さぽろぐ

文化・芸能・学術  |札幌市中央区

ログインヘルプ


スポンサーリンク

上記の広告は、30日以上更新がないブログに表示されています。
新たに記事を投稿することで、広告を消すことができます。  
Posted by さぽろぐ運営事務局 at

2021年06月01日

史記列傳(15)− 穰候列傳第十二

(旧暦4月22日)

光琳忌
江戸中期を代表する画家・工芸家、尾形光琳(1658〜1716)の享保元年の忌日。
幼少の頃より能を嗜み、書画にふれ、琳派の祖と言われる俵屋宗達(生没年不詳)に私淑し、弟の乾山(1663〜1743)と共にその作風を継承し発展させた。
代表作に、国宝風神雷神図(寛永年間中頃、建仁寺蔵、京都国立博物館寄託)および源氏物語関屋及び澪標図(寛永八年頃、静嘉堂文庫蔵)などがある。





国宝風神雷神図(寛永年間中頃、建仁寺蔵、京都国立博物館寄託)

河山を苞み、大梁を囲み、諸侯をして劍手して秦に亊へしむる者は、魏冄(ぎぜん)の功なり。よりて穰候列傳第十二を作る。

黄河と周辺の山地を苞みこみ、魏の首都大梁を包囲して、諸侯を手も出させずに秦にひれ伏せたのは、魏冄(ぎぜん)の功績である。そこで、穰候列傳第十二を作る。
(太史公自序第九十一)


穰候魏冄(ぎぜん)、その先祖は楚の人で、姓は羋(び)氏、秦の第二十八代昭王(在位:前306〜前251)の母宣太后の弟でした。秦の第二十七代武王(在位:前311〜前306)が若くして歿すると、後継ぎの男子が無かったため、異母弟の昭王が立てられました。昭王は年少で即位したため、宣太后が摂政となって政事を行い、弟の魏 冄に政務を任せました。

昭王の二年(前305)、武王の庶出の長子である壮が、大臣・諸侯・公子と結び、僣立して季君と号しましたが、魏冄が壮を誅殺ししてこの乱(季君之乱)を平定し、壮と結んだ武王の母の惠文后は憂死し、武王の正室の悼武王后は故国の魏に放逐されています。

昭王の七年(前300)、秦の第二十六代惠王(在位 前338〜前311)の弟にして、第二十七代武王(在位:前311〜前306)には右丞相、その次の昭王(在位 前306〜前251)には将軍として仕え、魏の曲沃(山西省臨汾縣)をはじめ、趙、楚を伐って功績があった樗里子(?〜前300)が死にました。そして昭王の同母弟の涇陽君を齊へ人質に出しました。

昭王の十年(前297)、趙の人樓緩(ろうくわん)が秦に来て宰相となりました。しかし趙はこれを自国の不利になると考え、仇液(きうえき)という者を遣わせて、樓緩を罷免して魏冄を宰相とするように請いました。果たして秦はこれを受け入れ、昭王の十二年(前295)に魏冄は宰相となりました。

昭王の十四年(前293)、魏冄は白起(?〜前257)を推挙して将軍となし、韓・魏を攻めてその軍勢を伊闕(河南省洛陽市の南)に破り、首を斬ること二十四萬、魏の将軍公孫喜を捕虜としました。
昭王の十六年(前290)、魏冄は穰(河南省鄧州市)に封じられ、更に陶(山東省菏沢市定陶区)の地を益し封じられて、穰候と称せられました。

穰候に封ぜられた四年後、魏冄は秦の将軍となって魏を攻めました。魏は河東(山西省の黄河以東の地域)の地四百里(約160㎞)四方を秦に献上しました。
また、魏冄は魏の河内(河南省の黄河以北の地域)を攻略して、大小六十余の城を奪い取りました。
魏冄は復た秦の宰相となりましたが、六年後に罷免され、二年でまた秦の宰相となっています。それから四年して、白起(?〜前257)に楚の郢(楚の都、湖北省江陵県)を攻略させ、秦はそこに南郡を置き、白起を封じて武安君としました。そのころ、穰候の財産は、王室よりも豊かでした。

昭王の三十二年(前275)、穰候は相國に任ぜられ、白起に続いて魏の討伐を命ぜられます。魏冄は兵を率いて魏を攻撃し、魏の将軍芒卯(ばうばう)を敗走させ、北宅(河南省鄭州市西方)に侵攻し、更に進んで魏の都大梁(河南省開封市)を包囲します。

そこで、魏の重臣である須賈(しゆか)は穰候魏冄に説きます。

【魏の大夫須賈が穰候魏冄による大梁の包囲を解かせた言説】

私は、魏の重臣が魏王にこのように言ったと聞いています。

①昔、魏の惠王(在位:前370〜前335)が趙を攻撃し、三梁(河南省臨汝県の西南)にて戦勝し、趙の都邯鄲(河北省邯鄲市)を攻略しましたが、趙は魏に領地を割譲しなかったで、邯鄲もまた趙に返還されました。

②齊が衛を攻撃し、旧都楚丘(河南省滑県の東)を攻略して宰相の子良(しりやう:子之)を殺しましたが、衛は齊に領地を割譲しなかったので、楚丘もまた衛に返還されました。

③衛・趙が国家を保って軍を強くし、領地を他の諸侯に閉合されないでいる理由は、困難に耐えて領地を他国に与えることに慎重であったからであります。
 
④それに対して、宋(前286年に、齊・魏・楚によって滅ぼされた)・中山(前295年に、趙・齊・燕によって滅ぼされた)は、しばしば攻撃されて領地を割譲し、まもなく国家も滅亡しました。

⑤臣は思うに、衛・趙は手本とすべきであり、宋・中山は戒めとすべきであります。

⑥秦は貪欲な国で、親愛の情はありません。魏の国土を蚕食し、元の晉国の領土を全て奪い取りました。韓の将軍の暴鳶(ばうえん)と戦って勝ち、魏の八県を割譲させました。そしてその領地が完全に引き渡される前に、また出兵しています。秦という国は、領地を拡張するのに満足するということがありましょうか。今、また将軍芒卯(ばうばう)を敗走させ、北宅(河南省鄭州市西方)に侵入しました。これは魏の都を攻略しようとしているのではなく、魏王を脅して少しでも多くの領地を割譲させようとしているのです。

⑦魏王は決して秦の言い分を聞き入れてはいけません。今、魏王が楚・趙に背いて秦と講和したならば、楚・趙は怒って魏との同盟から去り、魏王と競って秦に服従するでありましょう。すると秦は必ず、楚・趙を受け入れる事でありましょう。

⑧秦が楚・趙の軍勢を味方にして再び魏を攻撃したならば、国が滅びないように願ったとしても適うことではありません。

⑨魏王が決して秦と講和することの無きようにお願いしたい。もし魏王が講和したいとのぞむのであれば、土地はなるべく少なく割譲して、秦から人質を取るべきであります。そうしなければ、必ず秦に欺かれる事でありましょう。


これは、私が魏で聞いたことです。どうかこの話を考慮していただきたい。

『書経』周書に、「惟(こ)れ命は常に于(おい)てせず」(天の与えた運命は一定しない)とあります。

これは、「幸運は何度も巡ってくるものではない」ということを言っているので
す。そもそも韓の将軍暴鳶(ばうえん)との戦いに勝って、魏の八県を割譲させたのは、兵力が精鋭であったからではなく、また、作戦が巧妙であったからでもありません。天の与えた幸運によるところが大きいのです。今また、将軍芒卯(ばうばう)を敗走させ、北宅(河南省鄭州市西方)に侵入し、都大梁(河南省開封市)を攻撃しています。これは、天の与える幸運が常に自分の側にあると思っておられるからです。智者はそのようなことはしません。

私は次にように聞いております。
「魏は、その百県から、鎧を身につけられる程の者は、全て集めて大梁を守っている」と。




私が思いますに、その数は三十万は下らないでしょう。三十万の兵力で都大梁の七仞(3.6m)もの高さの城壁を守っているのです。

湯王(夏の桀を倒し、殷王朝を建てた)、武王(殷の紂を倒し、周王朝を建てた)が生き返ってとしても、容易には攻め落とせないでしょう。

楚・趙の軍が背後にいるのを気にもとめず、七仞(3.6m)もの高さの城壁を超えて、三十万もの軍勢と戦って、必ずこれを攻略しようとしているのです。

臣以為(おもへ)らく、天地始めて分かれてより以て今に至るまで、未だ嘗て有らざる者也。攻めて而も拔けずば、秦の兵必ず罷(つか)れ、陶邑(たういふ:領地)必ず亡びん。則ち前功必ず棄たれん。

今、魏は迷っています。多少の領地を割譲させて事態を収拾することはできるでしょう。

願はくは君、楚、趙之兵未だ梁に至らざるに逮(およ)びて、亟(すみ)やかに少しく割くを以て魏を收めよ。魏、方(まさ)に疑へるに、少しく割くを
以て利と爲すを得ば、必ず之を欲せん。則ち君の欲する所を得ん。


また楚、趙は、魏が自分たちより先に秦と講和したのを怒って、必ず先を争って秦に従うはずです。よって、合従の同盟(秦に対抗するための、南北に連なる
韓、魏、趙、燕、楚、齊の六国の連合)はばらばらになるでしょう。

あなたは、その後で連衡する国を檡(えら)べば良いでしょう。そしてまた、あなたが領地を得るのに、必ずしも戦いによらなければならなかったということ
はないでしょう。晉の領土を割こうとしたときは、秦の兵が攻めなくとも、魏は絳(かう:山西省曲沃県)、安邑(あんいふ:山西省運城県)をさし出し、ま
た、陶(山東省菏沢市定陶区)への二つの道を開きました。そして、宋の領土をほぼ手に入れ、衛は單父(ぜんぽ:山東省単県)をさし出しました。

秦の兵は、全てあなたが掌握しています。従って、求めて適わないものはありません。

願はくは君之を熟慮して、危きことを行ふこと無かれ。

穰候は魏の重臣である須賈の言説を取り入れ、魏の首都大梁(河南省開封市)の包囲を解きます。

翌年、魏は秦に背き、齊と合従の同盟を結びました。秦は穰候をして魏を伐たしめました。首を斬ること四万、魏と同盟を結んでいる韓の将軍暴鳶(ばうえ
ん)を敗走させ、魏の三県を得ました。その結果、穰候は領地を増し与えられています。
さらに翌年、穰候は将軍白起と客卿の湖陽とともにふたたび趙、韓、魏を攻め、魏の将軍芒卯(ばうばう)を華陽(陝西省商県)の城下に破り、首を斬るこ
と十万、魏の巻(河南省原武県の西北)、蔡陽(湖北省棗陽県の西南)、長社(河南省長葛県の西)、趙の観津(河北省武邑県の東南)を取りました。
  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 00:03Comments(0)史記列傅

2019年07月04日

國立故宮博物院(10)-江行初雪圖


    

        Originally entitled Yankee Doodle, this is one of several versions of a scene painted by A. M. Willard that came to be known as The Spirit of '76. Often imitated or parodied, it is a familiar symbol of American patriotism        

    Independence Day
    Independence Day is a federal holiday in the United States commemorating the Declaration of Independence of the United States on July 4, 1776. The Continental Congress declared that the thirteen American colonies were no longer subject (and subordinate) to the monarch of Britain and were now united, free, and independent states. The Congress had voted to declare independence two days earlier, on July 2, but it was not declared until July 4.

      (旧暦6月2日)

    

    『江行初雪圖』


    絹本、縱:25.9公分、橫:376.5公分。是五代南唐畫家趙幹唯一傳世的作品、卷首有南唐李後主以金錯刀 書:「江行初雪畫院學生趙幹狀」、本幅描繪 
    初冬江南水景、旅人策蹇、漁夫打漁謀生的生活細節、具有鮮明的江南區域畫風、在性質上則屬於風俗畫。這一件重要的南唐遺珍、在北宋初屬私人收 
    藏、後入內府、為『宣和畫譜』著錄。後收入元朝內府及清朝內府、是件流傳有緒的精品、目前收藏於國立故宮博物院。
    《維基百科》


    絹本、縱:25.9cm、橫:376.5cm。五代南唐(937〜975)の画家、趙幹(生卒年不詳)の唯一伝わる作品。卷首には、南唐の後主(最後の皇
    帝)李煜(LǐYù : 937〜978)が金錯刀の書法をもって書いた「江行初雪畫院學生趙幹狀」の書き込みがある。

    本幅は初冬の江南の水辺の風景、旅人の策蹇(驢馬を急がせる様子)、漁夫の網を打ち生計を営む生活の様子が描かれ、鮮明な江南地方の画風を備え
    て、性質上風俗画に属している。

    この一幅は重要な南唐の遺宝で、北宋(960〜1127)の初め、私人の收蔵に属し、後に内府(朝廷)に入り、為に『宣和畫譜』(北宋第八代皇帝徽宗の
    宣和内府の収蔵絵画の著録)に記録されている。


    後に元朝の内府(朝廷)に収められ、清朝の内府(朝廷)に及んでいる。この画は、長く伝わったえり抜きの作品で、現在、國立故宮博物院に収蔵され
    ている。
        『嘉穂のフーケモン拙訳』



    

        『江行初雪圖』巻首

    中国五代南唐(937〜975)の画家趙幹(生没年不詳)は、江寧(今の南京)の人で、南唐の後主(最後の皇帝)李煜(LǐYù : 在位961〜975)の時代、画院の学生であり、山水、林木、人物を描くのを得意としていました。

    描くのは全て江南の風景で、塔楼、舟楫(しゅうしゅう:舟と楫)、水村、漁市、花や竹を散りばめて、「煙波浩渺、風光明媚(もやの立ちこめた水面が広々と遙かなさまで、自然の眺めが清らかで美しい)」な山水の美しい眺めを表現して最も独創的と評価されています。

    『江行初雪圖』の長さ3m57.5㎝の長巻に描かれたのは、江南の冬景色の中、驢馬に跨がり風に吹き飛ばされまいと笠に手をやる旅人、寒さに背を屈めて荷物を運ぶ供の人、岸辺では四つ手網で漁に励む漁師達。描かれた人物達の寒そうな姿は、本格的な冬の到来を予見させます。

    

        『江行初雪圖』

    雪に舞う淡い初雪を描くのに、趙幹は弾粉という技法を使ったと解説されています。筆に白い絵の具を含ませて、弓の弦ではじいて粉雪を散らしました。しかし、あまりにも淡すぎて、画像ではよく見ることができないようです。

    『江行初雪』は川辺で厳しい寒さに耐えながら漁をする漁師の姿を描いている。淡墨で絹地を染め、そこに白粉の雪が散らしてある。寒林枯木はいずれ
    も中鋒円筆、屈鉄盤糸(はっきりと輪郭線を描いてから色を塗る画法)の如く力強い。木の幹は乾筆皴染(筆を磨りつけ掠れた筆遣い)により描かれ、
    後人の皴山に似て自然と陰陽向背(遠近感)が表現されている。蘆の穂は赭墨を用いて一筆で描かれ、実に創意に富んでいる。低く盛り上がった中州と
    斜面の裾は淡墨で塗りつぶされ皴紋はなく、いずれも後人の画法と異なる趣がある。押された印章を見ると、宋、元、明、清各朝内府と個人が収蔵した
    ことがわかり、流伝の歴史を有する名品である。
        (文・胡賽蘭)


