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2013年05月06日

歳時記(23)−春(6)− lilac

 歳時記(23)−春(6)− lilac

 Lilac、紫丁香花(むらさきはしどい)、学名:Syringa vulgaris

(旧暦3月27日)

 鑑眞忌
 唐代、揚州江陽縣大明寺の高僧で、苦節十年、五度の失敗にも志を貫き、六度目の渡航で日本に渡って日本律宗を開いた鑑眞(688〜763)の天平寶字七年の忌日。

 歳時記(23)−春(6)− lilac

 万太郎忌、傘雨忌
 小説家、劇作家、俳人、演出家として活躍した久保田万太郎(1889〜1963)の昭和三十八年の忌日。浅草田原町生まれの生粋の江戸っ子で、下町情緒と古典落語を愛し、伝統的な江戸言葉を駆使して滅びゆく下町の人情を描いた作品を数多く残している。俳号の傘雨から傘雨忌とも呼ばれる。

 歳時記(23)−春(6)− lilac

 春夫忌、春日忌
 艶美清朗な詩歌と倦怠、憂鬱の小説を軸に、文芸評論、随筆、童話、戯曲、評伝、和歌と多岐に活動した佐藤春夫(1892〜1964)の昭和三十九年の忌日。

 歳時記(23)−春(6)− lilac

 Lilacs,
 False blue,
 White,
 Purple,
 Color of lilac.
 Heart-leaves of lilac all over New England,
 Roots of lilac under all the soil of New England,
 Lilac in me because I am New England,
 Because my roots are in it,
 Because my leaves are of it,
 Because my flowers are for it,
 Because it is my country
 And I speak to it of itself
 And sing of it with my own voice
 Since certainly it is mine.
 Lilacs BY AMY LOWELL


 ライラック
 にせのブルー
 ホワイト
 パープル
 ライラックの色
 ニュー・イングランドをおおうライラックのハート形の葉
 ニュー・イングランドの土の下のライラックの根
 私がニュー・イングランドゆえ私の中のライラック
 私の根がその中にあるので
 私の葉がその一部なので
 私の花がそのためにひらくので
 それは私の国であり
 そして私はそれに向かってそれについて語り
 そして私自身の声でそれについて歌うので
 確かにそれが私のものであるからには。
 「ライラック」 エイミー・ローウェル (嘉穂のフーケモン拙訳)


 ライラック(lilac)、学名は Syringa vulgaris. Oleaceae 科の潅木で、東ヨーロッパおよびアジアの温帯地方に生じ、16世紀にペルシアから移植されたと云いますが、ハンガリーなどにも同種の植物が自生してるようです。

 花は白と淡紫があり、晩春から初夏の頃に開花します。紫のライラックは植民地時代にアメリカ合衆国に持って行かれ、東部および中部の庭園に植えられて、New Hampshire 州の州花とされています。

 この詩を詠んだエイミー・ローレンス・ローウェル(Amy Lawrence Lowell, 1874〜1925)は、アメリカ合衆国のイマジズム詩人で、その死後の1926年にピューリッツァー賞詩部門を受賞しています。
 イマジズム(imagism)とは写象主義とも訳され、ロマン派に対抗して1912 年ごろに起こった自由詩運動のことで、写象の明確さを綱領の一つとしています。

 歳時記(23)−春(6)− lilac

 エイミー・ローウェルは、アメリカ合衆国マサチューセッツ州ブルックラインの名門ローウェル家に生まれました。

 The Lowell family settled on the North Shore at Cape Ann after they arrived in Boston on June 23,1639. The patriarch, Percival Lowle (1571〜1664), described as a "solid citizen of Bristol",determined at the age of 68 that the future was in the New World.

 ローウェル一族は、1639年6月23日にボストンに到着した後、アン岬のノースショア地域に定住しました。 「ブリストルの堅実な市民」と称された族長パーシバル・ローウェル(1571〜1664)が、68歳のときに未来は新世界にあると決断したからです。

 Massachusetts Bay Colony Governor John Winthrop needed solid dependable people to settle the North Shore area as a buffer against the French from Canada and he urged that the Lowells relocate to Newburyport on the Merrimack River, at the border of the failing Province of Maine.  By Wikipedia
 
 マサチューセッツ湾植民地知事ジョン・ウィンスロップ(John Winthrop、1588〜1649)は、堅実な頼りになる人々がカナダからのフランス人の脅威に対する盾となる人々としてノースショアエリアに定住することを必要としていました。そして彼はローウェル家の人たちが、衰退したメイン直轄植民地境界のメリマック川河畔ニューベリーポートに転居することを強く主張しました。
“The Lilac”
 Who thought of the lilac?

 “I,” dew said,

 I made up the lilac,

 out of my head.”

 “She made up the lilac!

