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2017年12月01日

奥の細道、いなかの小道(42)− 敦賀(1)

  

      日野山(比那が嵩)

    (旧暦10月14日)

    漸白根が嶽かくれて、比那が嵩あらはる。あさむづの橋をわたりて、玉江の蘆は穂に出にけり。鶯の関を過て、湯尾峠を越れば、燧が城。かへるやま
    に初鴈を聞て、十四日の夕ぐれ、つるがの津に宿をもとむ。
    その夜、月殊晴たり。「あすの夜もかくあるべきにや」といへば、「越路の習ひ、猶明夜の陰晴はかりがたし」と、あるじに酒すゝめられて、けいの明
    神に夜参す。仲哀天皇の御廟也 。社頭神さびて、松の木の間に月のもり入たる、おまへの白砂霜を敷るがごとし。往昔、遊行二世の上人、大願発起の事
    ありて、みづから草を刈、土石を荷ひ、泥渟をかはかせて、参詣往來の煩なし。古例今にたえず、神前に真砂を荷ひ給ふ。これを「遊行の砂持と申侍
    る」と、亭主のかたりける。
            月淸し遊行のもてる砂の上
    十五日、亭主の詞にたがはず雨降 。
            名月や北国日和定なき


  旧暦八月十三日(陽暦九月二十六日)、福井の隠士等裁宅に二泊した芭蕉は、着物の裾を奇妙な格好にからげた等裁の道案内で、名月(陰暦八月十五日)を求めて越前敦賀に旅立ちました。

  芭蕉翁と等裁は草庵をあとにして、足羽山東麓の北國街道を南下し、福井城下の南の外れ赤坂口を経て、虚空蔵川という小川にかかる玉江二の橋を渡りました。

  現在の福井市花堂、江守、江端一帯は古くから玉江と呼ばれ、江端川が湾曲して流れる排水の悪い湿地帯で、平安のころから蘆の名所でもありました。
  
    後拾遺    夏            源重之
    夏苅の玉江の蘆をふみしたぎ    むれゐる鳥の立つ空ぞなく
    新古今    旅            藤原俊成
    夏刈の蘆の仮寝もあはれなり    玉江の月の明方の空

    後撰    雑四            讀人不知
    玉江こぐ蘆刈小舟さし分けて    たれを誰とかわれは定めん


  玉江二の橋から南下して江端川に架かる玉江橋があり、さらに南下して江端、下荒井、中荒井、今市を経て、朝六ツ川にかかる淺水橋にいたります。淺水は「あそうず」と読み、旧仮名遣いでは「あさむつ・あそむつ」と書き、時刻の「朝六つ」(午前六時頃)と掛け、古来から歌に詠まれてきました。

  また、清少納言の『枕草子』第六十四段(三巻本)には、「橋は、あさむずの橋」とあり、往時は長さ十三間、幅二間あったと云われています。
    阿曾武津の橋        あさむつを月見の旅の明離
        『荊口句帳』  芭蕉翁月一夜十五句


  

      清少納言(菊池容斎・画)

  芭蕉翁と等裁は、あさむつの橋を明離と詠んでいるので、早朝に渡ったと思われ、さらに北國街道を南下して、水落、上鯖江をへて、宿場の南端で右折し、日野川の白鬼女の渡しを舟で渡り、対岸の家久、そこから半里程で武生城下に入りました。

  武生は奈良時代には越前國府が置かれたところで、長徳二年(996)一月、県召除目(地方官を任命する正月の儀式)で、紫式部(生没年不詳)の父藤原爲時(949?〜1429?)は越前守に任ぜられ、夏頃、式部を連れて越前國府武生に赴任しています。

  紫式部は武生での生活は一年余りで、長徳三年冬から翌四年の春頃、藤原宣孝(不詳〜1001)との結婚のために単身帰京しています。
  式部の『源氏物語』「浮舟」には、「たとへ武生の國府にうつろい給うふとも」と、武生の地名が登場しています。

  

     紫式部(菊池容斎・画)

  江戸期には、福井藩家老本田家が越前府中三萬九千石を領し、明治維新まで続いています。

  武生城下の南端常久から北國街道を南下すると、まもなく東方に日野山(標高七九五メートル)が望まれ、その山容から越前富士の別名があります。
        あすの月雨占なハんひなが嶽
          『荊口句帳』  芭蕉翁月一夜十五句


    ○漸白根が嶽かくれて
    白山 越ノ白根トモイフ。越前・加賀・越中・飛騨四ヶ国ヘカカリタル大山ナリ
        『越前名勝志』

    ○比那が嵩
 
        雛が岳、日永岳とも書く。今、日野山という。越前市(旧武生)の南東約五キロ。標高七九五メートル。山上に日永嶽神社があり、飯綱権
        現を祀る。 
    鯖江眺望、雛岳爲最 『越前鯖江志』

    ○あさむづの橋
        歌枕。福井城下の南西、現在の福井市浅水町の浅水川に架かる橋。
   
    あさむつはしのとどろとどろと降りし雨の 古るにし我を だれぞこの 仲人たて 御許のかたち せうそこし(消息し) とぶらいくるや
    さきむだちや
        催馬楽『浅水』

    橋は、あさむずの橋  『枕草子』 第六十四段 三巻本

    淺水橋 世俗に、あさうづといふ所か。
    あさむづの橋は忍びて渡れども    とどろとどろと鳴るぞわびしき
    たれぞこの寝ざめて聞けばあさむづの    黒戸の橋を踏みとどろかす
        『名所方角抄』

    あさむづは、淺生津とも、淺水共書り。今は麻生津と云。福井の南、往還の驛にて、宿の中程に板橋有り。あさふづの橋と云。清少納言が枕草子に、橋
    は、あさむつの橋、と書る名所なり。又黒戸の橋ともいふよし、歌書に見えたり。方角抄、朝むづの橋はしのびてわたれどもとどろとどろとなるぞわび
    しき。又、たれそこのね覚て聞ばあさむつの黒戸の橋をふみとどろかす。
        『奥細道菅菰抄』


    ○玉 江
        歌枕。福井市花堂町付近、あるいは、福井城下と麻生津の間など、諸説有り定かならず。

    麻生津といふ所に江河あり。これを玉江といふ説あり。いかが。尋ぬべし。津の國に同名あり。
        『名所方角抄』

    玉江    沼        摂津    〈嶋上郡 越前同名有〉
    後撰    雜四        玉江漕ぐ蘆刈り小舟さし分けて    たれをたれとか我は定めむ        読人不知
    後拾遺    夏        夏苅りの玉江の蘆を踏みしだき    群れゐる鳥の立つ空ぞなき        源重之
        『類字名所和歌集』


  

        『類字名所和歌集』    玉江

    ○穂に出にけり
        「秀(ほ)に出づ」には、表にあらわれる・人目につくの意があり、それにかけて、蘆の穂の出ているのが目に立ったという意にはたらか
        せている。

    續後拾遺    秋上        たがための手枕にせむさを鹿の    入る野のすすき穂に出でにけり        俊成

    ワキ    あら面白や候。さて葦と蘆とは同じ草にて候か
    シテ    さん候譬へば薄ともいひ。穂に出でぬれば尾花ともいへるが如し
        謡曲『蘆刈』


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Posted by 嘉穂のフーケモン at 16:40Comments(0)おくの細道、いなかの小道