2017年08月28日
奥の細道、いなかの小道(30)− 象潟(2)
貝原九兵衛篤信(號:益軒、1630〜1714)
(旧暦閏7月6日)
益軒忌
『大和本草』『菜譜』『花譜』といった本草書、教育書の『養生訓』『大和俗訓』『和俗童子訓』『五常訓』、紀行文の『和州巡覧記』など、その生涯
に六十部二百七十余巻の著作を残した江戸前期の本草学者・儒学者、筑前福岡藩士貝原九兵衛篤信(號:益軒、1630〜1714)の正徳四年(1714)年
旧暦八月二十七日の忌日。
越し方は一夜ばかりの心地して 八十あまりの夢をみしかな
奥の細道、いなかの小道(29)− 象潟(1)のつづき
十七日 朝、小雨。昼ヨリ止テ日照。朝飯後、皇宮山蚶彌(満)寺へ行。道々眺望ス。帰テ所ノ祭渡ル。過テ、熊野権現ノ社へ行、躍等ヲ見ル。
夕飯過テ、潟へ船ニテ出ル。加兵衛、茶・酒・菓子等持参ス。帰テ夜ニ入、今野又左衛門入来。象潟縁起等ノ絶タルヲ歎ク。翁諾ス。弥三郎低耳、
十六日ニ跡ヨリ追来テ、所々ヘ随身ス 。
『曾良旅日記』
翌六月十七日(陽暦八月二日)、朝の内は小雨でしたが、昼頃には止んで日が射してきました。朝食後、芭蕉翁一行は、皇后山干満珠寺を訪れ、道々の眺望をたのしみました。戻った後、地元の熊野神社の御渡りがあり、その後社に赴き、踊りなどを見物しました。また、夕飯後、今野嘉兵衛が茶・酒・菓子などを持参し、象潟橋の船着き場から納涼をかねて象潟に舟をうかべ、能因島などを訪れています。
遊覧から戻ると、名主今野又左衛門が宿を訪れ、象潟縁起などが絶えたことを嘆き、芭蕉もそれに同情しています。
先能因島に舟をよせて、三年幽居の跡をとぶらひ、
芭蕉が私淑する能因法師(988〜1058頃)の遺跡と云われる能因島は、蚶滿寺の南方約四百米にあった小島で、現在は面積約六百坪の小丘となっています。
いではのくにに、やそしまに行て、三首
よのなかはかくてもへけりきさがたや あまのとまやを我宿にして
島中有神宮蚶方
あめにますとよをかびめにことゝはん いくよになりぬきさがたの神
わび人はとつくにぞよきさきてちる はなのみやこはいそぎのみして
『能因法師集』
能因法師が象潟へ下向した事があることは事実のようですが、三年幽居したことは確認できないようです。平安末期の歌人、従四位下太皇太后宮大進藤原清輔(1104〜1177)が、保元年間(1156〜1159)に著した歌論書『袋草紙』には、以下のような記述があります。
能因實ニハ不下向奧州、爲詠此歌、竊ニ籠居シテ下向奧州之由ヲ風聞云々、二度下向ノ由アリ、於一度者實歟、書八十島記、
『袋草紙』三
「一度に於いては實か、八十島の記を書けり」とのことです。
むかふの岸に舟をあがれば、「花の上こぐ」とよまれし櫻の老木、西行法師の記念をのこす。
象潟の櫻は波に埋もれて 花の上漕ぐあまの釣り船
この歌は西行法師の作としての確証は無いとのこと。しかし、以下に記す様々な記載が残されています。
巳に六江を立て、保呂波山に通夜して、本城の船津を過ぎ、鳥海山の腰を廻る、当山は功名の霊地なれども、いまだ雪深く禅頂の時ならねば、不参
し侍り、漸々蚶象にいり、蚶満寺欄前、湖水を眺望す、向に鳥海山高々と聳、花のうへこぐ蜑の釣船とよみしも、げにとうちゑまるゝ、寺院の伝記
什物見て、西行ざくら木陰の闇に笠捨たり
毛を替ね雪の羽をのす鳥の海
波の梢実のるや蚶が家ざくら
『日本行脚文集』 天和三年の条 大淀三千風
此浦のけしき、櫻は浪にうつり、誠に花の上漕ぐ蜑の釣舟と読しは此所ぞと