    

    『宣和畫譜    巻十一』    

    趙幹、江南人。善畫山林泉石、亊僞主李煜爲畫院學生、故所畫皆江南風景、多作樓觀、舟船、水村、漁市、花竹、散爲景趣、雖在朝市風埃間、一見便如
    江上、令人褰裳欲涉而問舟浦漵間也。今御府所藏九
        春林歸牧圖一    夏山風雨圖四
        夏日玩泉圖一    煙靄秋涉圖一
        冬晴漁浦圖一    江行初雪圖一
        『宣和畫譜    巻十一』


    趙幹は江南の人なり。山林泉石の畫を善くし、僞主李煜に亊(つか)へ畫院學生の爲、故に畫く所は皆江南の風景なり。多く樓觀、舟船、水村、漁市、
    花竹を作す。景趣(けいしゅ:おもむき)の爲に散じ、朝市に在りと雖も風埃の間、一見便(すなは)ち江上の如く、人をして裳(しゃう:スカート)
    を褰(かかげ)て涉らんと欲せしめ、而して舟、浦漵(ほじょ:船溜まり)を問ふの間也。今、御府の所藏は九なり。
        春林歸牧圖一    夏山風雨圖四
        夏日玩泉圖一    煙靄秋涉圖一
        冬晴漁浦圖一    江行初雪圖一
        『嘉穂のフーケモン拙訳』


    『宣和畫譜』は、北宋末、徽宗皇帝(在位:1100〜1026)が在位していた頃の宮廷秘府に所蔵されていた作品、古今の画家二百三十人余を、道釋(道教と仏教)・人物・宮室・番族(民族)・龍魚・山水・畜獣・花鳥・墨竹・蔬菜の十のジャンルに分類し、その略歴とともに画業に関する評価を記し、のべ六千三百点余に及ぶ作品を登録した書です。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 20:52Comments(0)国立故宮博物院

2019年07月02日

書(22)— 空海(1)— 風信帖

 

   (旧暦5月30日)

    

        【風信帖】


    【風信帖】
    風信雲書自天翔臨

    披之閲之如掲雲霧兼

    惠止観妙門頂戴供養
    不知攸厝已冷伏惟

    法體何如空海推常擬

    隨命躋攀彼嶺限以少

    願不能東西今思与我金蘭

    及室山集會一處量商仏

    法大事因縁共建法幢報
    仏恩徳望不憚煩勞蹔

    降赴此院此所々望々忩々

    不具    釋空海状上
  
                      九月十一日

    東嶺金蘭    法前 

                      謹空

    風信雲書、天より翔臨す。
    之を披(ひら)き之を閲(けみ)するに、雲霧を掲ぐるが如し。
    兼ねて止観の妙門を惠せらる。頂戴供養し、
    厝(お)く攸(ところ)を知らず。已に冷ややかなり。
    伏して惟(おもん)みるに、法體(ほつたい)何如(いかん)。
    空海 推(うつ)ること常なり。
    命に隨ひ彼の嶺に躋攀(せいはん)せんと擬(はか)るも、
    限るに少願を以てし、東西すること能はず。今、我が金蘭
    及び室山と一處に集會(しふゑ)し、
    仏法の大事因縁を商量し、共に法幢(ほふどう)を建て
    仏の恩徳に報ぜんことを思ふ。望むらくは煩勞を憚らず、
    蹔(しばら)く此の院に降赴(かうふ)せよ。此れ望む所望む所。忩々(そうそう)
    不具    釋空海    状を上(たてまつ)る。
                       九月十一日

    東嶺金蘭    法前
     
                      謹空


    風の便り、雲の様な美しい書が天より舞い降りました。
    その様な貴方様からの手紙を開きこれを読むと、雲霧が晴れる心地がします。
    併せて摩訶止観を贈られました。頂き御仏に捧げております。
    これについては、身の置き所も無いくらい恐縮しております。
    このところは気候も寒くなり貴方様の御身はお変わりございませんでしょうか。
    私、空海はあいも変わらずです。最澄様の招請により比叡山に躋攀(せいはん:登る)したいのですが、忙しく行くことが出来ません。今、私と我が親しい最澄様と室生寺の僧侶とひとつの所に集まり仏の教えの大切な所、その因果関係をよく考え皆で仏法を宣揚し、仏の恩に報いようと思います。私の望む所は労苦を厭わず、貴方様が私の寺院に暫く逗留していただきたい。私はそれを望みます。私はそれを望みます。
    不具(気持ちを十分に述べ尽くしていないの意)
    釋(僧)空海が状(書状)を奉る。
                   九月十一日
    友の御前に
             謹空(此処からは貴方を敬い白紙で残しておきます。)


    「風信帖」の名で知られる弘法大師空海(774〜835)の書蹟は、正式には「弘法大師筆尺牘三通」として国宝に指定されています。

    「尺牘(せきとく)」とは、漢文体の手紙のことで、 尺は一尺、牘(とく)は文字を書いた方形の木札のことを指し、一尺ほどの木簡または竹簡に手紙を書いたことから手紙の意で使われるようになり、漢代には書簡一般を指すものとなっていました。

    「弘法大師筆尺牘三通」は、弘法大師空海(774〜835)が傳教大師最澄(767〜822)に宛てた「尺牘」三通の総称であり、三通とも日付はあるが年紀がなく、弘仁元年(810)から弘仁三年(812)まで諸説あようです。

    弘法大師空海(774〜835)は、本朝の書道史上、能書の最も優れた三筆[空海、嵯峨天皇(786〜842)、橘逸勢(782?〜842)]の一人に数えられていますが、「弘法大師筆尺牘三通」の一通目の出だしが「風信雲書」で始まることから「風信帖」と通称されています。二、三通目もその出だしから「忽披帖」「忽恵帖」と呼ばれています。

    

        弘法大師空海像(774〜835)


    この書は代々、比叡山延暦寺に伝わりましたが、南北朝時代(1336〜1392)の文和四年(1355)、現在の京都市南区九条町にある真言宗の総本山東寺の御影堂に奉納され、その時の寄進状も附として国宝の一部となっています。
    南北朝時代(1336〜1392)は弘法大師信仰が盛んになった時代で、東寺御影堂に空海の書を寄進しようという動きが広まり、比叡山延暦寺から本主良瑜(1333〜1397)によって寄進されそうです。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 16:59Comments(0)

2019年06月19日

漢詩(33)− 曹操(1)- 歩出夏門行


  

    太宰治(1909〜1948) 1946年、銀座のBAR「ルパン」にて(林忠彦氏撮影)

  桜桃忌
  昭和23年6月19日、作家太宰治が戦争未亡人の愛人山崎富栄と東京三鷹の玉川上水に入水して、その遺体が発見された日で、その日は太宰の誕生日でもあったことから、「桜桃忌」と呼ばれるようになった。「桜桃忌」の名前は桜桃の時期であることと晩年の作品『桜桃』に因むもので、この日は三鷹市の禅林寺で供養が行われている。

  (旧暦5月17日)

  『歩出夏門行』は、後漢(25〜220)の末期、建安十二年(207)の秋八月、後の魏の武帝曹操(155〜220)が、宿敵袁氏に味方する蹋頓(?〜207)ら烏桓族二十数万を北方の白狼山(遼寧省カラチン左翼モンゴル族自治県)で破った時に作ったものとされています。

  『歩出夏門行』は、(艶)、(觀滄海)、(冬十月)、(土不同)、(龜雖壽)からなり、(艶)はこの組詩の原因、背景、心情が書かれた序言にあたるとされています。

  (艶)

  雲行雨步             雲を行き雨を步み
  超越九江之皐      九江(江西省)之皐(かう:岸辺)を超越す
  臨觀異同             臨みて異同を觀る
  心意懷遊豫         心意は遊豫(いうよ:ためらい)を懷(いだ)く
  不知當復何從      知らず復た何に從ふか
  經過至我碣石      經過して我 碣石(けつせき:河北省東境の山)に至り
  心惆悵我東海      心は惆悵(ちうちやう)し 我 東海(東海郡)に

    


    『南屏山昇月』(月岡芳年『月百姿』)  赤壁を前にする曹操


  曹操は当初、南征して荊州(湖北省一帯)の劉表(142〜208)を伐つか、それとも北伐して烏桓を討つかで心が揺れていたようです。
  曹操の部下も、南方の劉表を伐つか北方の烏桓を討つかで意見が分かれていました。
 
  曹操が北方の烏桓を討てば、南方の劉表が機に乗じて劉備(161〜223)に曹操の拠点許昌(河南省)を攻撃させる恐れがあり、南方荊州の劉表を伐てば、烏桓が機に乗じて反撃してくるだろうと危惧されていました。

  結局、曹操は軍師郭嘉(170〜207)の進言を入れて、北方烏桓の北西に出陣します。

  將北征三郡烏丸、諸將皆曰、「袁尚、亡虜耳、夷狄貪而無親、豈能爲尚用。今深入征之、劉備必說劉表以襲許。萬一為變、事不可悔。」惟郭嘉策表必不能任備、勸公行。
  《三國志 魏書 武帝紀 建安十二年 》


  將に三郡(漁陽郡、右北平郡、雁門郡)の烏丸(烏桓)を北征せんとするに、諸將皆曰く、「袁尚は亡虜(逃亡した捕虜)耳(のみ)、夷狄は貪すれども親む無し。豈(あに)尚(袁尚)の爲に能く用いん。今深く入りて之を征せば、劉備必ず劉表を說きて以て許(許昌)を襲わん。萬一變為らば、事悔むべからず。」と。
  惟だ郭嘉のみ策するに表(劉表)は必ず備(劉備)を任ずること能はず、公に行くを勸む。
  《嘉穂のフーケモン拙訳》


  夏五月、至無終。秋七月、大水、傍海道不通、田疇請爲郷導、公從之。引軍出盧龍塞、塞外道絕不通、乃壍山堙谷五百餘里、經白檀、歷平岡、涉鮮卑庭、東指柳城。未至二百里、虜乃知之。尚、熙與蹋頓、遼西單于樓班、右北平單于能臣抵之等、將數萬騎逆軍。八月、登白狼山、卒與虜遇、衆甚盛。公車重在後、被甲者少、左右皆懼。公登高、望虜陳不整、乃縱兵擊之、使張遼為先鋒、虜衆大崩、斬蹋頓及名王已下、胡、漢降者二十餘萬口。
  《三國志 魏書 武帝紀 建安十二年 》


    

    幽州略図

  夏五月、無終(天津市)に至る。秋七月、大水、傍の海道通ぜず、田疇(169〜214)郷導(道案内)の爲に請け、公(曹操)之に從ふ。軍を引ゐて盧龍塞を出ずるも、塞外の道は絕へて通ぜず、乃ち山を壍(ほ)り谷を堙(ふさ)ぐこと五百餘里、白檀(河北省)を經、平岡(内モンゴル自治区)を歷し、鮮卑の庭を涉り、東へ柳城(遼寧省朝陽市)を指す。

  未だ二百里に至らざるに、虜(胡虜)乃之を知る。尚(袁尚)、熙(袁熙)と蹋頓、遼西單于樓班、右北平單于能臣抵之等は、數萬騎の逆軍を將す。八月、白狼山に登り、卒與(突然)として虜に遇ふ。衆は甚だ盛なり。公(曹操)の車重は後に在り、甲(かぶと)を被(かぶ)る者は少く、左右皆懼(おそ)れり。公(曹操)は高み登り、虜の陳(陣列)の整はざるを望むや、乃ち縱兵(出兵)して之を擊ち、張遼をして先鋒と爲すや、虜衆は大いに崩れ、蹋頓及名王已下を斬り、胡、漢の降者は二十餘萬口(人)たり。
  《嘉穂のフーケモン拙訳》
  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 21:14Comments(0)漢詩

2018年01月10日

奥の細道、いなかの小道(46)− 大垣(2)

        (旧暦11月24日)

  


    奥の細道、いなかの小道(45)− 大垣(1)のつづき

    旧暦八月二十一日(陽暦十月十四日)、芭蕉翁と八十村路通は大垣に到着しました。芭蕉翁は三月二十七日(旧暦)に江戸深川の芭蕉庵を出立してから百四十二日、六百里(約二四○○キロ)の「おくのほそ道」の旅を終えて、貞享元年(1684)十月、『野ざらし紀行』の際に初めて宿泊した元大垣藩士近藤如行邸に、再び草鞋を脱ぎました。芭蕉翁の到着が遅れて待ちわびた大垣の門弟たちがぞくぞくと如行邸に集まって大歓迎をしました。

    出迎えたのは、大垣藩詰頭三百石津田前川、宮崎荊口(通称太左衛門、大垣藩御広間番、百石)、長男此筋(当時十七歳)、次男千川(幼名才治郎)、三男文鳥(幼名與三郎)らでした。また親しき人々は、高岡斜嶺(通
称三郎兵衛、大垣藩士、二百石)、その弟高宮怒風(大垣藩士)、淺井左柳(通称源兵衛、大垣藩士、百五十石)らでした。 

    芭蕉の来訪当時、大垣の俳諧は大垣藩十万石第四代藩主戸田采女正氏定(1657〜1733)の文教奨励によって、大垣藩士らを中心に盛んでした。芭蕉が大垣俳壇に新風を吹き込み、これを契機に「芭風」俳諧は美濃一帯に広がり、以後、美濃俳壇として基礎が確立されたとされています。

    芭蕉は大垣滞在中、近藤如行邸で長旅の疲労回復に努めつつも、谷木因邸や高岡斜嶺邸などを訪れて句を詠み、歌仙を巻いていますが、詳しい動静については伝わっていません。
    まず、芭蕉は谷木因の隠居宅に招かれました。木因は貞享三年(1686)暮れ、家督を息子に譲り、翌貞享四年に剃髪、浄土宗圓通寺の北側(大垣市西外側町一丁目)に隠居宅を構えていました。
    谷木因(通称九太夫)は、船町湊の廻船問屋の主人でしたが、早くから俳諧を嗜み、延寶二年(1674)頃に北村季吟(1625〜1705)に学び、芭蕉と同門となっています。

  


      谷木因(1646〜1725)

    北村季吟(1625〜1705)は、はじめ貞門七俳人の一人である俳人安原貞室(1610〜1673)、ついで松永貞徳(1571〜1654)について俳諧を学び、俳書『山之井』の刊行で貞門派俳諧の新鋭といわれました。飛鳥井家第十五代当主飛鳥井雅章(1611〜1679)、霊元院歌壇の中心的な歌人の一人清水谷実業(1648〜1709)に和歌、歌学を学んだことで、『土佐日記抄』、『伊勢物語拾穂抄』、『源氏物語湖月抄』などの注釈書をあらわし、元禄二年(1689)には歌学方として五百石にて子息湖春(1650〜1697)と共に幕府に仕えています。以後、北村家が幕府歌学方を世襲しています。

  


      北村季吟(1625〜1705)

    以来、芭蕉と木因は親交を結び、木因に大垣来訪を請われ、貞享元年十月、初めて大垣を訪れています。今回の大垣は、三度目の訪問でしたが、『おくのほそ道』本文には、木因の名が記されていません。
    初め木因を通じて芭蕉の指導を受けていた大垣藩士も、参勤交代で江戸勤番となると直接芭蕉から指導を受けていたといいます。