 Pooh!” thrilled a linnet,

 and each dew-note
had a
 lilac in it.
 —Humbert Wolfe


 「ライラック」
 誰がライラックについて考えた?
 「私だよ」と露がいった。
 「私の頭で考えてライラックを作ったよ」

 「露がライラックを作ったんだって!
 ふーん!」とムネアカヒワが震えていった。
 そして、それぞれの露の音符に
 ライラックが宿っていた。
 ハーバート・ウルフ —1924 (嘉穂のフーケモン拙訳)


 Humbert Wolfe was born in Milan, Italy, in 1885. When he was a child his family moved to Bradford, England. After gaining a first at Oxford University he worked for the Civil Service. Wolfe began publishing poetry in the 1920s and his Requiem (1927) on the First World War was highly acclaimed. On the death of Robert Bridges in 1930, Wolfe was one of the favorites to become Poet Laureate.
 
 H・ウルフは、1885年にイタリアのミラノに生まれました。彼が子供のときに家族はイングランドのブラッドフォードへ引っ越しました。オックスフォード大学で最優等を得た後、彼は行政部のために働きました。ウルフは1920年代に詩を発表し始め、第一次世界大戦に関する彼のレクイエム(1927)は非常に称賛されました。1930年のロバート・ブリッジェズの死に際しては、ウルフは桂冠詩人になる有力候補のうちのひとりでした。

 歳時記(23)−春(6)− lilac

 On the outbreak of the Second World War Wolfe was one of those responsible for drawing up a list of writers who could better serve as propagandists than in the British Army. Humbert Wolfe died in 1940.

 第二次世界大戦の勃発に際しては、ウルフは英国陸軍の宣伝活動家としてよりよく任務を果たす作家のリストを作成するための責任者のうちのひとりでした。H・ウルフは、1940年に死去しました。

 さて、ライラックはまた、昭和35年(1960)に札幌市の木にも選ばれて、市民に親しまれる木となりました。

 この札幌のライラックは、学校法人北星学園の創始者でキリスト教プロテスタント系の伝道師及び教育者として帰国するまでの44年間を札幌の女子教育の発展に大きく貢献したサラ・C・スミス女史(1851〜1947)が故郷のアメリカ合衆国ニューヨーク州から移植したもので、現在も北大植物園に現存しているとのことで、北大植物園内の宮部金吾記念館正面左にあるライラックが札幌でいちばん古く大きい株だそうです。

 昭和30年(1955)、札幌を訪れた歌人、脚本家として名高い吉井勇(1886〜1960)は、「北遊小吟」5 首を詠みました。

 歳時記(23)−春(6)− lilac

 face01家ごとにリラの花咲き札幌の 人は楽しく生きてあるらし

 face02大学のポプラ並木路往き往けば 中谷宇吉郎現れて来るかに

 face03啄木をふと思ひ出ぬ紋付の 木綿羽織の色褪せしを

 face05時計台に夕日あはあはと指す見れば わが旅心地ここに極まる

 face06永遠といふことなどを思ひゐぬ 石狩平野見はるかしつつ


 これを記念して、大通り公園西4丁目の南側に、吉井の札幌のライラックについて詠んだ歌が刻まれた「札幌の木ライラック」碑が立っています。
 この碑は、道銀(北海道銀行)の協力を経て昭和56年(1981)5月29日に建立されたものだそうですが、私、嘉穂のフーケモンが在学中にはまだなかったわけですね。
 歌碑名の揮毫は当時の札幌市長(第七代)を務めていた板垣武四氏(1916〜1993)、デザインは札幌出身の美術家小谷博貞氏(1915〜2005)が担当しています。
  
 北国の詩情豊かな札幌は、ライラック(リラ)がよく似合う街です。昭和三十四年から大通公園を中心に札幌の初夏を飾るにふさわしい〈さっぽろライラックまつり〉が開かれていますし、〝札幌の木〟に選ばれたのはその翌年のことでした。
 すぐれた歌人の吉井勇氏が昭和三十年にこの地を訪れ、その旅の記念として「北遊小吟」五首を残しましたが、ここに刻んだ一首にはライラックを愛する札幌市民の気持が暖かく詠まれています。
 ライラックを行花とし、ことし三十周年を迎えた北海道銀行のご厚志によりこの歌碑の建立をみましたことを、市民とともに心から喜ぶものです。
                    碑銘の揮毫 板垣武四(札幌市長)
                    デザイン  小谷博貞(美術家)
                    昭和五十六年五月二十九日
                    札幌市


 ちなみに、ライラックはフランス語に由来するリラ(lilas)とも呼ばれ、
『リラの花咲く頃』というシャンソンも1930年に大ヒットしていますね。

 Quand refleuriront les lilas blancs
 Printemps printemps c'est toi
  
 Qu'on guette dans les bois
  
 Où les amants heureux
  
 Vont s'en aller par deux
  
 C'est toi qui feras se pâmer tendrement
  
 celle que j'aime éperdument
  
 Printemps j'attends pour la tenir dans mes bras
  
 La complicité des lilas




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