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2012年03月30日

奥の細道、いなかの小道(14)−壺の碑

 奥の細道、いなかの小道(14)−壺の碑

 多賀城碑

 (旧暦3月9日)

 『おくのほそ道』の原文は、章段に分かれておらず、また標題もついておりませんが、一般の本文校訂や注釈書等においては、便宜上章段に分け、標題がつけられています。
 この「壺の碑」の段になって、本文の区切りがまちまちなので、「おやっ?」と思ったら、どうやら次の三通りがあるようです。

 (前略)
 さればこそ風流のしれもの、爰に至りて其実を顕す。
 あやめ草足に結ん草鞋の緒

  (   A   )
かの画図にまかせてたどり行ば、おくの細道の山際に十符の菅有。今も年々十符の菅菰を調て国守に献ずと云り。
  (   B   )
  壷碑 市川村多賀城に有。
 つぼの石ぶみは高サ六尺餘、横三尺計歟。苔を穿て文字幽也。四維国界之数里をしるす。
 (後略)


 (A)で切り、(A)以後を「壺の碑」の章段としているもの

 1. 『日本古典文学大系芭蕉文集』 杉浦正一郎・宮本三郎 
   昭和34年、岩波書店
 2. 『詳考奥の細道』 阿部、『奥の細道講読』 麻生磯次
   昭和36年、明治書院
 3. 『現代語訳対照奥の細道他四編』 麻生磯次
   昭和45年、旺文社〈旺文社文庫〉
 4. 『日本古典文学全集松尾芭蕉集』 井本農一
   昭和47年、小学館
 5. 『芭蕉おくのほそ道』 萩原恭男 
   昭和54年、岩波書店〈岩波文庫〉


 (B)で切り、(B)以後を「壺の碑」の章段としているもの

 1. 『新訂おくのほそ道』 潁原退蔵・尾形仂
   昭和42年、角川書店〈角川文庫〉
 2. 『松尾芭蕉おくのほそ道』 板坂元・白石悌三 
   昭和50年、講談社〈講談社文庫〉
 3. 『おくのほそ道(全訳注)』 久富哲雄
   昭和59年、講談社〈講談社学術文庫〉
 4. 『「おくのほそ道」を読む』 堀切実
   平成5年、岩波書店〈岩波ブックレット〉
 5. 『新編日本古典文学全集松尾芭蕉集②』 井本農一・久富哲雄
   平成9年、小学館
 6. 『おくのほそ道評釈』 
   平成13年、角川書店


 (A)(B)で切り、その間を「十符の菅」等、一つの章段として独立させ、(B)以後を「壺の碑」の章段としているもの

 1. 『定本奥の細道新講』 大藪虎亮
   昭和26年、武蔵野書院
 2. 『新潮日本古典集成芭蕉文集』 富山奏
   昭和53年、新潮社
 3. 『芭蕉自筆奥の細道』 上野洋三・櫻井武次郎
   平成9年、岩波書店


 一 八日 朝之内小雨ス。巳ノ尅ヨリ晴ル。仙臺ヲ立。十符菅・壺碑ヲ見ル。未ノ尅、塩竃ニ着、湯漬など喰。末ノ松山・興井・野田玉川・おもはくの橋・浮島等ヲ見廻リ帰。出初ニ塩竃ノかまを見ル。宿、治兵ヘ、法蓮寺門前。加衛門状添。銭湯有ニ入。
 『曽良随行日記』


 五月八日(陽暦六月二十四日)は、朝から小雨が降っていました。國分町から立町に入った左の角に住む画工北野屋加右衛門が見送りに来て、気仙郡の名産の海苔一包を持参してきました。

 午前十時頃に晴れたので、芭蕉翁一行は仙臺を出立し、加右衛門から贈られた図面を頼りに奥ノ細道と歌枕の「十符の菅」の見物へ向かいました。

 「芭蕉の辻」から東西に走る大手筋を東へ向かい、塩竃街道の出発地点原町から松原街道(塩竃街道の別称で、原町から燕沢までの松並木の美しいあたりを指していう。)を進み、案内村へ至ります。
 
 この村の善應寺の東方、比丘尼坂を上って岩切村に入り、七北田川の今市橋を渡ると、正面の丘陵に曹洞宗の古刹東光寺があります。
 寺の北方の高森山には、奥州留守伊沢氏の岩切城跡がありますが、芭蕉翁一行が訪れたころは、伊達藩の狩り場でした。

 今市ヲ北ヘ出ヌケ大土橋有。北ノツメヨリ六、七町西ヘ行ク所ノ谷間百姓やしきノ内也。岩切新田ト云。カコヒ垣シテ有。今モ国主ヘ十符ノコモアミテ貢ス。道、田ノ畔也。奥ノ細道ト云。田ノキワニスゲ植テアリ。貢ニ不足スル故、近年植ルナリ。是ニモカコヒ有故、是ヲ旧跡ト見テ帰ル者多シ。仙臺ヨリ弐里有。塩カマ松島ヘノ道也。
 曾良「歌枕覚書」