    芭蕉は高岡斜嶺邸にも遊び、
 
            戸を開けばにしに山有。いぶきといふ。花にもよらず、雪にもよらず、只これ弧山の徳あり
        其まゝよ月もたのまじ伊吹山


と詠んでいます。

    芭蕉は旧暦七月二十九日、山中温泉で如行宛に書簡を送り、
  
            如行様           はせを
        みちのくいで候て、つゝがなく北海のあら礒日かずをつくし、いまほどかゞの山中の湯にあそび候。中秋四日五日比爰元立申候。つるがのあた
        り見めぐりて、名月、湖水若みのにや入らむ。何れ其前後其元へ立越可申候。嗒山丈、此筋子、晴香丈御傳可被下候。以上
            七月廿九日


とあって、大垣の門人達は芭蕉と名月を観るのを楽しみにしていましたが、芭蕉が大垣に着いたのは、望月を幾夜か過ぎた更待(陰暦二十日夜の月)の頃になってしまいました。そこで芭蕉は遅れての到着を、取りあえず斜嶺を通して大垣の門人達に詫びる心が、伊吹山を望む地への挨拶にしたと解されています。

    如行邸に宿泊しているとき、芭蕉の旅の疲労を癒やさせようとした如行は、門人で鍛冶職人の竹戸に頼んで芭蕉の按摩をさせました。この竹戸の按摩を芭蕉は非常に気に入り、そのお礼に出羽國最上の人から贈られた紙衾に「紙衾ノ記」の文を添えて、竹戸に与えています。

            紙衾ノ記       芭蕉翁
        古きまくら、古きふすまは、貴妃がかたみより傳へて、戀といひ哀傷とす。錦床の夜のしとねの上には、鴛鴦(ゑんあう)をぬひ物にして、ふ
        たつのつばさに後の世をかこつ。かれはその膚(はだへ)に近く、そのにほひ殘りとゞまれらんをや、戀の一物とせん、むべなりけらし。いで
        や、此紙のふすまは、戀にもあらず、無常にもあらず。蜑の苫屋の蚤をいとひ、驛(うまや)のはにふのいぶせさを思ひて、出羽の國最上といふ
        所にて、ある人のつくり得させたる也。越路の浦々、 山館野亭の枕のうへには、二千里の外の月をやどし、蓬・もぐらのしきねの下には、霜
        にさむしろのきりぎりすを聞て、昼はたゝみて背中に負ひ、三百余里の険難をわたり、終に頭をしろくして、みのゝの國大垣の府にいたる。な
        をも心のわびをつぎて、貧者の情を破る亊なかれと、我をしとふ者にうちくれぬ 。
            『和漢文操』各務支考編(享保十二年刊)


    芭蕉から紙衾を贈られた竹戸は感激し、
        首出してはつ雪見はや此衾
と詠んで、芭蕉の厚意に応えています。また、これを羨んだ曾良は、
            題竹戸之衾
        畳めは我が手のあとぞ紙衾
            『芭蕉七部集』「猿蓑」巻之一 冬

と詠んでいます。

  

    旧暦八月二十八日(陽暦十月十一日)、如行邸で養生につとめていた芭蕉は、中山道赤坂宿の北、金生山の中腹にある真言宗明星輪寺を参詣しました。明星輪寺は朱鳥元年(686)、修験道の開祖役小角(634伝〜701伝)が第四十一代持統天皇の勅願により創建したと伝えられ、伊勢朝熊山金剛証寺、京都嵯峨野法輪寺とともに三大虚空蔵の一つに数えられ、本尊は役小角自ら岩に刻んだという虚空蔵菩薩で、秘仏として本堂岩窟の奥に安置されています。

            赤坂の虚空蔵にて八月廿八日        奥の陰
        鳩の聲身に入わたる岩戸哉        はせを


    赤坂宿は中山道の重要な宿場町で、慶長十年(1605)三月の徳川秀忠(1579〜1632)上洛や文久元年(1861)十月の皇女和宮降嫁の際の宿泊に利用されています。和宮降嫁の際には、本陣を初め一般の民家も多くが増改築して「お嫁入り普請」といわれ、現在でもその時の町並みが色濃く残されていると云います。
    宿場町のほぼ中央に残る豪壮な邸宅が、木因の門弟であった矢橋木巴邸で、芭蕉は貞享五年(1688)六月七日、二度目に大垣を訪れた際、木巴邸に宿泊したと考えられ、今回の虚空蔵参詣の帰途木巴邸に立ち寄り、宿泊したかもしれないと云います。


  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 20:09Comments(0)おくの細道、いなかの小道

2018年01月09日

奥の細道、いなかの小道(45)− 大垣(1)

 

       (旧暦11月22日)

  

      大垣  『奥の細道畫巻』 与謝蕪村筆


  「奥の細道、いなかの小道」の旅も、平成十九年(2007)年五月十二日に深川の芭蕉庵を出立して以来、十年八ヶ月の歳月を要して、ようやく目的地大垣にたどり着きました。

    露通もこのみなとまで出でむかひて、みのゝ國へと伴ふ。駒にたすけられて大垣の庄に入れば、曾良も伊勢より來り合、越人も馬をとばせて、如行が
    家に入り集まる。前川子・荊口父子、その外したしき人々日夜とぶらひて、蘇生のものにあふがごとく、且悦び、且いたはる。旅の物うさもいまだやま
    ざるに、長月六日になれば、伊勢の遷宮おがまんと、又舟にのりて、 
            蛤のふたみにわかれ行く秋ぞ


    ○露通
        本姓は斎部伊紀(1649〜1783)。芭蕉入門は貞享二年(1685)初夏のことと推定され、その十餘年以前から乞食放浪の境涯にあり、大津松
        本の辺りで『徒然草』の辻講釈のようなことをやっていたとされている。

    火桶抱てをとがひ臍をかくしけり 路通。此作者は松もとにてつれづれよみたる狂隠者、今我隣庵に有。俳作妙を得たり
            『元禄元年十二月五日付尚白宛芭蕉書簡』


        路通は貞享五年(1688)の春東下して深川の芭蕉庵の隣庵に一年餘逗留し、芭蕉から草庵の侘会における妙作を絶賛されたが、芭蕉の北國
       行脚と前後して、ふたたび流浪の旅に立っている。路通はその後、元禄四年(1691)の『猿蓑』撰集前後から同門間に不評を買い、芭蕉からも
        勘気をを受けて、一時蕉門から遠ざかったが、元禄七年(1694)夏には三井寺の定光坊實永のとりなしで勘気を許し、門人達にも路通の身の立
        つように斡旋したりしている。

        九月四日
        一桃青亊〈門弟ハ、芭蕉ト呼〉如行方ニ泊リ所勞昨日ゟ本腹之旨承ニ付種々申他所者故室下屋ニ而自分病中トいへとも忍ニ而初而招之對顔其
        歳四拾六生国ハ伊賀之由路通と申法師能登之方ニ而行連同道ニ付是ニも初而對面是ハ西國之生レ近年ハ伊豆蠅嶋ニ遁世之軆ニ而住メル由且又文
        字〈虫〉之才等有之ト云云歳三拾ゟ内也兩人咄シ種〻承之多ハ風雅の儀ト云云如行誘引仕り色々申と云へとも家中士衆ニ先約有之故暮時ゟ歸リ
        申候然共兩人共ニ發句書殘自筆故下屋之壁ニ張之謂所
            こもり居て木の實草の實拾ハはや              芭蕉
            御影たつねん松の戸の月                         自分
            思ひ立旅の衣をうちたてゝ                        如行
            水さハさハと舟の行跡                              伴柳
            ね所をさそふ鳥はにくからす                      路通
            峠の鐘をつたふこからし                            闇加
        是迄ニ而路通發句
            それそれにわけつくされし庭の秋                路通
            ために打たる水のひやゝか                         自分
            池ノ蟹月待ツ岩にはい出て                        芭蕉
        是迄奥州之方北國路ニ而名句とおほしき句共數多雖聞之就中頃日伊吹眺望といふ題にて
            そのまゝに月もたのまし伊吹山                    芭蕉
            おふやうに伊吹颪の秋のはへ                     路通  
        尾張地之俳諧者越人伊勢路之素良兩人ニ誘引せられ近日大神宮御遷宮有之故拝ミニ伊勢之方へ一兩日之内におもむくといへり今日芭蕉軆ハ布裏
        之本綿小袖〈帷子ヲ綿入トス 墨染〉細帯ニ布之編服路通ハ白キ木綿之小袖數珠を手ニ掛ル心底難斗けれとも浮世を安クみなし不諂不奢有様也
                『戸田如水日記』 


   

      『如水日記』 九月四日の条

        ○大垣の庄
            美濃大垣藩第四代藩主戸田采女正氏定(1657〜1733)十萬石の城下。大垣付近には中世において、大井、大榑(おおくれ)、小泉、
            郡戸などの庄があったが、「大垣の庄」という庄名はないので、擬古的(昔の風習・様式などをまねること)な呼称としてこのように
            呼んだものと解されている。

        ○越人
            本姓は越智十蔵(1656〜不詳)、別號、負山子、槿花翁。北越の生まれ。延寶初年頃から名古屋に出て、蕉門の代表的な撰集七部十二
            冊をまとめた俳諧七部集の一つ『冬の日』の連衆野水 (呉服商)の世話で染物屋を営む。芭蕉への入門は貞享元年(1684)頃か。貞享三
            年(1686)刊の『春の日』の連句に初出、また発句九句を寄せた。
            貞享四年(1686)、芭蕉に従い三河保美に罪を得て隠栖する杜國を訪ね、貞享六年(1688)には芭蕉の『更科紀行』の旅に随行して
            東下し、江戸深川の芭蕉庵に逗留すること数月、其角、嵐雪ら蕉門の徒と風交を重ねる。

            ちなみに杜國は名古屋御薗町の町代、富裕な米穀商であったが、倉に実物がないのに有るように見せかけて米を売買する空米売買の延
            べ取引きに問われ、貞亨二年八月十九日に領国追放の身となって畠村(三河国渥美郡畑村)に流刑となり、以後晩年まで三河の国保美
            に隠棲している。

        尾張十藏、越人と號す。越路の人なればなり。栗飯・柴薪のたよりに市中に隠れ、二日つとめて二日遊び、三日つとめて三日あそぶ。性、 
        酒をこのみ、醉和する時は平家をうたふ。これ我友なり。
                二人見し雪は今年もふりけるか        芭蕉


  越人が江戸深川の芭蕉庵に逗留した貞享六年(1688)の冬、芭蕉が草したこの句文は、越人の人となりと芭蕉の越人に寄せる親愛感を表し
ているとされている。

 越人が名古屋より「馬をとばせて」芭蕉を大垣に迎えたのは、貞享四年(1686)の『笈の小文』の旅以来の交情によるもので、『曾良旅日記』九月三日の条には、「豫ニ先達而越人着」とあるところから、越人の大垣着は三日ないしはそれ以前のことと考えられている。

        ○三日 辰ノ尅、立。乍行春老へ寄、及夕、大垣ニ着。天気吉。此夜、木因ニ会、息弥兵へヲ呼ニ遣セドモ不行。予ニ先達而越人着故、コレハ
            行。
                『曾良旅日記』

 
  以後越人は、『特牛』(こというし)(元禄三年)によれば、俳諧の点者として生活したもののごとく、俳諧七部集のひとつ『ひさご』には乞われて序を寄せるなど俳壇的地位を確立し、『うらやまし思ひ切る時猫の戀』の『猿蓑』入集句が芭蕉の賞賛を買ったことが『去來抄』に見える。

  各務支考(1665〜1731)の『削りかけの返事』には、元禄四年秋、八十村路通(1469頃〜1738頃)を誹謗して芭蕉の不快を買ったことを伝え、森川許六(1656〜1715)の『歴代滑稽傳』には、「勘当の門人」の一人に数えているが、芭蕉が元禄七年夏の西上の際、越人らに再会して旧交を温めていることから、芭蕉の越人に対する交情は終生変わらなかったものと見られている。

       ○如行
            近藤如行(不詳〜1706)、大垣藩士。早くに致仕して、自適の境涯に入ったと見られている。貞享元年もしくはそれ以前の蕉門への入
            門と推定され、また稿本『如行子』により、貞享四年(1687)から五年に 掛けての『笈の小文』の際の尾張での芭蕉との交歓が知ら
            れる。元禄三年六月三十日付曲翠宛芭蕉書簡によると、如行は元禄三年夏には京に芭蕉を訪れ、幻住庵に同行して二泊しており、芭蕉
            没後には追善集『後の旅』を手向けている。如行の名は森川許六(1656〜1715)の「同門評判」にも挙げられ、寶賀轍士の『花見車』
            によれば、点者として立ってもいたらしく、大垣俳壇においては谷木因と並ぶ中心的存在であった。


  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 09:27おくの細道、いなかの小道

2017年12月08日

奥の細道、いなかの小道(44)− 種の濱

 
  

      Lennon performing in 1964.