『好色一代男』三ノ六 井原西鶴
出羽の國蚶瀉といふ所は、世に隠れなき夕暮のおもしろき海辺なり。汐越の入江々々、八十八潟・九十九森、皆名にある所也。蚶滿寺の前に、古木
の櫻あり。是ぞ花のうへこぐ海士の釣ぶねと、読しむかしを今見て、替る事なし。
『名殘之友』 三ノ五 井原西鶴
花の上漕とよみ給ひけむ古き櫻もいまだ蚶滿寺のしりへに殘りて、陰波を浸せる夕晴、いと涼しければ
ゆふばれや 櫻に涼む波の花 芭蕉
『繼尾集』 潜淵庵不玉撰
江上(こうしょう)に御陵あり。神功皇宮の御墓と云。寺を干滿珠寺と云。此処に行幸ありし事いまだ聞ず。いかなる事にや。
神功皇后は、第十四代仲哀天皇の皇后で、気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)。帝崩御の後、軍を督して三韓を親征(親カラ征ク)、凱旋後應神天皇を生んだと『古事記』『日本書紀』に伝えられる説話的主人公です。
抑〻神功皇后、百済國の夷をしたがへ日の本に軍をかへしおはしますとき波風にはなたれたまひ、此島に暫くうつろひたまひぬとかや。其後、其處
には八幡宮を安置し、今に神々し奉りけるなり。然るに、皇后尋常御肌にいたゞかせ給ふ干滿の二珠によそえ、皇后山干滿寺とはつたへ侍るとか
や。いつのころより、かの蚶の字にはなし侍りけむ、いといぶかし。しかし、此潟に蚶といふ貝あまた侍れば、かくはいへりけるにや。これをさへ
さだかならねば、是非の境をわきまへずなりぬ。世々所にいひふらしたる故実なむかきよせて、
蜑のかるもの跡たゑじと、爰にはしるし侍る也。
『繼尾集』 潜淵庵不玉撰
寺を干滿珠寺と云。
此の寺は、道鏡(700?〜772)の暴戻により新羅にのがれた僧昭機が、神功皇后の霊夢を蒙り、この地にたどり着いて皇后殿蚶方寺を建て、みずから蚶方法師と称したのに始まり、仁寿三年(853)慈覚大師(天台座主円仁)これを再興して蚶滿寺と改称、さらに正嘉元年(1257)八月、鎌倉幕府五代執権北条時頼(最明寺入道)が象潟を訪れて、この地を「四霊の地」と定め二十町歩の寺領を寄進し再興、大伽藍を建立して天台宗より曹洞宗に改め、寺名を干滿寺と改めたと云います。
簾を捲ば、
簾を巻き上げて眺望するの意で、『圓機活法』遊眺門・江樓晴望の大意に「捲レ簾」とあり、詩文に眺望を叙する場合の常套語になっています。
風景一眼の中に尽て
象潟の風景が一望の内に見渡されての意で、『圓機活法』地理門・遠山に、
樓高一望究千里 樓高クシテ一望千里ヲ究ム
同じく『圓機活法』宮室門・樓に、以下のようにあります。
樓高納萬象 樓高クシテ萬象ヲ納ム
蚶滿寺欄前、湖水を眺望ス。向に鳥海山高々と聳え
『日本行脚文集』 天和三年の条 大淀三千風
方丈に簾をあぐれば、巫山の十二峯底に臨み
『繼尾集』 潜淵庵不玉撰
其陰うつりて江にあり
望湖樓下水浮天 望湖樓下水天ニ浮カブ
『聯珠詩格』十一
浪打入る所を汐こしと云。
汐こしは、あら海より象潟へ、潮の往来する川の名にて、橋あり。しほこし橋と名づく。此南北の人家を、汐越町と云て、秋田へ往還の駅宿なり。
『奥細道菅菰抄』蓑笠庵梨一
松島は笑ふが如く、象潟はうらむがごとし。
松島は太平洋に臨んだ開放的で明るい感じであり、象潟は日本海を控えた閉鎖的で暗い感じを述べたものです。
地勢魂をなやますに似たり。
その地のありさまは心に悩みを抱いている美女の姿を思わせるの意で、蘇軾の詩「飮湖上初晴後雨」にいう西施の傷心の姿を連想したものと解されています。 続きを読む