2012年06月20日
おくの細道、いなかの小道(15)ー末の松山
歌枕「末の松山」
(旧暦5月1日)
一 八日 朝之内小雨ス。巳ノ尅ヨリ晴ル。仙台ヲ立。十符菅・壺碑ヲ見ル。未ノ尅、塩釜ニ着、湯漬など喰。末ノ松山・興井・野田玉川・おもはくの橋・浮島等ヲ見廻リ帰。出初ニ塩釜ノかまを見ル。宿、治兵ヘ、法蓮寺門前、加衛門状添。銭湯有ニ入。
(曾良旅日記)
元禄二年(1689)五月八日(陽暦6月24日)、仙臺國分町の大崎庄左衛門宅を午前10時ころに出立した芭蕉翁一行は、途中、十符菅・壺碑の見物をして、午後2時頃に画工加右衛門に紹介された法連寺門前の塩竃神社裏坂(東参道)にある治兵衛という旅籠に着き、遅い昼食の湯漬けを食した後荷物を預けて再び歌枕見物に出かけました。
さて、芭蕉翁一行が訪れた「野田の玉川」とは、古来、
1. 武蔵国調布(たづくり)の玉川
2. 紀伊国髙野の玉川
3. 近江国野路の玉川
4. 山城国井手の玉川
5. 摂津国玉川の里
とともに本朝六玉川の一つとして名高い歌枕でした。
この野田の玉川は、現在の塩竃市大日向を源流として、JR東北本線塩釜駅南方の塩竃市と多賀城市との境界を流れる小川です。
古いものでは、
みちのくにありといふなるたま川の 玉さかにてもあひみてしかな
読み人知らず 古今和歌六帖 第三 水 1556
という歌があります。
『古今和歌六帖』は平安期に編纂された私撰和歌集で、成立年代についてはおおよそ天延(973〜976)から第64代円融天皇の代の間(在位969〜984)に撰せられたといわれており、編者については紀貫之または兼明親王(914〜987)とも具平親王(964〜1009)ともいわれていますが、源順(911〜983)が編者であるという説もあるようです。内容は6巻で、およそ4千数百首の和歌を題別に収録しています。
歌枕「野田の玉川」の最も有名な歌は、
陸奥国にまかりける時よみ侍りける
夕されば汐風こしてみちのくの 野田の玉川千鳥なくなり
能因法師 新古今集 巻六 冬哥 643
で、以下のような派生歌も残されています。
光そふ野田の玉川月きよみ 夕しほ千鳥よはに鳴くなり
後鳥羽院 後鳥羽院集
みちのくの野田の玉川見渡せば 汐風こしてこほる月影
順徳院 続古今集
また、この野田の玉川には現在8つの橋が架けられていますが、その中の一つの「おもはくの橋」(塩竃市留ヶ谷3丁目)は、前九年の役(1051〜1062)で奥州各地に名をあげた安部貞任(1019?〜1062)が若き頃に、この地に住む「思惑」という女性とこの橋で待ち合わせたという言い伝えから名付けられたとされ、「安部の待橋」、「紅葉橋」とも呼ばれたそうです。
かの西行法師もこの地を訪れ、
ふりたるたなはしをもみちのうつみたりける、わたりにくくてやすらはれて、人にたつねけれは、おもはくのはしともうすはこれなりと申しけるをききて
ふままうきもみぢのにしきちりしきて 人もかよはぬおもはくのはし
西行 山家集
と詠んでいます。
またこの地は、仙臺藩第四代藩主伊達綱村(1659〜1719)が西行法師の和歌に因んで「野田の玉川」両岸の丘陵地帯に楓を植えさせたので、「紅葉山」と呼ばれるようになったと云うことです。
塩がまの己午ノ方三十丁斗、八幡村ニ末松山寶國寺ト云寺の後也。市川村ノ東廿丁程也。仙臺より塩がまへ行ば右ノ方也。多賀城ヨリ見ユル。