    ジョンレノン忌 (Lennon's day)
    昭和五十五年(1980)、ビートルズの中心メンバーだったジョン・レノン(John Winston Ono Lennon、1940〜1980)がニューヨークの自宅アパ
    ート前で熱狂的なファン、マーク・チャプマン(Mark David Chapman、1955〜)にピストルで撃たれて死亡した忌日。


    (旧暦10月21日)

    〈種の濱〉
    十六日、空霽(はれ)たれば、ますほの小貝ひろはんと種(いろ)の浜に舟を走す。海上七里あり。天屋何某といふもの、破籠・小竹筒などこまやかに
    したゝめさせ、僕あまた舟にとりのせて、追風時のまに吹き着きぬ。濱はわづかなる海士の小家にて、侘しき法花寺あり。ここに茶を飲、酒をあたゝめ
    て、夕ぐれのさびしさ、感に堪たり。
            寂しさや須磨にかちたる濱の秋 
            浪の間や小貝にまじる萩の塵
    其日のあらまし、等栽に筆をとらせて寺に殘。


  芭蕉が色の濱に赴いた理由は、敬慕して止まない西行法師(1118〜1190)の詠んだ歌、
    汐染むるますほの小貝拾ふとて    色の濱とはいふにやあるらん        山家集  巻下    1194
に魅せられ、それが色の濱を訪ねる動機となったとされています。

  芭蕉が拾おうとした「ますほの小貝」は、色の濱の海岸で採れるという赤い色をした小さな貝の意で、学名は「チドリマスオ(Donacilla picta)」と云い、長さ五〜十ミリ、厚さ三ミリ程の小さな貝です。

  

    チドリマスオ(Donacilla picta)

  さて、敦賀を訪れた芭蕉翁一行を歓待した天屋は、本姓を室五郎右衛門と云い、敦賀で廻船問屋を営む豪商で、俳号を玄流の他に点屋水魚と称し、当時の敦賀俳壇の中心的な存在でした。

  天屋五郎右衛門が準備させた「破籠」は一種の弁当箱で、白木の折り箱の内側に仕切りを入れ、被せ蓋を付けた入れ物です。

  また、「小竹筒」は『広辞苑』には、「小筒、竹筒酒(ささえさけ)を入れて携帯する竹筒。竹小筒(たけささえ)」とあります。

  色の濱には陸路がなく、当時は陸の孤島と云われ、舟便だけが頼りでした。
  芭蕉が訪ねた「法花寺」とは本隆寺のことで、もとは金泉寺と称した曹洞宗の永嚴寺(敦賀金ヶ崎)の末寺でした。

  應永三十三年(1426)八月、摂津尼崎本興寺の日隆上人が、生国の越中からの帰途、河野浦(南越前町河野)で舟に乗り敦賀へ渡ろうとしたとき、暴風雨に遭って色の濱へ流されてしまいました。

  当時、色の濱の集落では疫病が流行して村民が苦しんでいたので、日隆上人が海岸の岩に座って一心不乱に祈祷したところ、奇跡的に疫病が平癒したと云います。このため、喜んだ村民達は日隆上人に帰依し、金泉寺を本隆寺と改名し、日蓮宗に改宗したと云います。日隆上人は本隆寺の開祖となり、当時の金泉寺住持も日蓮宗に改宗し、本隆寺二世となりました。

  芭蕉翁一行は本隆寺に宿泊し、等裁(洞哉)が筆を執って「其日のあらまし」を記した「芭蕉翁色ヶ濱遊記」を本隆寺に残しています。

    ○ますほの小貝
        若狭湾特産の二枚貝で、あさりを小さくしたような形の直径五ミリから十ミリ程度の小貝。「ますほ」は真赭(まそほ)の転で、赤色を云う。

        汐染むるますほの小貝拾ふとて    色の濱とはいふにやあるらん        山家集  巻下    1194        西行法師


    ○海上七里
    一 九日 快晴。(中略)カウノヘノ船カリテ、色浜へ趣。海上四リ。戌刻、出船。夜半ニ色へ着。クガハナン所。塩焼男導テ本隆寺へ行テ宿。
            『曾良旅日記』

        曾良の日記にもあるように、実際の距離は二里強。
  
        あそび來ぬふく釣かねて七里迄
        鰒釣らん李陵七里の波の雪
            『野ざらし紀行』 貞享元年(1684)


  

    富春江嚴子陵埀釣處

    芭蕉が、「海上七里」と言ったのは、後漢の嚴光(字は子陵、前39〜41)が俗塵を避けていたという「七里瀬」「七里灘」の故事を心に置いての
    表現かと捉えられている。

    後漢の初代皇帝光武帝(前6〜57)の学友嚴光(字は子陵、前39〜41)は、光武帝即位の後、姓名を変えて身を隠していたが、澤中に釣をしているとこ
    ろを見いだされ、長安に招聘された。その後、諫議大夫に推挙されたがこれを受けず、富春山(浙江省富陽県)に隠棲して耕作や釣りをして暮らし、
    その地で没した。嚴光が釣りをしていた釣臺七里瀬(桐廬県の南、富春江の湖畔)は「嚴陵瀬」と名づけられ、隠棲を象徴する場所として、盛唐から中
    唐以降、しばしば詩人の作品に取り上げられている。

  
     
      嚴子陵釣臺周邊地圖
      

    嚴光の釣臺を詩中に詠み込んだのは、南朝宋の康樂侯謝靈運(385〜433)が最初とされている。謝靈運は、魏晉南北朝時代を代表する詩人で、山水を
    詠じた詩が名高く、「山水詩」の祖と云われている。

    下記の詩「七里灘」は、謝靈運が永嘉太守(浙江省温州)に左遷され、任地に赴く途中、富春江を遡っていた時に詠まれたものとされている。此の
    時、謝靈運は左遷の失意の中で、嚴光の釣臺から『莊子』外物篇の「任公子」へと思いを馳せ、時代は異なっても、自分は彼らのような隠者と調べを同
    じくするのだと結んでいる。

    任公子は先秦の人、巨大な釣り針と糸を用意し、これに五十頭の牛を餌につけ、東海に竿を垂れ、やがて巨大魚を釣り上げたという故事。

        七里灘            謝靈運
        羈心積秋晨    晨積展遊眺
        孤客傷逝湍    徒旅苦奔峭
        石淺水潺湲    日落山照曜
        荒林紛沃若    哀禽相叫嘯
        遭物悼遷斥    存期得要妙
        既秉上皇心    豈屑末代誚
        目睹嚴子瀨    想屬任公釣
        誰謂古今殊    異代可同調


        羈心は秋晨に積り    晨に積りて遊眺を展ばさんとす
        孤客は逝湍を傷み    徒旅は奔峭に苦しむ
        石浅くして水は潺湲(せんたん)たり    日落ちて山は照曜す
        荒林紛として沃若たり    哀禽相い叫嘯す
        物に遭いて遷斥を悼み    期を存し要妙を得たり
        既に上皇の心を秉(と)り    豈末代の誚(そし)りを屑(いさぎよし)とせんや
        目のあたり厳子が瀬を睹(み)て    想いは任公の釣に属す
        誰か謂う古今殊(こと)なると    異代も調べを同じくす可し


    

        任公子

    任公子、大鈎巨緇を爲(つく)り、五十犗(かい、去勢された牛)、以て餌と為し、会稽に蹲(うづくま)り、竿を東海に投じ、旦旦にして釣る。期年
    にして魚を得ず。已にして大魚之を食らい、巨鈎を牽いて、陥没して下り、驚揚して鬐(ひれ)を奮う。白波は山の若く、海水は震蕩し、声は鬼神に侔
    (ひと)しく、千里に憚嚇(たんかく)す。任公子、若(こ)の魚を得て、離(さ)きて之を腊(ほしじ)にす。淛河以東、蒼梧已北、若(こ)の魚に
    厭(あ)かざる者莫(な)し。
        『莊子』外物篇


  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 11:27Comments(0)おくの細道、いなかの小道

2017年12月03日

奥の細道、いなかの小道(43)− 敦賀(2)

  
  

      気比の松原

    (旧暦10月16日)

    奥の細道、いなかの小道(42)− 敦賀(1)のつづき

  旧暦八月十四日(陽暦九月二十七日)、芭蕉翁と等裁一行は今庄宿の旅籠を出立し、敦賀へ向かいました。今庄宿の西側に聳える藤倉山から東へ突きだした支脈、愛宕山(標高二七○メートル)の山頂に燧ヶ城跡があります。
  壽永二年(1183)、木曾義仲(1154〜1184)が追討してきた平家の軍勢を迎え撃つため、仁科太郎守弘らに命じて愛宕山山頂に築かせたのが燧ヶ城です。

  『源平盛衰記』(第二十八巻)には、
    抑此城と云は、南は荒乳の中山を境て、虎杖崩能美山、近江の湖の北の端也。塩津朝妻の浜に連たり。北は柚尾坂、藤勝寺、淵谷、木辺峠と一也。東は
    還山の麓より、長山遥に重て越の白峯に連たり。西は海路新道水津浦、三国の湊を境たる所也。海山遠打廻、越路遥に見え渡る、磐石高聳挙て、四方の
    峯を連たれば、北陸道第一の城郭也。

とあります。
  その山麓は、日野川と鹿蒜川の合流点で、木曾方は石や木材で川を堰き止め、人造湖上の城を造り上げたと言います。

  

        燧ヶ城趾地形図

  

        燧ヶ城縄張


  壽永二年(1183)四月、木曾義仲(1154〜1184)を追討すべく、平家方は小松三位中将平維盛(1160〜1184)を総大将とする十万騎の大軍を北陸道へ差し向け、越前、加賀の在地反乱勢力がこもる燧ヶ城を攻撃しました。

  義仲は越後國府に本陣を敷き、仁科太郎守弘、林六郎光明ら六千餘騎で燧ヶ城を守り、さらに平泉寺(越前勝山)の長吏斎明威儀師(受戒、法令を指揮する僧)も一千餘騎で助勢しました。
  しかし、援軍の長吏斎明威儀師の平家方への寝返りにより、日野川の堰を切った平家方は一斉に攻撃を開始して燧ヶ城は落城し、義仲方は越中国へ後退を余儀なくされました。
  燧ヶ城は交通の要衝を押さえた城であったため、南北朝期の延元元年(1336)には今庄入道浄慶が居城し、足利方の府中城(旧武生)に居城する越前守護職足利(斯波)高経(1305〜1367)に属して、建武四年/延元二年(1337)越前杣山城の新田義貞(1300頃〜1338)を攻めています。

  戦国期の天正三年(1575)の織田信長(1534〜1582)による越前征伐に際しては、下間筑後法橋頼照(1516〜1575)ら一向一揆勢が立て籠もって抵抗しましたが敗れ、次いで天正十一年(1583)の賤ヶ岳の合戦の折りには、主将柴田勝家(1522〜1583)自らがここを守っています。

    燧ヶ城    義仲の寝覚の山か月かなし
        『荊口句帳』    芭蕉翁月一夜十五句


  右手の燧ヶ城跡の麓を通り過ぎると街道は二股に分かれ、左へ行くと板取宿、栃の木峠を経て北國街道(東近江路)の木之本宿に達します。芭蕉翁一行は右へ向かい、奈良期の官道、北陸道(萬葉の道)を進んで、歌枕で知られた「歸る山」に至りました。
    藤原定家                『拾遺愚草』
    春ふかみこしぢに雁の歸る山    名こそ霞にかくれざりけれ


  「歸る山」は特定の山の名称ではなく、「京へ歸ると歸る山」の掛詞で、この辺り一帯の山が「歸る山」であると解されています。

    越の中山    中山や越路も月ハまた命
        『荊口句帳』    芭蕉翁月一夜十五句


    新古今集    巻十    羈旅                西行法師
    年たけてまた越ゆべしと思ひきや    命なりけり小夜の中山


  萬葉の道は鹿蒜川に沿って西進し、新道で右折すると北陸道(西近江路)となり、山中峠(標高三八九メートル)に至ります。平安期以前は、奈良、京都から北陸、東北へと向かう北陸道は、この山中峠を越えていたと云います。近江から若狭湾と琵琶湖を隔てる野坂山地を越えて松原驛(敦賀市)に達した北陸官道は、樫曲、越坂、ウツロギ峠と坂道を上り下りして、五幡、杉津を経て大比田、元比田へと進み、山中峠を越えて鹿蒜驛に至りました。この驛は、旧鹿蒜村大字歸(南越前町南今庄)に比定されています。

    可敝流廻(かへるみ)の道行かむ日は五幡の    坂に袖振れ我れをし思はば
    可敝流未能    美知由可牟日波    伊都波多野    佐可尓蘇泥布礼    和礼乎事於毛波婆
        『萬葉集』    巻十八        大伴家持    (4055)

  「可敝流」は、鹿蒜川流域の地とされています。 
  さて、先ほどの新道を左折して緩やかな坂道を登っていくと、二ツ屋宿場に至ります。この街道は、平安初期の天長七年(830)に、木の芽峠を開削して作られたと云います。これ以前の山中峠越えの道は、敦賀湾沿いに大きく迂回し、途中に水路を含み、距離が長く時間のかかる行程でした。木の芽峠の新北陸道が開通すると。時間の短縮になり、多くの旅人が利用しました。また、二ツ屋宿は、江戸期には大いに栄えたと云います。

  二ツ屋宿から杉木立の中の道を進むと、木の芽峠(標高六二六メートル)に至ります。峠への登り坂は、天正六年(1578)、北庄城主柴田勝家(1522〜1583)が整備したと云われ、現在もすり減った石畳の道が残り、茅葺き屋根の茶屋前川家があります。前川家は、平将軍平貞盛(未詳〜989)の後裔といわれ、代々茶屋番や山廻り役をつとめたと云います。
 
  木の芽峠道を下ると、半刻程で新保の集落に至り、ここから葉原、越坂、樫曲、谷口、井川、舞崎を経て、敦賀の津内に至ります。

  


  旧暦八月十四日(陽暦九月二十七日)夕刻、芭蕉翁と等裁一行は敦賀に到着し、唐仁橋町の旅籠出雲屋彌市郎宅に草鞋を脱ぎました。

  敦賀は昔、角鹿(つぬが)と呼ばれ、『日本書紀』には第十四代仲哀天皇がその后の神功皇后とともに、この地の笥飯宮(けいのみや)を造営したという記述があるので、古くから湊として栄えていたようです。また、白砂青松の海岸線が広がる「気比の松原」は、遠州三保の松原、肥前唐津虹の松原とともに日本三大松原の一つにも数えられています。
    國々の八景更に氣比の月
        『荊口句帳』    芭蕉翁月一夜十五句


  出雲屋で休息した芭蕉翁一行は、旅籠のあるじ出雲屋彌市郎に勧められて氣比神宮の夜参りに出かけました。あるじから、氣比神宮に代々受け継がれている「遊行の砂持ち」のいわれを聞いた芭蕉は、
    なみだしくや遊行のもてる砂の露        はせを
と詠みましたが、「おくのほそ道」本文では、
    月淸し遊行のもてる砂の上                はせを
と推敲しています。
  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 10:46Comments(0)おくの細道、いなかの小道

2017年12月01日

奥の細道、いなかの小道(42)− 敦賀(1)

  

      日野山(比那が嵩)

    (旧暦10月14日)

    漸白根が嶽かくれて、比那が嵩あらはる。あさむづの橋をわたりて、玉江の蘆は穂に出にけり。鶯の関を過て、湯尾峠を越れば、燧が城。かへるやま
    に初鴈を聞て、十四日の夕ぐれ、つるがの津に宿をもとむ。
    その夜、月殊晴たり。「あすの夜もかくあるべきにや」といへば、「越路の習ひ、猶明夜の陰晴はかりがたし」と、あるじに酒すゝめられて、けいの明
    神に夜参す。仲哀天皇の御廟也 。社頭神さびて、松の木の間に月のもり入たる、おまへの白砂霜を敷るがごとし。往昔、遊行二世の上人、大願発起の事
    ありて、みづから草を刈、土石を荷ひ、泥渟をかはかせて、参詣往來の煩なし。古例今にたえず、神前に真砂を荷ひ給ふ。これを「遊行の砂持と申侍
    る」と、亭主のかたりける。
            月淸し遊行のもてる砂の上
    十五日、亭主の詞にたがはず雨降 。
            名月や北国日和定なき


  旧暦八月十三日(陽暦九月二十六日)、福井の隠士等裁宅に二泊した芭蕉は、着物の裾を奇妙な格好にからげた等裁の道案内で、名月(陰暦八月十五日)を求めて越前敦賀に旅立ちました。

  芭蕉翁と等裁は草庵をあとにして、足羽山東麓の北國街道を南下し、福井城下の南の外れ赤坂口を経て、虚空蔵川という小川にかかる玉江二の橋を渡りました。

  現在の福井市花堂、江守、江端一帯は古くから玉江と呼ばれ、江端川が湾曲して流れる排水の悪い湿地帯で、平安のころから蘆の名所でもありました。
  
    後拾遺    夏            源重之
    夏苅の玉江の蘆をふみしたぎ    むれゐる鳥の立つ空ぞなく
    新古今    旅            藤原俊成
    夏刈の蘆の仮寝もあはれなり    玉江の月の明方の空

