

 髙舘より北上川を臨む

   『奥羽観蹟聞老志』に曰く、

  衣河館 今曰高舘 

  在平泉村東安倍頼時處築曰之衣河舘文治中民部少輔基成居此舘義經自殺于茲世称高舘是也上有義經古墳々畔有一櫻樹今猶存焉是乃往時之旧物也傍有兼房墓天和中我前大守綱村君建祠堂祭義經幽魂

  桓武帝延暦八年六月庚辰征東将軍奏稱胆澤之地賊奴奥区方今大軍征討剪除村邑余党伏竄殺害人物又子波和我僻在深奥臣等遠欲薄伐運粮有難其従玉造塞至衣川営四日輜重受納二ヶ日然則往還十日依衣川至子波地行程仮令六日輜重往還十四日従玉造至子波地往還廿四日也

  東史曰豫州在民部少輔基成朝臣衣河舘文治五年閏四月晦日泰衡襲其館豫州兵悉敗績豫州入仏堂害其妻子後自殺夫人乃川越太郎重頼女死時廿二女子四歳義経廿七歳
  同八月二十五日頼朝令千葉六郎大夫胤頼之衣河館召前民部少輔基成父子委身于下吏降胤頼九月二十七日頼朝歴覧頼時衣河遺蹤同六年二月十一日千葉新介敗大河次郎兼任于衣河舘今詳考東史或記歴覧頼時遺蹤或記敗兼任于衣河館

  按義經東行之時秀衡別構營称之高舘而往年頼時旧舘此時猶存者可視
  賦高舘古戦場高舘従天星似冑衣川通海月如弓義經運命紅塵外辨慶揮威白浪中出本朝一人一首 



  衣河館 今、高舘と曰ふ。
  平泉村の東に在り。安倍頼時の築く處。之を衣河の舘と曰ふ。文治中、民部少輔基成、此の舘に居す。義經茲に自殺す。世に高舘と称するは是也。上に義經の古墳有り。墳畔に一櫻樹有り。今猶存す。是乃ち往時之舊物也。傍らに兼房の墓有り。天和中(1681〜1683)、我が前大守綱村君(第四代藩主伊達綱村)、祠堂を建て義經の幽魂を祭る。

  桓武帝の延暦八年(789)六月庚辰(こうしん、17日)、征東將軍(正四位下紀古佐美)奏稱(奏上)す。胆澤之地は賊奴の奥區(中心地)なり。方今(ただ今)、大軍征討して村邑を剪除(取り除く)す。餘黨(よたう、その他の輩)、伏竄(ふざん、潜伏)し人物を殺害す。又、子波(志波、盛岡西南部)、和我(岩手県和賀郡)は深奥に僻在(遠くに在る)す。臣等、遠く薄伐(迫伐、迫り討伐する)を欲するも、粮(りやう、かて)を運ぶに、其の從(じゆう、つきそい)有り難し。玉造塞(たまつくりのとりで)、衣川營に至るに四日、輜重(食料、軍用品)の受納に二ヶ日、然(しか)して則はち、往還十日なり。衣川より子波(志波、盛岡西南部)の地に至る行程を仮令(けりやう、かりに)して六日、輜重の往還十四日なり。玉造より子波の地に至るに、往還廿四日也。

  東史(吾妻鏡)に曰く、豫州(伊豫の守義經)、民部少輔基成朝臣の衣河舘に在り。文治五年(1189)閏四月晦日、泰衡、其の舘を襲ひ、豫州(伊豫の守義經)の兵悉く敗績す。豫州、仏堂に入り、其の妻子を害した後、自殺す。夫人の川越太郎重頼の女(むすめ)、死する時廿二、女子四歳なり。義經廿七歳。
  同八月二十五日、頼朝、千葉六郎大夫胤頼に令して衣河舘に之(ゆ)かしめ、前(さき)の民部少輔基成父子を召す。身を下吏に委(ゆだ)ね胤頼に降る。九月二十七日、頼朝、頼時の衣河遺蹤を歴覧す。同六年二月十一日、千葉新介、大河次郎兼任を衣河舘に敗(やぶ)る。今、東史を詳考するに或は頼時の遺蹤の歴覧を記し、或は兼任が衣河舘に敗るるを記す。
  