 「十符の菅」とは、真菰で編んだ編み目が十筋ある菰(むしろ)を造る材料の菅(すげ)のことで、岩切の十符谷と呼ばれる集落ががこの菅の産地として知られています。

 十布の菅菰の伝承は、平安後期に成立した短編物語集である 『堤中納言物語』と見られています。
 玉江に刈る真菰にまれ、逢ふこと交野(かたの)の原にある菅菰にまれ、ただあらむを貸したまへ、十布の菅菰な賜ひそ。
 『堤中納言物語』 よしなしごと


 これを受けた様々な古歌が、あまた残されています。

 みちのくの とふのすがごもななふには 君をねさせて みふにわれねん
                                   袖中抄 第十四

 たまさかに 十符の菅薦 かりにのみ くれはよとのに しく物はなし
                                                 
                                   和泉式部続集 275番

 参議左中将教長卿 (恋 二十首)
 君待つと とふのすがごもみふにだに 寝でのみあかす夜をぞ重ぬる
                                   久安百首   275番

 源経信
 水鳥のつららの枕隙もなし むべ冴えけらし十符の菅菰 
                                   金葉集    275番
 
 ねざめする とふのすがごもさえわびて 暁ふかく千鳥鳴くなり
                                   後鳥羽院御集 889番

 鎌倉右大臣
 あやむしろ 緒になすまでに 恋わびぬ 下朽ちぬあらし 十符の菅薦
                                         
                                   夫木和歌集  1310番


  
 壷碑。仙臺より塩釜ヘノ道、市川村ト云(所)ノ屋敷ノ中ヲ右ヘ三四丁田ノ中ヲ行バ、ヒクキ山ノ上リ口二有。仙臺ヨリ三里半程有。市川村ノ上二多賀城跡有。
 曾良「歌枕覚書」


 五月八日(陽暦六月二十四日)、芭蕉翁一行は奥ノ細道を通って、歌枕「十符の菅」の見物を終えると、東光寺門前から塩竃街道を東へ進み、多賀城跡の壺碑(多賀城碑)へ向かいました。

 顕昭云、いしぶみとは陸奥のおくにつぼのいしぶみ有。日本の東のはてと云り。但田村の将軍征夷の時、弓のはずにて石の面に日本の中央のよし書付たれば石文と云と云り。信家の侍従の申しは、石の面ながさ四五丈計なるに文をゑり付たり。其所をつぼと云也。私云、みちの国は東のはてとおもへど、えぞの嶋は多くて千嶋とも云ば、陸地をいはんに日本の中央にても侍るにこそ。
 『袖中抄』


 征夷大将軍坂上田村麻呂(758〜811)が蝦夷征伐の折、弓の弭(はず)で日本の中央であることを書き付けたのが「つぼのいしぶみ」であると、平安末期の歌人藤原顕昭(1130?〜1209?)が『袖中抄』に書き残しています。

 石ノ高サ地ヨリ上六尺五寸余、幅、広所三尺五六寸、セハキ所三尺
 曾良「歌枕覚書」


 奥の細道、いなかの小道(14)−壺の碑

 多賀城碑覆堂

 芭蕉が訪れた時には、「壺碑」は覆堂もなく雨ざらしの状態であったようです。
 その2年後の元禄四年(1691)、常陸国水戸藩主徳川光圀は『大日本史』を編纂する史料を集めるために家臣を奥州に派遣しましたが、多賀城跡の草むらの中に古碑が倒れ放置されていることが報告されました。
 そこで光圀は、仙台藩主伊達綱村に書簡をおくって、水戸藩での修復を申し出ます。
 これを知った綱村は、直ちに多賀城碑を修復し、覆堂を建てて収めたと云います。

 西行
 雜歌  題しらず
 むつのくの おくゆかしくぞ思ほゆる つぼのいしぶみそとの濱風
                                      山家集 
 藤原清輔
 いしぶみや つかろのをちにありときく えそよのなかを思ひはなれぬ
                                      清輔朝臣集  388番
 源頼朝 
 前大僧正慈円、ふみにてはおもふほどの事も申しつくしがたきよし、申しつかはして侍りける返事に  
 陸奥のいはでしのぶはゑぞしらぬ ふみつくしてよ壺の石ぶみ
                                      新古今集  1786番

 
 さて、「壺碑」は様々な古歌には詠まれているものの、所在不明の謎の歌枕であったそうですが、四代藩主伊達綱村の代の寛文年間(1661〜1673)に多賀城址のある市川村で発掘された古碑が「壺碑」と信じられていたようです。