    後撰    雑四            讀人不知
    玉江こぐ蘆刈小舟さし分けて    たれを誰とかわれは定めん


  玉江二の橋から南下して江端川に架かる玉江橋があり、さらに南下して江端、下荒井、中荒井、今市を経て、朝六ツ川にかかる淺水橋にいたります。淺水は「あそうず」と読み、旧仮名遣いでは「あさむつ・あそむつ」と書き、時刻の「朝六つ」(午前六時頃)と掛け、古来から歌に詠まれてきました。

  また、清少納言の『枕草子』第六十四段(三巻本)には、「橋は、あさむずの橋」とあり、往時は長さ十三間、幅二間あったと云われています。
    阿曾武津の橋        あさむつを月見の旅の明離
        『荊口句帳』  芭蕉翁月一夜十五句


  

      清少納言(菊池容斎・画)

  芭蕉翁と等裁は、あさむつの橋を明離と詠んでいるので、早朝に渡ったと思われ、さらに北國街道を南下して、水落、上鯖江をへて、宿場の南端で右折し、日野川の白鬼女の渡しを舟で渡り、対岸の家久、そこから半里程で武生城下に入りました。

  武生は奈良時代には越前國府が置かれたところで、長徳二年(996)一月、県召除目(地方官を任命する正月の儀式)で、紫式部(生没年不詳)の父藤原爲時(949?〜1429?)は越前守に任ぜられ、夏頃、式部を連れて越前國府武生に赴任しています。

  紫式部は武生での生活は一年余りで、長徳三年冬から翌四年の春頃、藤原宣孝(不詳〜1001)との結婚のために単身帰京しています。
  式部の『源氏物語』「浮舟」には、「たとへ武生の國府にうつろい給うふとも」と、武生の地名が登場しています。

  

     紫式部(菊池容斎・画)

  江戸期には、福井藩家老本田家が越前府中三萬九千石を領し、明治維新まで続いています。

  武生城下の南端常久から北國街道を南下すると、まもなく東方に日野山(標高七九五メートル)が望まれ、その山容から越前富士の別名があります。
        あすの月雨占なハんひなが嶽
          『荊口句帳』  芭蕉翁月一夜十五句


    ○漸白根が嶽かくれて
    白山 越ノ白根トモイフ。越前・加賀・越中・飛騨四ヶ国ヘカカリタル大山ナリ
        『越前名勝志』

    ○比那が嵩
 
        雛が岳、日永岳とも書く。今、日野山という。越前市(旧武生)の南東約五キロ。標高七九五メートル。山上に日永嶽神社があり、飯綱権
        現を祀る。 
    鯖江眺望、雛岳爲最 『越前鯖江志』

    ○あさむづの橋
        歌枕。福井城下の南西、現在の福井市浅水町の浅水川に架かる橋。
   
    あさむつはしのとどろとどろと降りし雨の 古るにし我を だれぞこの 仲人たて 御許のかたち せうそこし(消息し) とぶらいくるや
    さきむだちや
        催馬楽『浅水』

    橋は、あさむずの橋  『枕草子』 第六十四段 三巻本

    淺水橋 世俗に、あさうづといふ所か。
    あさむづの橋は忍びて渡れども    とどろとどろと鳴るぞわびしき
    たれぞこの寝ざめて聞けばあさむづの    黒戸の橋を踏みとどろかす
        『名所方角抄』

    あさむづは、淺生津とも、淺水共書り。今は麻生津と云。福井の南、往還の驛にて、宿の中程に板橋有り。あさふづの橋と云。清少納言が枕草子に、橋
    は、あさむつの橋、と書る名所なり。又黒戸の橋ともいふよし、歌書に見えたり。方角抄、朝むづの橋はしのびてわたれどもとどろとどろとなるぞわび
    しき。又、たれそこのね覚て聞ばあさむつの黒戸の橋をふみとどろかす。
        『奥細道菅菰抄』


    ○玉 江
        歌枕。福井市花堂町付近、あるいは、福井城下と麻生津の間など、諸説有り定かならず。

    麻生津といふ所に江河あり。これを玉江といふ説あり。いかが。尋ぬべし。津の國に同名あり。
        『名所方角抄』

    玉江    沼        摂津    〈嶋上郡 越前同名有〉
    後撰    雜四        玉江漕ぐ蘆刈り小舟さし分けて    たれをたれとか我は定めむ        読人不知
    後拾遺    夏        夏苅りの玉江の蘆を踏みしだき    群れゐる鳥の立つ空ぞなき        源重之
        『類字名所和歌集』


  

        『類字名所和歌集』    玉江

    ○穂に出にけり
        「秀(ほ)に出づ」には、表にあらわれる・人目につくの意があり、それにかけて、蘆の穂の出ているのが目に立ったという意にはたらか
        せている。

    續後拾遺    秋上        たがための手枕にせむさを鹿の    入る野のすすき穂に出でにけり        俊成

    ワキ    あら面白や候。さて葦と蘆とは同じ草にて候か
    シテ    さん候譬へば薄ともいひ。穂に出でぬれば尾花ともいへるが如し
        謡曲『蘆刈』


  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 16:40Comments(0)おくの細道、いなかの小道

2017年11月22日

史記列傳(14)− 樗里子甘茂列傳第十一

  

      近松門左衛門(1653〜1724)


    (旧暦10月5日)

    近松忌、巣林忌
    江戸期の浄瑠璃および歌舞伎狂言作家、近松門左衞門(1653〜1724)の享保九年(1724)年の忌日。本名は杉森信盛。平安堂、巣林子、不移山人と
    号す。代表作に、『曽根崎心中』元禄十六年(1703)、『冥途の飛脚』正徳元年(1711)、『国性爺合戦』正徳五年(1715)、『心中天網島』享保
    五年(1720)がある。

    秦の東を攘(はら)ひ諸侯を雄(いう)す所以は、樗裏(ちより)、甘茂(かんぼう)の策なり。よりて樗裏甘茂列傳第十一を作る。

    秦が東方諸国を打ち払い諸侯に勝った理由は、樗里子や甘茂の策略が大きな役割を果たした。そこで、樗里子と甘茂の列傳第十一を作る。 
            (太史公自序第九十)

    権謀渦巻く中国の戦国時代(前403 〜前221)にあって、秦が韓、魏などの有力諸侯を従えて天下統一を成し遂げたことについては、
      1. 騎馬戦術に長けていたこと
      2. 激動する社会変動に対して、いち早く国家体制の変革を成し遂げたこと
      3. 優秀な人材を擁していたこと

などが挙げられています。

    秦以外の諸国は、合従・連衡策などにより秦に対抗しようとしましたが、これを打ち破るのに力を発揮したのが樗里子や甘茂でした。

    【樗里子】
    樗里子は惠文王(在位:前338〜前311)には将軍として、次の武王(在位:前310〜前307)には右丞相として、その次の昭襄王(在位:前306〜前251)には将軍として仕え、魏の曲沃(山西省臨汾縣)をはじめ、趙、楚を伐って功績がありました。
 
    樗里子(ちよりし)は、名は疾(しつ)。秦の惠王の弟なり。惠王とは異母、母は韓の女なり。樗里子、滑稽(弁舌が巧みで、人をうまく言いくるめる)にして多智なり。秦人號して智囊(ちなう、知恵袋)と曰ふ。
    秦の惠王の八年、樗里子を右更(いうかう、秦の十四番目の爵位)に爵し、將として曲沃を伐たしむ。盡く其の人を出だし(追放し)、其の城を取る。
    地、秦に入る。
    秦の惠王の二十五年、樗里子をして將と爲して趙を伐たしむ。趙の將軍莊豹を虜(とりこ)にし、藺(りん、山西省離石縣)を拔く。明年、魏章を助け
    て楚を攻め、楚の將屈丐(くつかい)を敗り、漢中の地を取る。


    秦の昭襄王の七年(前299)、樗里子は卒して、渭水の南、章臺の東に葬られましたが、その遺言で、「これから百年の後、ここに天子の宮殿ができ 
て、わが墓を左右から挟むようになるであろう」と言いました。
    樗里子の屋敷は、昭襄王の廟の西の、渭水の南の陰鄕の樗里にあったので、世間の人は彼のことを樗里子(ちよりし)と呼びました。
    漢(前漢、前206〜8)の時代になると、長樂宮がその東に、未央宮がその西に建てられ、また、その正面には武器庫がありました。
    秦の人のことわざにも、「力は則ち任鄙(じんぴ、秦の臣で力持ち)、智は則ち樗里」と云われていました。

    昭王の七年、樗里子卒す。渭南の章臺の東に葬る。曰く、後百歳にして、是れ當に天子の宮有りて、我が墓を夾むべし、と。樗里子疾の室は、昭王の廟の西、渭南の陰鄕の樗里に在り。故に俗に之を樗里子と謂ふ。
    漢の興るに至り、長樂宮其の東に在り。未央宮其の西に在り。武庫正に其の墓に直(あた)る。秦人の諺に曰く、力は則ち任鄙、智は則ち樗里、と。
 

    【甘 茂】
    甘茂(生没年不詳)は楚の低い身分に生まれ、諸子百家の説を学んだ後、秦の宰相張儀と將軍樗里子の紹介により、秦に仕えた論客でした。
    武王の即位後は左丞相となり、列国の力関係を利用しつつ、魏を懐柔して韓を討ち、韓の地方都市、宜陽(河南省洛陽縣)を陥落させます。

    甘茂(かんぼう)は、下蔡(安徽省寿縣の北の地)の人なり。下蔡の史擧先生に亊(つか)へて、百家の説を學び、張儀・樗里子に因りて秦の惠王に見(まみ)ゆるを求む。王見て之を說(よろこ)び、將として魏章を佐(たす)けて漢中の地を略定せしむ。

    惠王(在位 前338〜前311)卒し、武王(在位 前310〜前307)立つ。張儀・魏章去りて東のかた魏に之(ゆ)く。蜀候輝・相の莊反す。秦、甘茂をして蜀を定めしむ。還るや甘茂を以て左丞相と爲し、樗里子を以て右丞相と爲す。

    秦の武王三年(前307)、武王は甘茂に謂いて曰く、「私は三川(黄河、洛水、伊水の集まる周の都、洛陽)への道(秦の都、咸陽から洛陽へ通
じる函谷関、潼関などが立ちふさがる険路)を車馬が自由に通れるようにし、時期をみて、周を滅ぼそうと思う。そうすれば、私が死んでも名は不朽になる」と。
    甘茂曰く、「私が魏に行き、魏と共に韓を伐つ約束をさせていただきたい」と。そこで武王は向壽(しやうじゆ、宣太后の一族の者)を副使として行かせました。甘茂は魏に着き同盟を結ぶと、向壽に言います。「あなたは帰国して大王に、『魏は臣の言葉を聞き入れました。しかし、大王は韓を伐たないようにお願い申し上げます』と伝えていただきたい。この事が成れば、その功績はすべてあなたのものにして差し上げましょう」 と。
    向壽は帰国して武王に報告しました。武王は甘茂を息壌(秦の邑)まで出迎え、甘茂が到着すると韓を伐つべきではない理由をたずねました。

    秦の武王三年、甘茂に謂ひて曰く、寡人、車を容るるばかりに三川を通じ以て周室を窺はんと欲す。而らば寡人死すとも朽ちじ、と。甘茂曰く、請ふ、魏に之き、約して以て韓を伐たん、と。而ち向壽をして輔行せしむ。甘茂至り、向壽に謂ひて曰く、子歸りて之を王に言ひて、魏、臣に聽く、然れども願はくは王伐つ勿かれ、と曰へ。亊成らば盡く以て子の功と爲さん、と。向壽歸りて以て王に告ぐ、王、甘茂を息壤に迎ふ。甘茂至る。王其の故を問ふ。

    【韓を伐たない理由】
        1.  韓の宜陽(河南省宜陽縣)は大縣であり、上黨(韓の地名。山西省東南部)も南陽(魏の地名。河南省獲嘉縣)も以前から兵糧を蓄えて
             いる。名は縣であるが、実際は郡と同じである。今、王が何箇所もの難所を越えて、千里の道のりを移動して之を攻めるのは容易で
             はない。

  

    中国戦国時代勢力図

        2.  昔、孔子(前551〜前479)の高弟曾參(前505〜前435)が魯の国の費(山東省費縣)というところにいた時、魯の国の者で、曾參と
             姓名を同じくする者が人を殺した。それを知った者が曾參の母親に告げて、「曾參、人を殺せり」と言った。しかし、曾參の母親は
             平然として機を織っていた。やがて別の人が母親に告げて、「曾參、人を殺せり」と言った。彼の母親はやはり平然と機を織り続け
             ていた。暫くして又別の人が母親に告げて、「曾參、人を殺せり」と言うと、これを聞いた曾參の母親は杼(ひ、緯糸を通す用具)
             を放り出して機からおり、墻(かき)を乗り越えて走り出した。

             曾參の賢明さと母親の信頼とがあっても、三人もの者が曾參を疑うと、さすがの母も本当なのではと恐れた。今、臣の賢明さなどは
             曾參に及ばず、王の臣に対する信頼も曾參の母の子に対する信頼には及ばない。臣を疑う者はたった三人ではない故に、大王が杼
             (ひ)を投げ出した曾參の母のように臣を疑うのではないかと恐れた。

        3.  昔、縦横家張儀(不詳〜前309)は秦のために西は巴(四川省東部)・蜀(四川省成都付近)の地を併合し、北は西河(山西省西部)の
             外を開き、南は上庸(楚の地名。湖北省竹山縣の東南)を取得したが、天下は張儀の功績だとは看做さず、先王(惠文王、在位:前
             338〜前311)が賢なのだとした。
       
             魏の文侯(在位:前445〜前396)は樂羊を将として中山(河北省定縣)を攻めさせ、三年にしてこれを抜いた。楽羊は帰還してそ
             の功を論じたが、文侯は楽羊を誹謗した箱一杯の書を見せた。それを見た楽羊は再拝稽首して、「これは臣の功績ではありません。
             主君(文侯)のお力です。」と言った。

             今、臣は外国から参じたよそ者の臣下であり、樗里子(母が韓の王女)、公孫奭(元韓の公子)の二人が韓を保護するために臣を誹
             謗すれば、大王は必ずこれを聞き入れることになる。そうなると、大王は魏王を欺いたということになり、臣は公仲侈(韓の宰相)
             の怨みを受けることになる。


    【息壌の盟】
    武王は、「寡人(私)は卿についての誹謗は聞き入れないでおく。それを卿と約束しよう」と言いました。
    こうして武王は丞相甘茂に兵を將(ひき)ゐて宜陽を伐たせました。甘茂が五ヶ月かけても抜けずにいると、樗里子・公孫奭がやはり誹謗してきました。すると、武王は甘茂を召喚し、軍を引き上げようとしました。これに対し甘茂は言いました。「息壌はそこにありますぞ(約束をお忘れになりましたか)。」 武王は言いました。「そうであった。」 そこで兵力を総動員して、甘茂に命じて韓を伐たせました。敵の斬首は六万、遂に宜陽を陥落させました。韓の襄王は公仲侈を遣わして謝罪をさせ、秦と和睦しました。

    この事から「息壌の盟」という故事ができたと言うことです。

  

