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2017年08月09日

奥の細道、いなかの小道(27)− 羽黒(2)

  
  

  炭太祇(1709〜1771)


  (旧暦閏6月18日)

  太祇忌(不夜庵忌)
  江戸中期の俳人、炭太祇(不夜庵)(1709〜1771)の明和八年(1771)旧暦八月九日の忌日。
  はじめ水國(?〜1734)に師事し、水國が没した後は紀逸(?〜1761)に学び、江戸座の宗匠となった。寛延元年(1748)に太祇と号す。
  宝暦元年(1751)京に上り、紫野大徳寺真珠庵にて仏門に帰依するもほどなく還俗、宝暦四年(1754)、京島原の妓楼桔梗屋主人呑獅(?〜1789)の支援により島原遊郭の中に不夜庵を結んで住み、妓楼の主人や遊女に俳諧を教えた。
  与謝蕪村(1716〜1784)とも親交が厚く、明和俳壇の中心な存在として活躍した。

    足が出て夢も短き蒲団かな
    寝て起きて長き夜にすむひとり哉
    行く程に都の塔や秋の空


  奥の細道、いなかの小道(26)− 羽黒(1)のつづき

  八日、月山にのぼる。木綿しめ身に引きかけ、宝冠に頭を包、強力といふものに道びかれて、雲霧山気の中に氷雪を踏てのぼる事八里、更に日月行道の雲関に入るかとあやしまれ、息絶身こゞえて頂上に臻れば、日没て月顕る。笹を鋪、篠を枕として、臥て明るを待。日出でて雲消れば、湯殿に下る。
  谷の傍に鍛冶小屋と云有。此國の鍛冶、霊水を撰て、爰に潔斎して劔を打、終「月山」と銘を切て世に賞せらる。彼竜泉に釗を淬とかや。干將・莫耶のむかしをしたふ。道に堪能の執あさからぬ事しられたり。岩に腰かけてしばしやすらふほど、三尺ばかりなる櫻のつぼみ半ばひらけるあり。ふり積雪の下に埋て、春を忘れぬ遅ざくらの花の心わりなし。炎天の梅花爰にかほるがごとし。行尊僧正の哥の哀れも爰に思ひ出て、猶まさりて覚ゆ。惣じて、此山中の微細、行者の法式として他言する事を禁ず。仍てて筆をとゞめて記さず。坊に歸れば、阿闍梨の需に依て、三山順礼の句々短冊に書。

   涼しさやほの三か月の羽黒山
   雲の峰幾つ崩て月の山 
   語られぬ湯殿にぬらす袂かな 
   湯殿山錢ふむ道の泪かな      曽 良


  月山を目指した芭蕉翁一行は、木綿(ゆふ)しめという、紙のこよりを麻の代わりに用いて編んだ修験袈裟を襟にかけ、宝冠という白木綿で頭を包み、強力という登山の案内先達に導かれて、雲や霧が立ちこめる山中を氷雪を踏み、標高1984mの山頂目指して登っていきました。旧暦6月8日(新暦7月22日)ころは、夏とはいえ山肌にかなりの残雪の残る時期です。また、当時山駆けをする者は、潔斎中から下山後の精進おろしまで木綿(ゆふ)しめを襟にかけるのが習わしでした。

   〇六日 天気吉。登山。三リ、強清水、二リ、平清水。二リ、高清。是迄馬足叶道(人家、小ヤガケ也)。彌陀原、こや有。中食ス。(是ヨリフダラ、ニ
     ゴリ沢・御濱ナドヽ云ヘカケル也。)難所成。御田有。行者戻リ、こや有。申ノ上尅、月山ニ至。先、御室ヲ拝シテ、角兵衛小ヤニ至ル。雲晴テ來
     光ナシ。夕ニハ東ニ、旦ニハ西ニ有由也。

    『曾良旅日記』

  実際には旧暦六月六日、南谷の別当寺の別院を出立して東へ「お渡り道」を進み、羽黒山の奥の院荒澤寺を経て半合目の傘骨、海道坂が一合目、大満原が二合目で小月山神社があり、ここからは女人禁制でした。ここの掛茶屋では餅やところてん、蕎麦などを売っていたそうです。神子石が三合目で、巫女石とも書き、むかし禁制を破って月山に登ろうとした巫女がここでたちまち石に化してしまったと伝えられている所です。強清水が四合目で、坂の左の岩の間から清水が湧いていました。五合目の狩籠(かりごめ)から右の峰伝いに六合目の平清水へ向かい、急坂の連続後に七合目の合清水(高清水)に着きます。ここから上は馬の乗り入れが禁止されていたので、馬返し小屋と呼ばれていました。