曾良 「名勝備忘録」
野田の玉川の右岸を南に下り、砂押川の鎮守橋を渡って民家の中を進むと日蓮宗末松山寶國寺(多賀城市八幡2丁目)があります。
寛平の御時きさいの宮の歌合せのうた
浦ちかくふりくる雪は白波の 末の松山こすかとぞ見る
藤原興風 古今集 巻六 冬歌 326
君をおきてあだし心をわがもたば すゑの松山浪もこえなむ
読み人しらず 古今集 巻二十 東歌 1093
契りきなかたみに袖をしぼりつつ すゑのまつ山浪こさじとは
清原元輔 後拾遺集 巻十四 戀四 770
末の松山浪こゆるといふことは、むかし男女に末の松山をさして、彼(かの)山に浪のこえむ時ぞわするべきと契りけるがほどなく忘れにけるより、人の心かはるをば浪こゆると云ふ也。彼(かの)山にまことに浪のこゆるにあらず。あなたの海のはるかにのきたるには浪の彼(かの)松山のうへよりこゆるやうに見ゆるを、あるべくもなき事なれば、誠にあの浪の山こえむ時忘れむとは契るなり。
清原元輔 「奥義抄」
「末の松山を波が越すということがありえないように、二人の契りも永遠で心変わりしない」という 「奥義抄」での清原元輔の説明です。
貞観11年(869)に多賀城に溺死者千人を超える大津波が襲来したそうですが、標高10m程度の小高い丘の「末の松山」だけは波が越えなかったとの噂が都の人にも伝わり、それが歌枕の故事となったとされているそうです。
実際に、延喜元年(901)に成立した『日本三代実録』(日本紀略、類聚国史一七一)には、この地震に関する記述がいくつか記されています。
五月
廿六日癸未(みずのとひつじ)、 陸奧國地大ひに震動す。流光晝の如く隱(かげ)を映し、之の頃、人民叫呼し伏して起つこと能はず。或は屋仆れ壓死し、或は地裂け埋殪(まいえい)す。馬牛は駭奔(がいほん、驚き奔る)し、或は相ひ昇踏す。城(郭)倉庫、門櫓墻壁は頽落(たいらく)顛覆(てんぷく)して其の數を知らず。海口(湾内の港)哮吼し、聲雷霆(らいてい)に似り。驚濤涌潮して泝洄(そかい、さかのぼる)漲長し、 忽ち城下に至る。海を去ること數十百里。 浩々として其の涯諸(がいしよ、各々の果て)を辨ぜず、原野道路は惣じて滄溟(そうめい、あおく広い海)爲り。乘船するに遑(いとま)あらず、山に登るも及び難く、溺死者は千許(ばか)り、資産苗稼(農作物)は殆(ほとん)ど孑遺(げつい、わずかな残り)無し。
(原漢文、嘉穂のフーケモン拙訳)
末ノ松山エ弐丁程間有。奥井、八幡村ト云所ニ有。仙台ヨリ塩竃ヘ行右ノ方也。塩竃ヨリ三十丁程有。所ニテハ興ノ石ト云。村ノ中屋敷ノ裏也。
曾良 「名勝備忘録」
歌枕「沖の石」
末の松山から約200mほど南に向かうと、歌枕「沖の石」(多賀城市八幡二丁目)があります。昔は海中にあったようです。
「沖の石」は次の歌を典拠にして多賀城の八幡に設定された歌枕のようですが、「沖の石」はもともと不特定の普通名詞ということで、越前丸岡の蓑笠庵梨一(1714〜1783)は『奥細道菅菰抄』の中で、「讃岐が歌は、たゞよのつね海洋にある所の石を云。此末の松山の石に限るには非ず。」と記しています。
おきのゐ みやこじま
おきのゐて身をやくよりもかなしきは 宮こしまべのわかれなりけり
小野小町 古今集 巻二十 墨滅歌 1104