      中国戦国時代(紀元前350年頃)三晋図

    王曰く、寡人聽かず。請ふ子と盟さん、と。卒(つひ)に丞相甘茂をして兵を將(ひき)ゐて宜陽を伐たしむ。五月にして拔けず。樗里子、公孫奭(こう
そんせき)果たして之を爭ふ。武王、甘茂を召し、兵を罷めんと欲す。甘茂曰く、息壤(昭王が他者の意見を受け入れないと甘茂に誓った場所)彼(かしこ)に在り、と。王曰く、之れ有り(そうであった)、と。因りて大いに悉く兵を起こし、甘茂をして之を撃たしむ。首を斬ること六萬、遂に宜陽を拔く。韓の襄王、公仲侈をして入りて謝せしめ、秦と平らぐ。


  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 20:20Comments(0)史記列傅

2017年11月15日

奥の細道、いなかの小道(41)− 福井

  
  

    松永貞徳(1571〜1653)

    (旧暦9月27日)

    貞徳忌
    江戸前期の俳人、歌人、歌学者、の承應二年(1653)の忌日。名は勝熊、別号、長頭丸、逍遊軒、延陀丸、明心居士、花咲の翁など。父松永永種  
    (1538〜1598)は摂津高槻城主入江政重(不詳〜1541)の子で、没落後松永彈正(1508〜1577)のゆかりをもって松永を称した。連歌師里村紹巴
    (1525〜1602)から連歌を、九条稙通(1507〜1594)や細川幽斎(1534〜1610)から和歌、歌学を学ぶほかに多くの良師を得て、古典、和歌、
    連歌などの素養を身につけた。

    二十歳頃に豊臣秀吉(1537〜1598)の右筆となり、歌人として名高い若狭少将木下勝俊(長嘯子:1569〜1649)を友とする。慶長二年(1597)に
    花咲翁の称を朝廷から賜り、あわせて俳諧宗匠の免許を許され、「花の本」の号を賜る。元和元年(1615)、三条衣の棚に私塾を開いて俳諧の指導に当
    たり、俳諧を和歌、連歌の階梯として取り上げ、貞門俳諧の祖として俳諧の興隆に貢献した。家集に『逍遊集』、著作に『新増犬筑波集』『俳諧御傘』
    などがある。

    〈福 井〉
    福井は三里計なれば、夕飯したゝめて出るに、たそがれの路たどたどし。爰に等栽と云古き隠士有。いづれの年にや江戸に來りてよを尋ぬ。遥十とせ餘
    り也。いかに老さらぼひて有にや、將死けるにやと、人に尋ねはべれば、いまだ存命してそこそこと教ゆ。市中ひそかに引入て、あやしの小家に夕㒵・
    へちまのはえかゝりて、鶏頭はゝ木ゞに戸ぼそをかくす。さてはこのうちにこそと門を扣ば、侘しげなる女の出て、「いづくよりわたり給ふ道心の御坊
    にや。あるじはこのあたり何がしと云ものゝ方に行ぬ。もし用あらば尋ねたまへ」といふ。かれが妻なるべしとしらる。むかし物がたりにこそかゝる風
    情は侍れと、やがて尋あひて、その家に二夜とまりて、名月はつるがのみなとにとたび立。等栽もともに送らんと、裾おかしうからげて、道の枝折とう
    かれ立。


    

            福  井
 
  芭蕉翁と共に長い年月を旅してきましたが、終着の大垣までは、あと三章を残すのみとなりました。

    ○たそかれ
        薄暗い光の中で、あの人はたれだろうといぶかしむころの時刻の意
   
    たそかれ 物を問ふていに詠むべし  『八雲御抄』

    寄りてこそそれかとも見めたそかれに ほのぼの見つる花の夕顔
    光ありと見し夕顔のうは露は たそかれ時のそら目なりけり
            『源氏物語』第四帖 夕顔

    たそがれ時のをりなるに。
    などかはそれと御覧ぜざるさりながら。
    名は人めきて賤しき垣ほにかゝりたれば。知しめさぬば理なり。
    これは夕顔の花にて候。

    折りてこそそれかとも見めたそがれに ほのぼの見えし花の夕顔
            謡曲 『半蔀』

    思ひや少し慰むと、露の託言(かごと)を夕顔の、たそかれ時もはや過ぎぬ。恋の重荷を持つやらん。
            謡曲 『戀重荷』


  「たそかれ」は「夕顔」と寄合的関係(連歌/俳諧で、前句と付句を関係付ける契機となる言葉や物どうしの縁)にあり、以下、「おくのほそ道」本文は、『源氏物語』夕顔を踏まえた場面設定を行っている。

  

        『源氏夕顔巻』  月岡芳年『月百姿』

    ○たどたどし
        たそかれ時のほの暗さに足もともおぼつかなく、道のはかどらぬさまを言ったもの

    なかなかに折りやまどはむ藤の花 たそかれ時のたどたどしくは
            『源氏物語』第三十三帖  藤裏葉

    たそかれ時とアラバ    (中略)    たどたどし
            『連珠合壁集』 巻一


  

        『連珠合壁集』 巻一

    ○老さらぼひて
        年寄り痩せ衰えて。「さらぼふ」は、痩せ枯れたさま。

    後日に、むく犬のあさましく老いさらぼひて、毛はげたるを引かせて、この気色尊く見えて候とて
            『徒然草』 百五十二段

    老サラホレテ    髐    サラホウ    莊子二
            『徒然草壽命院抄』  下巻   壽命院立安撰


    荘子之楚、見空髑髏髐然有形。
    荘子、楚に之く。空髑髏の髐然として形有るを見る。
    When Zhuangzi went to Chu, he saw an empty skull, bleached indeed, but still retaining its shape.
     『荘子』外篇至樂 (Perfect Enjyoment)
    注)髐然(こうぜん)は、白骨がさらされているさま。また、白骨がくっきりと浮き出たさま。

    ○市中ひそかに引入て 
        町中にひっそりと引き込んで。市隠(市井に隠れ住むこと)の趣を表したもの。また、『源氏物語』 第四帖 夕顔の、夕顔の宿のある
        むつかしげなる大路のさまを 見わたしたまへるに
        げにいと小家がちに、 むつかしげなるわたりの

        を二重写し的に重ねたもの。

    ○あやしの小家 
        粗末な小家。

    「遠方(をちかた)人にもの申す」と獨りごちたまふを、御隋身ついゐて、「かの白く咲けるをなむ、夕顔と申しはべる。花の名は人めきて、かうあや
    しき垣根になむ咲きはべりける」と申す。げにいと小家がちに、むつかしげなるわたりの、このもかのも、あやしくうちよろぼひて、むねむねしから
    ぬ軒のつまなどに這ひまつはれたるを、「口惜しの花の契りや。一房折りて参れ」とのたまへば、この押し上げたる門に入りて折る。
            『源氏物語』 第四帖 夕顔


    ○はえかゝりて
        延へかかりて。夕㒵・へちまが蔓を延ばした状態で延びからまること。

    ○むかし物がたりにこそかゝる風情は侍れ
        『源氏物語』 第四帖 夕顔で、光源氏が夕顔の君と荒れたなにがしの院で一夜を過ごした際、六条御息所と思われる女性の怨霊に出会う場面
        に見える以下の文言をふまえたもの。
        「昔物語などにこそ、かかることは聞け」と、いとめづらかにむくつけけれど、
                『源氏物語』 第四帖 夕顔 第四段 夜半、もののけ現わる

    ○つるが
            敦賀。歌枕 角鹿
            我をのみ思ふ敦賀の越ならば 歸るの山はまどはざらまし    読人不知
                    『類字名所和歌集』    巻三


  

        『類字名所和歌集』    巻三

    つるがは、本角鹿ト書。相傳、崇神天皇六十五年、任那國人來。其人額有角。到越前笥飯浦(ケヰノウラ)居三年、故其處名角鹿(ツノガ、ト云。今敦
    賀と書ク。笥飯も今氣比とす。海を氣比の海と云。〈敦賀は、則チ敦賀郡の浦にて、けいは、つるがの古名なり。古歌多し〉越前の大湊にて、若州小濱
    侯の領知なり。方角抄、我をのみ思ひつるがの浦ならば歸る野山はまどはざらまし。萬葉、氣比の海よそにはあらじ蘆の葉のみだれて見ゆるあまのつり
    舟。
            『奥細道菅菰抄』


  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 09:34Comments(0)おくの細道、いなかの小道

2017年11月10日

奥の細道、いなかの小道(40)− 天龍寺、永平寺

  

      丸岡城天守閣


  (旧暦9月22日)

  汐越の松を訪れた芭蕉翁と北枝一行は濱坂浦へ戻り、北潟湖の西岸に沿って南西に進み、北方浦から東岸の蓮ヶ浦へ藏崎の渡しを渡りました。ここからしばらく南東に進み、蓮ヶ浦の坂口で北國街道に合流し、かつて嫁威(おどし)の茶屋があった柿原を過ぎて、山十楽からしばらく南進し千束一里塚に至りました。街道はさらに花之杜から南下して、竹田川の北岸に沿って東西に細く延びる北金津宿に入り、宿場の東外れを右折して竹田川を渡ると南金津宿、さらに南下して北國街道と金津道に別れ、芭蕉翁一行は金津道を進み、川原井手、池口、長屋、御油田を経て、丸岡城下の北の入口に到着しました。

  

    芭蕉経路 汐越の松〜金津宿〜丸岡

  丸岡城下の中心に立つ丸岡城は、天正四年(1576)、柴田勝家(1522?〜1583)の甥柴田勝豊(1556〜1583)によって築かれました。その後は数奇な運命をたどっています。

  ①  天正十年(1582)、本能寺の変の後の清洲会議により、柴田勝豊は近江国長浜城に移され、柴田勝家は安井左近家清(?〜1583)を城代として置い
       た。

  ②  天正十一年(1583)、柴田勝家が豊臣秀吉によって北ノ庄城で滅ぼされると、この地は丹羽長秀(1535 〜1585)の所領となり、丹羽長秀は丸岡城
       主として青山修理亮宗勝(1561〜不明)を置いた。

  ③  丹羽長秀の死後、領地はそのままに豊臣秀吉の家臣となっていた青山宗勝とその子忠元は、慶長五年(1600)、関ヶ原の戦いで西軍方につき、敗れて
       改易された。越前国には徳川家康の次男結城秀康(1574〜1607)が入封し、丸岡城には秀康家臣の今村盛次が二万五千五百石を与えられ入城し
       た。

  ④  慶長十七年(1612)、今村盛次は越前騒動に連座して失脚し、幕府より附家老として福井藩に附せられた本多成重(1572〜1647)が四万三千石
       で新たな城主となった。

  ⑤  寛永元年(1624)、 福井藩第二代藩主松平忠直(1595〜1650)が、不行跡を理由に豊後配流となり、福井藩に減封などの処分が下された。同時に
       本多成重は福井藩より独立して大名に列し丸岡藩が成立した。

  ⑥  元禄八年(1695) 四代本田重益(1663〜1733)の治世、本多家の丸岡藩でお家騒動が起こり、幕府の裁定により改易となった。代わって有馬清
       純が越後国糸魚川藩より五万石で入城。以後、有馬氏丸岡藩六代の居城となり明治維新を迎えた。


  芭蕉翁一行は全昌寺から七里弱ほどの道程を歩き、丸岡城下には午後五時頃に到着して、城下の谷町あたりの旅籠に宿泊したものと思われています。

      一    八日  快晴。森岡ヲ日ノ出ニ立テ、舟橋ヲ渡テ、右ノ方廿丁計ニ道明寺村有。少南ニ三國海道有。ソレヲ福井ノ方へ十丁程往テ、新田
           塚、左ノ方ニ有。コレヨリ黒丸見ワタシテ、十三四丁西也。新田塚ヨリ福井、廿丁計有。巳ノ刻前ニ福井へ出ヅ。苻(府)中ニ至ルト
           キ、未ノ上刻、小雨ス。艮(即)、止。申ノ下刻、今庄ニ着、宿。
                   『曾良旅日記』


  旧暦八月八日(陽暦九月二十一日)、曾良は日の出(午前六時頃)に森田の六郎兵衛宅を出立し、北國街道を南下して九頭龍川に架かる舟橋(舟を繋いでその上に板を敷いた仮橋)を渡りました。舟橋を渡ると、右手廿丁ばかりの所に燈明寺村があり、また少し南に三國街道があります。その街道を福井城下の方へ十丁程行くと、左手に新田塚があります。

  新田塚は、南北朝期に第九十六代後醍醐天皇(在位1318〜1339)方に与した新田義貞(1300頃〜1338)が延元三年(1338)閏七月二日、足利方が籠もる越前の藤島城を攻める味方を督戦するため、わずか五十余騎の手勢を従えて藤島城へ向かった際に、たまたま、救援のために藤島城に向かっていた足利配下の将鹿草彦太郎公相の三百騎と遭遇し、乱戦の中で戦死した所と伝えられています。

  

      燈明寺畷新田義貞戦歿伝説地(新田塚)

  明暦二年(1656)、この地を耕作していた百姓の嘉兵衛が偶然に兜を掘り出し、芋桶に使っていたところ、福井藩の軍学者井原番右衛門頼文がこれを目にし、象嵌や「元応元年八月相模国」の銘文から新田義貞着用のものと鑑定しました。その四年後の萬治三年(1660)には、越前福井藩第四代藩主松平光通(1636〜1674)が兜の発見された場所に、「暦応元年閏七月二日 新田義貞戰死此所」と刻んだ石碑を建て、以後この地は「新田塚」と呼ばれるようになったということです。
  なお、暦応元年とは北朝方の元号で、南朝方では延元三年(1338)となります。

  

      鉄製銀象眼冑(藤島神社所蔵)

  新田塚からは、十三、四丁西に黒丸集落が見渡せます。また、新田塚から福井城下までは二十丁程で、巳ノ刻前(午前十時頃)に福井城下を通過し、足羽川に架かる九十九橋を渡って足羽山東麓の北國街道を南下、江端川に架かる玉江橋を渡り、淺水宿のあさむつ橋に至りました。さらに、鯖江宿、上鯖江宿を過ぎ、日野川の白鬼女渡を渡ってさらに南下すると府中(旧武生)に着きます。
  曾良が府中に着いたのは未ノ上刻(午後一時半頃)で、小雨が降り始めましたが、まもなく止み、脇本宿、鯖波宿、湯尾宿を過ぎ、古代から交通の要衝でもあった湯尾峠を越えて、今庄宿に着いたのは申ノ下刻(午後四時過ぎ)でした。

      一    九日  快晴。日ノ出過ニ立。今庄ノ宿ハヅレ、板橋ノツメヨリ右へ切テ、木ノメ峠ニ趣、谷間ニ入也。右ハ火うチガ城、十丁程行テ、左
           リ、カヘル山有。下ノ村、カヘルト云。未ノ刻、ツルガニ着。先、氣比へ参詣シテ宿カル。唐人ガ橋大和や久兵へ。食過テ金ケ崎へル。
           山上迄廿四五丁。夕ニ帰。カウノヘノ船カリテ、色浜へ趣。海上四リ。 戌刻、出船。夜半ニ色へ着。クガハナン所。塩焼男導テ本隆寺へ
           行テ宿。
                   『曾良旅日記』


  旧暦八月九日(陽暦九月二十二日)、今日も曾良は日の出(午前六時頃)に今庄の宿を出立し、宿場外れの板橋の端から右に曲がり、木ノ芽峠へ行くために谷間に入りました。右手は燧ヶ城で、十丁程行くと歌枕で知られる歸山があり、その下の村を歸と云う。