  羽黒山から月山山頂までの登拝路は実際には六里半ほどの道のりながら、古くから「木原三里、草原三里、石原三里」と言われてきました。七合目の合清水まではブナなどの原生林の木原で、八合目の彌陀原からはニッコウキスゲなどの高山植物が群生する草原三里となっています。

  芭蕉翁一行は、彌陀原の中に鎮座する月山神社中之宮(御田原神社)に参拝し、ここで昼食をとりました。御田原神社は体力的にも時間的にも月山山頂に登ることができない人の遙拝所(御田原参籠所)になっていました。

  その後、東の斜面を下りて東補陀落に向かいました。当時は、東補陀落で観音・弥陀・薬師の三尊や立岩の三宝荒神などを拝したのち彌陀原まで戻り、それから月山を目指すのが順路だったそうです。

  


  『曾良旅日記』に「フダラ、ニゴリ沢・御濱」」と記されているのがこの東補陀落で、月山神社中之宮から左へ3㎞程下った「補陀落・濁沢・御濱池」という修験者が峰入修行を行う場所で、絶壁を鉄梯子で下る難所の先に、弁財天を祭る御濱池があります。

  彌陀原まで戻った一行は、月山山頂を目指してさらに登りました。無量坂を越えて九合目の佛水池(ぶすいえ)に至り、さらに進んで登りにかかるところが「行者返し」といわれる急斜面です。
  昔、修験道の開祖とされる役行者(634伝〜701伝)が月山山頂を目指したときに、開祖蜂子皇子(562?〜641?)に仕える除魔童子と金剛童子が現れ、「湯殿山で修行してからでないと月山には登ってはならぬ」と押し戻したところと伝えられています。

  最後になだらかなモックラ坂の岩場を越えると、月山頂上(標高1984m)です。
  芭蕉翁一行は、申ノ上尅(午後3時半ころ)山頂に到着し、まず、豪雪と強風を避けるために石垣に囲まれた御室と呼ばれる月山神社本社に参詣しました。

  月山神社は天照大神の弟神の月読命(つきよみのみこと)を祀っていますが、月山、羽黒山、湯殿山の三つの山の総称である出羽三山は元来、日本古来の自然崇拝の山岳信仰に仏教が習合し、さらには密教などの要素も加味されて成立した「修験道」の霊場でした。

  一行は参詣を終えて、頂上より少し下った角兵衛小屋に泊まることになりましたが、夕刻頃には「日没て月顕る」状況でした。角兵衛小屋は、当時の月山山頂に七軒あった小屋の一つで、五軒が宿泊用、二軒が酒屋と菓子屋だったとされています。

  一行は笹を鋪(しき)、篠を枕として、翌日の御来迎を待ちましたが、残念ながら御来迎は拝めなかったようです。

  月山は、約70万年前から火山活動が始まり、最後に噴火したのは約30万年前で、以前は楯状火山(shield volcano)に分類されていましたが、現在では成層火山(stratovolcano)が侵食や爆発によりなだらかになったものであるという説が有力です。

  ちなみに我々の世代になじみの深い火山の分類法は、ドイツの地理学者カール・シュナイダー(Karl Schneider)が1911年に火山を地形によって分類したものですが、形成過程が全く異なるのに浸食などによって同じような地形になる例が次々と発見されてシュナイダーの分類が現状にそぐわなくなったために、現在では使われていないとのことです。
  例)トロイデ(鐘状火山)、コニーデ(成層火山)、アスピーテ(楯状火山)
    ホマーテ(臼状火山)
  
  また、近年の火山学の発展に伴い過去1万年間の噴火履歴で活火山を定義するのが適当であるとの認識が国際的にも一般的になり、2003年に火山噴火予知連絡会は、「概ね過去1万年以内に噴火した火山及び現在活発な噴気活動のある火山」を活火山と定義し直し、活火山の数は現在111となっています。

  
 

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Posted by 嘉穂のフーケモン at 19:59Comments(0)おくの細道、いなかの小道