寄石恋といへるこころをよめる
わが袖はしほひに見えぬおきの石の 人こそしらねかわくまぞなき
二条院讃岐 千載集 巻十二 戀二 760
仙臺ヨリ塩竃ヘノ道、市川ト云村ヨリ右ノ方ヘ十町程有。多賀ノ社也。式ニ有リ。多賀城ノ東也。今ハ田ノ中也。多賀ノ城ハ古ノ國守館舎也。末ノ松山打コシテ海見ユル也。
曾良 「名勝備忘録」
塩竃の前に浮きたる浮島の 憂きて思ひのある世なりけり
山口女王 新古今集 巻十五 恋哥五 1379
定めなき人の心にくらぶれば たゞうき島は名のみなりけり
源順 拾遺集 卷十九 雜戀 1249
承保三年(1076)、前年に陸奥守に任ぜられ多賀城に赴いた橘為仲(1014?〜1085)は、歌枕として知られた「浮島」を次のように詠んでいます。
陸奥へくたりつきて、浮島にまいりて
いのりつつなほこそたのめ道のおくに しづめ玉ふも浮島のかみ
浮島にまいりたるに、花いとおもしろし
浮島の花みるほどはみちのおくに しづめることもわすられにけり
橘為仲朝臣集
「浮島」は多賀城築地跡の丘陵の東端近くの分譲住宅地の端にある小丘で、頂には塩竃神社の末社の浮島神社(多賀城市浮島一丁目)があります。
芭蕉は「奥の細道」の本文の中には記していませんが、風騒の受領歌人橘為仲の歌に詠まれた「浮島」に立ち寄り、往事を偲んでいます。
曾良 「名勝備忘録」
野田の玉川の右岸を南に下り、砂押川の鎮守橋を渡って民家の中を進むと日蓮宗末松山寶國寺(多賀城市八幡2丁目)があります。
寛平の御時きさいの宮の歌合せのうた
浦ちかくふりくる雪は白波の 末の松山こすかとぞ見る
藤原興風 古今集 巻六 冬歌 326
君をおきてあだし心をわがもたば すゑの松山浪もこえなむ
読み人しらず 古今集 巻二十 東歌 1093
契りきなかたみに袖をしぼりつつ すゑのまつ山浪こさじとは
清原元輔 後拾遺集 巻十四 戀四 770
末の松山浪こゆるといふことは、むかし男女に末の松山をさして、彼(かの)山に浪のこえむ時ぞわするべきと契りけるがほどなく忘れにけるより、人の心かはるをば浪こゆると云ふ也。彼(かの)山にまことに浪のこゆるにあらず。あなたの海のはるかにのきたるには浪の彼(かの)松山のうへよりこゆるやうに見ゆるを、あるべくもなき事なれば、誠にあの浪の山こえむ時忘れむとは契るなり。
清原元輔 「奥義抄」
「末の松山を波が越すということがありえないように、二人の契りも永遠で心変わりしない」という 「奥義抄」での清原元輔の説明です。
貞観11年(869)に多賀城に溺死者千人を超える大津波が襲来したそうですが、標高10m程度の小高い丘の「末の松山」だけは波が越えなかったとの噂が都の人にも伝わり、それが歌枕の故事となったとされているそうです。
実際に、延喜元年(901)に成立した『日本三代実録』(日本紀略、類聚国史一七一)には、この地震に関する記述がいくつか記されています。
五月