  燧ヶ城の築城は源平の合戦の頃にまでさかのぼり、壽永二年(1183)、木曾義仲(1154〜1184)が追討してきた平家の軍勢を迎え撃つため、仁科守弘らに命じて城を築かせました。源平盛衰記に「北陸道第一の城郭」と記されたこの城は、交通の要衝を押さえた城であったため、南北朝期には今庄入道浄慶の居城となり、府中(旧武生)の足利高経(1305〜1367)方に属して、建武四年/延元二年(1337)越前杣山城の新田義貞(1300頃〜1338)を攻めています。

  戦国時代には越前国守護斯波氏の家臣赤座但馬守影景秋、後に魚住景固(1528〜1574)が城主となりました。さらに天正三年(1575)には、下間頼照(1516〜1575)ら一向一揆勢が立て籠もって織田信長(1534〜1582)と戦い、次いで天正十一年(1583)の賤ヶ岳の合戦の折りには、主将柴田勝家(1522〜1583)自らがここを守っています。

  「かへる山」は、敦賀湾の東岸の五幡、杉津あたりから、北東にある今庄に抜けるあたりの地域の山と言われています。奈良期の古道は、松原驛(敦賀市)から五幡、杉津を経て比田から山中峠を越え鹿蒜駅(南越前町今庄)に至ったといわれています。

  万葉集巻十八の大伴家持の歌(4055)は、このあたりを指していると思われています。
          可敝流廻の道行かむ日は五幡の 坂に袖振れ我れをし思はば
          可敝流未能 美知由可牟日波 伊都波多野 佐可尓蘇泥布礼 和礼乎事於毛波婆
          かへるみの  みちゆかむひは  いつはたの  さかにそでふれ  われをしおもはば

  また、古今和歌集には、「かへる山」との歌枕が読み込まれた歌が、収載されています。 

          越へまかりける人によみてつかはしける   紀利貞
          かへる山ありとは聞けど春霞 立ち別れなば恋しかるべし        古今和歌集  巻八  離別   370

               凡河内躬恒
          かへる山なにぞはありてあるかひは きてもとまらぬ名にこそありけれ    古今和歌集 巻八 離別  382

                在原棟梁
          白雪の八重降りしけるかへる山 かへるがへるも老いにけるかな          古今和歌集 巻十七 雑歌上  902


  曾良は未ノ刻(午後二時頃)に敦賀に着き、まず、気比神宮に参詣してから唐人橋の大和屋久兵衛宅に宿をとりました。気比神宮は、敦賀の北東部に鎮座する越前國一宮で、「北陸道総鎮守」と称されて朝廷から特に重視された神社でした。主祭神の伊奢沙別命(いざさわけのみこと)ほか、第十四代仲哀天皇、その后の神功皇后など七柱の祭神を祀っています。

  食事の後、曾良は、宿から二十四、五丁ある敦賀北東部、敦賀湾に突き出した金ヶ崎山に築かれた金ヶ崎城の跡地を訪れ、夕方に宿に帰りました。

  金ヶ崎城は、 治承、寿永の乱(1180〜1185、源平合戦)の時、越前三位平通盛(1153〜1184)が木曾義仲(1154〜1184)との戦いのためにここに城を築いたのが最初と伝えられています。
 
  南北朝期の延元元年/建武三年(1336)十月十三日、足利尊氏の入京により恒良親王(1324〜1338)、尊良親王(1310〜1337)を奉じて北陸落ちした新田義貞(1300頃〜1338)が入城、直後、足利方の越前守護斯波高経(1305〜1367)らの軍勢に包囲されて兵糧攻めに遭い、翌延元二年/建武四年(1337)二月五日、新田義貞らは、闇夜に密かに脱出し、越前杣山城で体勢を立て直すも、三月三日、足利方が城内に攻め込み、兵糧攻めによる飢餓と疲労で城兵は次々と討ち取られ、新田義貞嫡男の新田義顕(1318〜1337)は城に火を放ち、尊良親王及び三百余人の兵と共に自害しています。
 また、恒良親王は捕らえられて足利直義(1306〜1352)によって幽閉され、翌年に没しています。

  
    
      Death place of Prince Takayoshi.

  その後、足利方の越前平定により、越前守護代甲斐氏の一族が守備し、敦賀城と称しています。

  室町期の長禄三年(1459)、守護斯波氏と守護代甲斐氏の対立が深まり、関東の古河公方足利成氏(1438〜1497)征討の幕命を受けた斯波義敏(1435〜1508)は兵を集めたものの関東には赴かず、引き返して金ヶ崎城を攻撃するも、敦賀城甲斐方の守りは堅く、斯波義敏方は大敗を喫しています。

  戦国期の元亀元年(1570)四月二十六日、朝倉氏一族の敦賀郡司が守護していた金ヶ崎城は、越前に侵攻した織田、徳川軍の攻撃により、郡司朝倉景恒(不明〜1570)は兵力差もあったことから織田信長の降伏勧告を受け入れ開城しました。
  しかし、同盟関係にあった小谷城の浅井長政(1545〜1573)が離反して挟撃の危機に瀕したため、木下藤吉郎(1537〜1598)が後衛となって、信長本隊が近江朽木越えで京に撤退するまで援護した金ヶ崎の戦いがあり、金ヶ崎の退き口または金ヶ崎崩れとも呼ばれ、戦国史上有名な織田信長の撤退戦の戦場でもありました。
 
  その後曾良は、河野(福井県越前町)へ行く船に便乗し、色の濱(種の濱、敦賀市色浜)へ赴きました。海上四里で、戌刻(午後八時過ぎ)に出船し、夜半に色の濱に着き、そこで製塩を生業とする男に案内されて、本隆寺に行き宿をとりました。

  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 16:15Comments(0)おくの細道、いなかの小道

2017年11月05日

奥の細道、いなかの小道(39)− 全昌寺、汐越の松

 
 

      全昌寺

  (旧暦9月17日)

  旧暦八月七日(陽暦九月二十日)、芭蕉翁は昨日からの歌仙を満尾させ、昼頃に小松を出立して大聖寺の全昌寺へ向かいました。小松城下から北國街道を南下して月津宿を過ぎて動橋(いぶりばし)に至り、橋を渡って八日市、弓波、作見宿経て菅生石部神社横を通過し、大聖寺川に架かる敷地天神橋を渡ると大聖寺城下に入ります。

  橋を渡ってすぐ左手の大聖寺川に沿った道は山中温泉道で、大聖寺川の土手に道標が立っています。そのまま直進して菅生で右折し、弓町、荒町、東横町、新屋敷を経て全昌寺に至ります。小松からの行程は約四里、一行は午後五時ごろに到着したものと思われます。

    〈全昌寺・汐越の松〉
      大聖持の城外、全昌寺といふ寺にとまる。猶加賀の地なり。曽良も前の夜この寺に泊て、
            終宵秋風聞くやうらの山
    と殘す。一夜の隔て、千里に同じ。吾も秋風を聞きて衆寮にふせば、明ぼのゝ空近う、読経声すむまゝに、鐘板鳴て食堂に入。けふは越前の國へと、心
    早卒にして堂下に下るを、若き僧ども紙・硯をかゝえ、階のもとまで追來たる。折節庭中の柳散れば、 
            庭掃て出でばや寺に散柳
    とりあへぬさまして、草鞋ながら書捨つ。
      越前の境、吉崎の入江を舟に棹して汐越の松を尋ぬ。
            終宵嵐に波をはこばせて 
                  月をたれたる汐越の松        西行
    此一首にて數景盡たり。
    もし一辧を加るものは、無用の指を立るがごとし。

    ○大聖寺
        大聖寺は往時、白山五院のひとつ大聖寺のあった所で、寛永十六年(1639)、加賀藩第二代藩主前田利常(1594〜1658)の三男前田利治
        (1618〜1660)が、父利常が隠居するにあたり、江沼郡を中心に七万石を分与されて大聖寺藩を立藩した時にその城下となった。芭蕉翁一行
        が来訪した時は、第二代藩主前田利明(1638〜1692、利常の五男)の代であった。

        白山五院は、いまの加賀市にあったとされる柏野寺、薬王院温泉寺、極楽寺、小野坂寺、大聖寺の五つの寺院で、白山信仰がもっとも色濃く社
        会に繁栄された平安時代から室町時代にかけて、加賀江沼の人びとの白山信仰の中心になっていた。

        なお、往時の大聖寺は、16世紀に、浄土真宗本願寺派第八世宗主、真宗大谷派第八代門首蓮如(1415〜1499)によって力を増した浄土真宗門
        徒と越前の戦国大名朝倉義景(1533〜1573)との戦いに巻き込まれ、完全に焼失したという

    ○全昌寺
        大聖寺南郊の山ノ下寺院群と呼ばれる場所にある曹洞宗の寺院。大聖寺城主山口玄蕃頭宗永(1545〜1600)の帰依を受けて、慶長三年
        (1598)に山代より現在地に移築された同城主の菩提寺。

        慶長五年(1600)、関ヶ原の戦いで山口宗永は石田三成(1560〜1600)の西軍に与したため、加賀前田家第二代前田利長(1562〜1614)の
        大聖寺攻めに遭い、大聖寺城は陥落し山口玄蕃一族は滅亡した。その為寺の維持は困難となったが、慶長八年(1603)、大聖寺城代として加賀藩
        より派遣されていた津田遠江守重久(1549〜1634)の帰依により仮香華院(仮菩提寺)となり、その後江州曹澤寺の輝雲和尚が入寺し、この
        時寺格が与えられ、寺の地位が確立した。

    ○終宵
        終宵(よもすがら)という言葉に、秋夜弧客の情が尽くされている。一晩中眠りにつけず、蕭々たる秋風の音を聞き明かしたことだ、寺の裏山
        の木立の上を吹き渡るその秋風を、といった意で、師と別れた一人旅の寂しさが素直に流露していると評されている。

        秋風引          劉禹錫 
        何處秋風至        何れの處よりか秋風至り
        蕭蕭送雁群        蕭蕭として雁群を送る
        朝來入庭樹        朝來庭樹に入り
        孤客最先聞        孤客最も先に聞く
                『唐詩訓解』六

 
        古歌        漢          無名氏
        秋風蕭蕭愁殺人          秋風蕭蕭として人を愁殺し
        出亦愁                        出づるも亦た愁へ
        入亦愁                        入るも亦た愁ふ
        座中何人                     座中何人(なんぴと)か
        誰不懷憂                     誰か憂ひを懷かざる
        令我白頭                     我をして白頭ならしむ
        胡地多飆風                 胡地に飆風(へうふう)多し
        樹木何修修                 樹木何ぞ修修たる
        離家日趨遠                 家を離れ日びに遠きに趨(おもむ)き
        衣帶日趨緩                 衣帶日びに緩きに趨(おもむ)く
        心思不能言                 心思言ふ能はず
        腸中車輪轉                 腸中車輪轉ず


      ○一夜の隔、千里に同じ
          わずか一夜の隔てが、さながら遠く千里を隔てるごとくに思われる。「千里」の語は、『蒙求』李陵初詩の詩句や李白、蘇東坡の詩句の
          「咫尺千里」などの成句による。

        李陵初詩            田横感歌
        携手上河梁           手を携へて河梁に上る
        游子暮何之           遊子暮に何くにか之(い)く
        徘徊蹊路側           蹊路の側(ほとり)に徘徊し
        恨恨不得辭           悢悢として辭するを得ず
        晨風鳴北林           晨風(しんぷう)北林に鳴し
        熠燿東南飛           熠燿(こんやう)東南に飛ぶ
        浮雲日千里           浮雲日に千里
        安知我心悲           安(いずく)んぞ我が心の悲しみを知らん

 
        觀元丹丘坐巫山屏風            唐        李白
        昔遊三峽見巫山        見畫巫山宛相似
        疑是天邊十二峰        飛入君家彩屏裏
        寒松蕭瑟如有聲        陽臺微茫如有情 
        錦衾瑤席何寂寂        楚王神女徒盈盈
        高唐咫尺如千里        翠屏丹崖燦如綺 
        蒼蒼遠樹圍荊門        歷歷行舟泛巴水
        水石潺湲萬壑分        烟光草色俱氛氳
        溪花笑日何年發        江客聽猨幾歲聞
        使人對此心緬邈        疑入嵩丘夢綵雲


        元丹丘の巫山の屏風に坐するを觀る
        昔三峽に遊び巫山を見る                    巫山を畫くを見るに宛(あたか)も相似たり
        疑ふらくは是れ天邊の十二峰              飛て入る君が家の彩屏の裏(うち)
        寒松は蕭瑟として聲有るが如く            陽臺は微茫として情有るが如し 
        錦衾瑤席    何ぞ寂寂                        楚王の神女    徒に盈盈
        高唐咫尺    千里の如く                      翠屏丹崖    燦として綺の如し 
        蒼蒼たる遠樹荊門を圍み                    歷歷たる行舟巴水に泛(うか)ぶ
        水石潺湲(せんかん)萬壑(ばんがく)分れ   烟光草色    俱に氛氳(うんふん)
        溪花日に笑ひて何の年か發す           江客    猨(えん)を聽きて幾歲か聞く
        人をして此に對し心    緬邈(めんばく)たらしめ              疑ふは嵩丘に入り綵雲に夢むかと


    

        巫山十二峰分别坐落在巫峡的南北两岸、是巫峡最著名的風景點。

        潁州初別子由二首    其二        宋    蘇軾
        近別不改容      近き別れは容を改めず
        遠別涕沾胸      遠き別れは涕胸を沾す
        咫尺不相見      咫尺にして相ひ見ざるは
        實與千里同      實は千里と同じ
        人生無離別      人生離別無くんば
        誰知恩愛重      誰か恩愛の重さを知らん
        始我來宛丘      始めて我宛丘に來りしとき
        牽衣舞兒童      衣を牽きて兒童舞ふ
        便知有此恨      便ち此の恨みの有るを知り
        留我過秋風      我を留めて秋風を過ごさしむ
        秋風亦已過      秋風亦已に過ぎ
        別恨終無窮      別れの恨みは終に窮り無し
        問我何年歸      我に問ふ何れの年にか歸ると
        我言歳在東      我言ふ歳の東に在るときと
        離合既循環      離合既に循環し
        憂喜互相攻      憂喜互ひに相ひ攻む
        悟此長太息      此を悟りて長太息す
        我生如飛蓬      我が生飛蓬の如くなりと
        多憂發早白      憂ひ多ければ早白を發す
        不見六一翁      六一翁を見ざるや


        千里も遠からず、逢はねば咫尺も千里よなう
            『閑吟集』


     逢はねば一里も千里よの
            『女歌舞伎踊歌』


  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 12:38Comments(0)おくの細道、いなかの小道

2017年10月30日

奥の細道、いなかの小道(38)− 那谷

  

    尾崎紅葉(1968〜1903)    


  (旧暦9月11日)