  按ずるに義經東行之時、秀衡別に營を構へ之を高舘と称す。而して往年頼時の旧舘、此時猶存すること視る可し。

  高舘の古戦場を賦す。高館は天星を從(したが)へ、冑(よろひ)を似て衣川に通ず。海月(海上に見える月)弓の如く、義經の運命は紅塵の外、辨慶が威を揮(ふる)ふは白浪中(歌舞伎)に出ず。本朝一人一首
 (嘉穂のフーケモン拙訳)


  『平泉舊蹟志』に曰く、

  一、衣川館、又高舘とも云ふ、百年程以前、古城跡を記せるには、東西四百六十間餘、南北百三十間、高さ五十間とあり、其頃は、北上川東山の麓を流れしが、今は此館の下をながる、昔の地圖を以て見るに、百年以來の事なり、度々の洪水に崩れかけて今は甚せまし、此館中尊寺より、東南にあたり八町餘をへだつ、秀衡の時民部少輔基成朝臣を居住せしむ、又義經の頼朝卿の勘気をを蒙り下向せし時、秀衡此城の別館に居らしむ、是を柳御所と云けると云ひ傳へり、其趾と云ふは東方にあり、義經は其館に於て自殺せりと云ふ、基成は其時の騒動にもかまひなく、泰衡が滅亡の後まで猶高館も居住せり、是義經の館兵燹の時も、基成の館は火災をのがれたると見えたり、其間のへだゝりぬることはかり知ぬべし、頼朝卿、泰衡が平泉館の焼跡に陣して、千葉六郎太夫胤頼に命じて、彼らを召るゝ處に、基成三人の子息を召つれ降人に出たる事、東鑑に見えたり、或説に、此館を安倍頼時が築き、同貞任が住せし衣川柵なりと云ふはひがことなるにや、東鑑に、頼朝卿の頼時が衣川の遺跡を歴覧し給ふ時、郭土空く残りて秋草鎖す事數十町、礎石何くにかある、舊苔埋むこと百餘年と云へり、これを以て考るに、此衣川館の事にはあらず、前にも云へる如く衣川館は、泰衡か平泉館炎上の時まで、基成居住し火災を遁れたる事分明なり、豈にかくの如く秋草鎖すと云ひ、礎石いつくにあるやと云はんや、これを以て館と柵とは、別なるの證據とすべし、續日本紀桓武帝、延暦八年六月、征東将軍泰稱、従玉造塞至衣川營四日云云、是を以て考れば、衣川營は昔よりこれある事分明なり、然るに其地柵をいへるにや、館をいへるにや考ふべきなし、然るに、今其要害を以ていはゞ、衣川館の事ならん歟、尚後の考をまつ、
 

  つづく

あなたにおススメの記事

同じカテゴリー(おくの細道、いなかの小道)の記事画像
奥の細道、いなかの小道(46)− 大垣(2)
奥の細道、いなかの小道(45)− 大垣(1)
奥の細道、いなかの小道(44)− 種の濱
奥の細道、いなかの小道(43)− 敦賀(2)
奥の細道、いなかの小道(42)− 敦賀(1)
奥の細道、いなかの小道(41)− 福井
同じカテゴリー(おくの細道、いなかの小道)の記事
 奥の細道、いなかの小道(46)− 大垣(2) (2018-01-10 20:09)
 奥の細道、いなかの小道(45)− 大垣(1) (2018-01-09 09:27)
 奥の細道、いなかの小道(44)− 種の濱 (2017-12-08 11:27)
 奥の細道、いなかの小道(43)− 敦賀(2) (2017-12-03 10:46)
 奥の細道、いなかの小道(42)− 敦賀(1) (2017-12-01 16:40)
 奥の細道、いなかの小道(41)− 福井 (2017-11-15 09:34)
Posted by 嘉穂のフーケモン at 21:01│Comments(0)おくの細道、いなかの小道
※このブログではブログの持ち主が承認した後、コメントが反映される設定です。
上の画像に書かれている文字を入力して下さい
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。
削除
奥の細道、いなかの小道(21)− 平泉(1)
    コメント(0)