 奥の細道、いなかの小道(14)−壺の碑
 
 碑文には、「この城は神亀元年(724)に按察使兼鎮守将軍の大野朝臣東人が築いたもので、天平寶字六年(762)に参議で東海東山
節度使であった仁部省卿兼按察使鎮守
将軍藤原恵美朝臣朝獦(あさかり)が修造して、ここに碑を建てた。」と云うことが書かれています。

 この碑は、当時の権力者であった藤原仲麻呂(706〜764、恵美推勝)の子朝獦(あさかり、?〜764)を顕彰したもので、朝獦は父仲麻呂の後援のもとに蝦夷地の行政、軍事の全権を掌握し、出羽国の雄勝城、陸奥国の桃生(ものう)城の造営や蝦夷地経営を強力に推進し、また、多賀城の大規模な再建を行っています。

 三八 壺の石ぶみ(宮城)
 名におう壺の石ぶみは、奥州仙臺の東北、多賀城の古跡にあり。即ち仙臺より松島に至るの道筋にして、街道より纔(わず)かに弐丁四十間入り込む所なり。南都の墨屋松井某、享保中(1716〜1735)に道じるしの石を立て、甚だ明白なり。

 往昔(そのかみ)蝦夷王化に服せず、奥州も大半は其種類の有にして、猶其上にも折々襲い来りし比(ころ)、京都より将軍を遣されて是を鎮めらる。これを鎮守将軍といひ、其居所を鎮守府といふ。此多賀城四達の地にして其府也。

 天平寶字六年大野東人(おおののあずまんど)といへる人、多賀城を修理し、此石碑を建て、四方の路程を記し、見雲眞人(みくものもうど)にこれを書かしむ。今に至りては千年に余る古物也。殊に其字体甚だ古雅にして、廣澤が換鵝百談にも称美し置けり。

 多賀城修理の後数百年過ぎて、秀衡、鎮守将軍たりし頃は平泉に居住して、此城は廃し、壺の碑も失せて、鎌倉殿の和歌よみ給ひし此(ころ)は名のみ殘れる趣(おもむき)なり。
 近世、伊達政宗より三代目吉村中将の時、此邊方々と尋求められしに、今の碑を土中より掘出だせりと云ふ。頼朝の時だにも見ることかたきものを、今千年の後に至り、文字も明白に其石少しも損せずして、人々是を見る事誠に不思議の事也。

 碑の体、自然石にて、文字を彫りたる方斗(かたばか)り平かにみがきたり。高さ五六尺、厚さ弐三尺、臺石なし。外に小堂ありて是を覆ひ、四方を格子にして、人のみる様に構へたり。
 石少し赤み帯びて、火をへたるもののやうにも思わる。此碑の事は世上の人普く知る所なればくわしくはしるさず。又或人のいいしは、壺はつぼと読む字にはあらず、音悃(こん)にて、街中の碑を壺碑(こんぴ)と云うと、爾雅(じが)の注にも出でたりと云ふ。いかがあらん。
 (後略)
 『東遊記』 後編 巻之一 橘南


 どうやら、芭蕉翁一行は多賀城碑を「壺碑」と思い込んで、「泪も落つるばかり」の感動を受けたみたい・・・。
 はたして本物の「壺碑」はどこにあったのでしょうか・・?

 また、橘南は先の文章の後半で、
  多賀城の碑に西と云ふ大字あれば、是に対する東の碑有るべき事也。
 と記述し、先に挙げた西行の歌や清輔朝臣の歌は、
  東の壺碑にやと思はる。
 との説を述べています。 なるほどなあ!

 ところで、多賀城は古代の城柵で、創建年代は定かではありませんが、養老年間(717〜724)に完成されたようです。
『續日本記』に多賀柵として記載されているのが文献上の初見とされています。

 『續日本記』は、平安初期に編纂された勅撰史書で、『日本書紀』に続く六国史の第二番目に当たり、菅野真道(741〜814)らが延暦16年(797)に完成させました。文武天皇元年(697)から桓武天皇延暦10年(791)までの95年間の歴史を扱い、全40巻から成ります。編年体、漢文表記で奈良時代の基本史料とされています。

 奈良時代にはここに陸奥国府および鎮守府が置かれ蝦夷地経営の拠点となっていましたが、延暦21年(802)、征夷大将軍坂上田村麻呂(758〜811)が鎮守府を胆沢城(岩手県奥州市佐倉河)へ移した後は国府のみとなり、前九年の役(1051〜1062)、後三年の役(1083〜1087)には、源氏の棟梁八幡太郎義家(1039〜1106)がここを拠点としたそうです。

 政庁の規模は、東西約103m、南北約116mの不正方形で、周囲には幅3m、高さ5mほどの築地が廻り、南辺中央に南門、東辺北寄りに東門、西辺南寄りに西門がそれぞれ位置していたようです。




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Posted by 嘉穂のフーケモン at 17:38│Comments(0)おくの細道、いなかの小道
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