廿六日癸未(みずのとひつじ)、 陸奧國地大ひに震動す。流光晝の如く隱(かげ)を映し、之の頃、人民叫呼し伏して起つこと能はず。或は屋仆れ壓死し、或は地裂け埋殪(まいえい)す。馬牛は駭奔(がいほん、驚き奔る)し、或は相ひ昇踏す。城(郭)倉庫、門櫓墻壁は頽落(たいらく)顛覆(てんぷく)して其の數を知らず。海口(湾内の港)哮吼し、聲雷霆(らいてい)に似り。驚濤涌潮して泝洄(そかい、さかのぼる)漲長し、 忽ち城下に至る。海を去ること數十百里。 浩々として其の涯諸(がいしよ、各々の果て)を辨ぜず、原野道路は惣じて滄溟(そうめい、あおく広い海)爲り。乘船するに遑(いとま)あらず、山に登るも及び難く、溺死者は千許(ばか)り、資産苗稼(農作物)は殆(ほとん)ど孑遺(げつい、わずかな残り)無し。
(原漢文、嘉穂のフーケモン拙訳)
末ノ松山エ弐丁程間有。奥井、八幡村ト云所ニ有。仙台ヨリ塩竃ヘ行右ノ方也。塩竃ヨリ三十丁程有。所ニテハ興ノ石ト云。村ノ中屋敷ノ裏也。
曾良 「名勝備忘録」
歌枕「沖の石」
末の松山から約200mほど南に向かうと、歌枕「沖の石」(多賀城市八幡二丁目)があります。昔は海中にあったようです。
「沖の石」は次の歌を典拠にして多賀城の八幡に設定された歌枕のようですが、「沖の石」はもともと不特定の普通名詞ということで、越前丸岡の蓑笠庵梨一(1714〜1783)は『奥細道菅菰抄』の中で、「讃岐が歌は、たゞよのつね海洋にある所の石を云。此末の松山の石に限るには非ず。」と記しています。
おきのゐ みやこじま
おきのゐて身をやくよりもかなしきは 宮こしまべのわかれなりけり
小野小町 古今集 巻二十 墨滅歌 1104
寄石恋といへるこころをよめる
わが袖はしほひに見えぬおきの石の 人こそしらねかわくまぞなき
二条院讃岐 千載集 巻十二 戀二 760
仙臺ヨリ塩竃ヘノ道、市川ト云村ヨリ右ノ方ヘ十町程有。多賀ノ社也。式ニ有リ。多賀城ノ東也。今ハ田ノ中也。多賀ノ城ハ古ノ國守館舎也。末ノ松山打コシテ海見ユル也。
曾良 「名勝備忘録」
塩竃の前に浮きたる浮島の 憂きて思ひのある世なりけり
山口女王 新古今集 巻十五 恋哥五 1379
定めなき人の心にくらぶれば たゞうき島は名のみなりけり
源順 拾遺集 卷十九 雜戀 1249
承保三年(1076)、前年に陸奥守に任ぜられ多賀城に赴いた橘為仲(1014?〜1085)は、歌枕として知られた「浮島」を次のように詠んでいます。
陸奥へくたりつきて、浮島にまいりて
いのりつつなほこそたのめ道のおくに しづめ玉ふも浮島のかみ
浮島にまいりたるに、花いとおもしろし
浮島の花みるほどはみちのおくに しづめることもわすられにけり
橘為仲朝臣集
「浮島」は多賀城築地跡の丘陵の東端近くの分譲住宅地の端にある小丘で、頂には塩竃神社の末社の浮島神社(多賀城市浮島一丁目)があります。
芭蕉は「奥の細道」の本文の中には記していませんが、風騒の受領歌人橘為仲の歌に詠まれた「浮島」に立ち寄り、往事を偲んでいます。
奥の細道、いなかの小道(46)− 大垣(2)
奥の細道、いなかの小道(45)− 大垣(1)
奥の細道、いなかの小道(44)− 種の濱
奥の細道、いなかの小道(43)− 敦賀(2)
奥の細道、いなかの小道(42)− 敦賀(1)
奥の細道、いなかの小道(41)− 福井
奥の細道、いなかの小道(45)− 大垣(1)
奥の細道、いなかの小道(44)− 種の濱
奥の細道、いなかの小道(43)− 敦賀(2)
奥の細道、いなかの小道(42)− 敦賀(1)
奥の細道、いなかの小道(41)− 福井
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