  紅葉忌、十千萬堂忌
  小説家尾崎紅葉(1968〜1903)、明治三十六年(1903)の忌日。本名、徳太郎。「縁山」「半可通人」「十千萬堂」「花紅治史」などの号も持つ。江戸
  芝中門前町生まれ。帝国大学国文科中退。明治十八年(1885)、山田美妙(1968〜1910)らと硯友社を創立し、「我樂多文庫」を創刊。明治二十二年
  (1889)、『二人比丘尼色懺悔』が出世作となる。のち読売新聞社にはいり、言文一致体の『多情多恨』、『金色夜叉』(未完)などを連載し人気作家となる
  も、胃がんのため自宅で歿した。享年三十七。


        一 五日 朝曇。昼時分、翁・北枝、那谷へ趣。明日、於小松、生駒萬子爲出會也。□談ジテ歸テ、艮(即)刻、立。大正侍ニ趣。全昌寺へ申
            刻着、宿。夜中、雨降ル。
                『曾良旅日記』


  旧暦八月五日(陽暦九月十八日)、八泊九泊にわたって山中温泉で旅の疲れを癒やした芭蕉翁は、昼自分に世話になった泉屋の若主人久米之助(桃夭)に、
        湯の名殘今宵は肌の寒からむ
との留別の句を贈りました。
  芭蕉翁は立花北枝を伴って那谷寺を経て、生駒重信(萬子)と対面するために、再度、小松へ訪れることにしました。
  一行は山代温泉へ戻り、上野、森、勅使、榮谷を経て那谷寺に向かいました。

  那谷寺からは小松へは、二里半の行程でした。芭蕉翁一行は、この日は小松に戻っただけで、生駒重信(萬子)と会ったのは翌日のことと思われます。小松での宿は不明ですが、書簡を送ってくれた俳人塵生(村井屋又三郎)宅であったのか。

  体調を崩していた曾良は、芭蕉翁一行を見送った直後に、泉屋久米之助の菩提寺である加賀大聖寺の全昌寺へと出立し、申刻(午後四時頃)に到着しました。

  曹洞宗の全昌寺は山中温泉で宿泊した泉屋の菩提寺で、当時の住持三世白湛和尚は泉屋久米之助の叔父であったため、久米之助の紹介で爰に宿泊したものと思われています。

        〈那 谷〉
        山中の温泉に行くほど、白根が嶽跡にみなしてあゆむ。左の山際に観音堂あり。花山の法皇三十三所の順礼とげさせたまひて後、大慈大悲の像
        を安置したまひて、那谷と名付たまふと也。那智・谷組の二字をわかちはべりしとぞ。奇石さまざまに、古松植ならべて、萱ぶきの小堂岩の上
        に造りかけて、殊勝の土地なり。
                石山の石より白し秋の風


        ○山中の温泉
            加州江沼郡黑笠庄山中村の山中温泉。小松より約六里。

        此温泉を紫雲湯ともいひ、白鷺湯ともいへるよし。むかし長のなにがし此所に鷹狩し給へるに、しら鷺の足ひたしてその疵いえたりといふ亊、
        旧記に傳れば、いふなるべし。
                『東西夜話』(元禄十五年刊)各務子考


        江沼郡山中の温泉は、天平年中、行基ぼさち北國巡歴のみぎり、霊泉あることをさぐり、一宇をひらき、醫王山國分寺と號け、そのうへ、塚谷
        の郡司加納遠久といふものに命じて温泉をまもらしめてよりこのかた、功験世に越て諸病を治す。されど霜ゆき星くだちて、終に廢地となる。
        しかるに、治承の春、長谷部の信連、此ところに狩したまふに、白鷺矢疵をかうむりしが、この温泉に彳み補ひけるを見て、霊泉あることをし
        り、再び國分寺を志立ありて白鷺の湯と呼びたまひしより、今に盛んにして、遠近の客夜につどひ、北國第一の繁榮こゝにあらはる。名品に
        は、湯漬艾、桑のねぶりこ、木地細工のうつりもの、さまざま美作をつくす。そのほか、胡蒐の實、かた子、山の薯、煎茶などを製す。又、十
        二景の佳所あり。道明が淵、桂淸水など、面白きところなり
                『北國奇談巡杖記』(文化四年刊) 鳥翠臺北巠

        ○白根が嶽
            白山火山帯の主峰、最高頂御前峰は標高二七○二メートル。白山神社を祀る。歌枕としては、白山(しらやま)の名で知られ『類字名
            所和歌集』には以下二十一首が収められている。

                古今    別        よそにのみ戀ひやわたらん白山の    ゆきみるべくもあらぬわが身は          躬恒
                同                   君が行く越の白山しらねども    雪の随に跡は尋ねむ                 藤原兼輔朝臣


    

        『類字名所和歌集』巻六 白山

        ○観音堂
            流紋岩(rhyolite)と角礫岩(breccia)よりなる岩山の洞窟の中に十一面千手観世音菩薩像を安置し、洞窟前に堂を設けたもので、養
            老元年(717)越の大徳と称された修験道の僧泰澄(682〜764)の創建にかかり、自生山巖谷寺と号したが、寛和二年(986)花山
            法皇(968〜1008)行幸の折に那谷寺と改めた。その後南北朝(1036〜1092)の戦乱で荒廃したが、寛永十七年(1640)に加賀藩
            第二代藩主前田利常(1594〜1658)によって再建された。

        ○花山の法皇
            第六十五代花山天皇(在位984〜986)。永観二年(984)十月十日、十七歳で即位するも、在位二年にして寛和二年(986)六月二
            十三日払暁、密かに禁裏を出て東山花山寺(元慶寺)で出家した。
            突然の出家については、『栄花物語』『大鏡』などは寵愛した女御藤原忯子が妊娠中に死亡したことを素因としているが、『大鏡』で
            はさらに、右大臣藤原兼家(929〜990)が、外孫の懐仁親王(一条天皇:在位986〜1011)を即位させるために陰謀を巡らしたこと
            を伝えている。

            法皇となった後には、奈良時代初期に大和国長谷寺の開山徳道上人が観音霊場三十三ヶ所の宝印を石棺に納めたという伝承があった摂
            津国の中山寺でこの宝印を探し出し、紀伊国熊野から宝印の三十三の観音霊場を巡礼し修行に勤め、大きな法力を身につけたという。
            この花山法皇の観音巡礼が西国三十三所巡礼として現在でも継承されている。

    
        
        第六十五代花山天皇    月岡芳年「花山寺の月」    (明治23年)

        ○三十三所の順礼
            観世音菩薩が衆生化益のために身を三十三体に現したとする「法華経観世音菩薩普門品」の教説に基づき、観世音菩薩を奉祀する三十
            三ヵ所の寺院を巡礼すること。平安末期に始まり、鎌倉期までは僧侶によって行われたが、南北朝以後、俗人の参加する者が多くなっ
            た。

            室町末期から近世にかけて固定した順路は、一番那智山青岸渡寺に始まり、紀伊、和泉、河内、大和、山城、近江、攝津、播磨、丹
            後、丹波、美濃の十一ヵ国を巡って、美濃谷汲山華厳寺に終わる。近世に至り、板東、秩父などの三十三所順礼が行われ出してから、
            前の順路を西国三十三ヵ所と称するに至った。

        世ニ観音ノ霊場ヲ尋ネテ三十三處ニ詣ズ、之ヲ巡礼ト謂フ。(中略)相傳ふ、寛和法皇其ノ端ヲ啓クト
                『塩尻』 曼荼羅講寺沙門炬範筆記 原、漢文


        花山院御發心の後、國々を御修行ありし、是始なるべし。今の三十三所観音順礼も此法皇より權輿す
                『河内國名所鑑』葉室佛現寺


とあるように、近世における通念となっていたが、

        相傳フ、崋山ノ法皇、霊夢有ルヲ以テ、長徳元年三月十七日始メテ熊野ニ詣デ、六月朔日谷汲ニ至ル。△按ズルニ、法皇順礼ノ亊、史傳ニ載セ
        ズ。〈唯機内近國行旅ヲ謂フナリ。此ノ時熊野處々御参詣有ルカ。恐クハ三十三所ニ拘ハルベカラザルナリ。〉好亊ノ者、後ニ序次ヲ定ムル者
        カ。順礼は當ニ巡礼ニ作ルベシ。順逆ノ義ニ非ズシテ巡行ナリ
                『和漢三才圖繪』 西國三十三所順礼 原、漢文


と弁ずるごとく、根拠なき俗説とみるべきとされている。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 12:31Comments(0)おくの細道、いなかの小道

2017年10月26日

奥の細道、いなかの小道(37)− 山中

    
   
        山  中

    (旧暦9月5日)

           一 廿七日 快晴。所ノ諏訪宮祭ノ由聞テ詣。巳ノ上刻、立。斧卜・志挌等来テ留トイヘドモ、立。伊豆
               尽甚持賞ス。八幡ヘノ奉納ノ句有。真(実)盛が句也。予、北枝随レ之。
                『曾良旅日記』


  旧暦七月二十七日(陽暦九月十日)、芭蕉翁と河合曾良そして同行している立花北枝は小松諏訪社(菟橋神社、小松市浜田町)の祭礼(西瓜祭)を見物し、巳ノ上刻(午前九時頃)に山中温泉に向かって旅立とうとしていたところ、斧卜、志挌らが来て引き止めましたが、さすがに今度は断って出立しました。
 
  途中、多太神社に再度立ち寄り、芭蕉は奉納の句を詠じ、曾良、北枝も芭蕉に倣いました。

            多田の神社にまうでゝ、木曾義仲の願書并實盛がよろひかぶとを拝ス
                    あなむざんや甲の下のきりぎりす                翁
                    幾秋か甲にきへぬ鬢の霜                          曾良
                    くさずりのうら珍しや秋の風                        北枝
                        『卯辰集』


  芭蕉翁一行は多太神社を参拝後、山中の温泉(いでゆ)に向かいました。『曾良旅日記』では直接山中に向かっていますが、『おくのほそ道』本文では、那谷寺に参詣してから山中に向かったように順序が入れ替わっています。

            一 同晩 山中ニ申ノ下尅、着。泉屋久米之助方ニ宿ス。山ノ方、南ノ方ヨリ北へ夕立通ル。
                『曾良旅日記』


  小松城下から北國街道を南下し、一里ほどで今江に至ります。さらに串茶屋、串を経て進むとかつての柴山潟の舟付き場であった月津で、当時の柴山潟は現在より約四倍近くの広さを持った潟湖でした。今江潟、木場潟とともに加賀三湖と呼ばれていましたが、戦後、今江潟と柴山潟の約六割が干拓されて、主に農地として利用されています。

  月津から高塚を過ぎ、柴山潟に流れ込む動橋川に架かっていた橋は一本橋で、渡る際に不安定に揺れたため動橋(いぶりばし)と呼ばれていました。橋を渡って動橋宿を過ぎてから北國街道を離れ、庄、七日市、西島を経て山代温泉に至ります。さらに、河南に出て、大聖寺川左岸と平行する山中道を南下し、二天、中田、上原、塚谷を経て一行が山中の出で湯についたのは、申ノ下尅(午後五時頃)でした。一行は、泉屋(和泉屋)久米之助方に宿をとりました。小松から約六里の行程でした。
  一行が山中の出で湯を訪れたのは、病気の曾良を養生させ、芭蕉自身も長途の旅の疲れを癒やすためでした。
    
                〈山 中〉
                温泉に浴す。その功有明につぐといふ。
                    山中や菊はたおらぬ湯の匂
                あるじとするものは久米之助とていまだ小童なり。かれが父誹諧を好み、洛の貞室、若輩のむかしここに來りし比、風雅に辱
            しめられて、洛に帰て貞徳の門人となつて世にしらる。功名の後、この一村判詞の料を請ずと云。今更むかし語とはなりぬ。
                曾良は腹を病て、伊勢の國長嶋と云所にゆかりあれば、先立て行くに、
                    行行てたふれ伏とも萩の原        曾良
            と書置たり。行くものゝ悲しみ、殘るものゝうらみ、隻鳧のわかれて雲にまよふがごとし。予も又、
                    今日よりや書付消さん笠の露


            ○温泉(いでゆ)
                加賀國江沼郡黑笠庄山中村の山中温泉。小松より約六里。山中の出で湯は、「総湯」の菊の湯を中心に大聖寺川渓谷に沿って
                旅館が建ち並んでいる。天平年中(729〜749)、僧行基(668〜749)によって湯が開かれたと伝えられているが、その
                後、承平の乱(平将門の乱:935〜940)のために途絶えてしまった。文治元年(1185)、源頼朝(1147〜1199)から
                能登国珠洲郡大家荘を新恩給与され、地頭職へ補任された長谷部信連(不詳〜1218)が、鷹狩りの際此の山に入り、傷ついた
                一羽の白鷺が流れに足を浸しているのを見てその下の温泉をみつけ、再興したとしたと伝えられている。

                此のとき、長谷部信連が湯ザヤ(総湯)の周辺に家臣十二人を住まわせたのが、湯本十二軒の始まりだと云われている。芭蕉
                翁一行が宿泊した泉屋(和泉屋)は、草創期から温泉宿を営む十二軒の内の一軒で、当主久米之助は十四歳の少年であっ
                た。俳人でもあった叔父の自笑が後見しており、芭蕉らはこの自笑の招きで泉屋に泊まったものと考えられている。 

            ○有明
                有馬の誤り。摂津の有馬温泉をさす。

            吾國六十よこくの中に、ありとある温場は、普く此二神(大己貴命、少彦名命)の御恵なるべし。それ
            が中にも此温場、世にすぐれたる亊、親りに明かなり。(中略)行幸ありしは舒明天皇三年の秋、同じき十年の冬、又、孝徳天皇の三
            年の冬なりとかや。されば釋の行基、昆陽寺より爰に徘徊せし時、藥師如來、病人と現じ奇特を告げ給うふによて、湯槽をかまへたり
            となむ
                    『有馬名所鑑』


            ○久米之助
                本姓は長谷部氏、和泉屋甚左衛門(1676〜1751)の幼名。この時、芭蕉から桃靑の「桃」を取って桃夭の号を与えられ
                た。

                    加賀山中桃夭に名をつけ給ひて
                桃の木の其葉ちらすな秋の風
                    『泊船集』


            ○かれが父 
                長谷部又兵衛豊連。延寶七年(1679)没。

            洛の安原氏貞室は中年迄はいかいを知ず。一とせ加州山中の湯主いづみや又兵衛といふものに恥しめら
            れ、歸洛して貞徳の末の門人と成。志あつくして終に此人に花の本を譲り、貞室と名乗る
                    『歴代滑稽傳』(正徳五年)

            武矩主は貞室叟に教へ、桃夭主は祖翁に習ふ
                松高き風にさらすや蝉の衣                幾暁
                    『百合野集』(寛延四年)


            ○貞室
                安原正章(1610〜1673)、通称鎰屋彦左衛門。別号、一嚢軒、腐誹子。京都の生まれで、紙商を営む。幼少より貞徳の門に
                出入りし、慶安四年(1651)四十二歳にして貞徳より俳諧の点業を許され、承應二年(1653)師の貞徳が没するや、政治的
                手腕をもって貞門の主導権を握り、翌年、正章より貞室と改号して貞徳二世を名乗った。

            貞室若クシテ彦左衛門ノ時、加州山中ノ湯ヘ入テ宿、泉や又兵衛ニ被レ進、俳諧ス。甚恥悔、京ニ歸テ始習テ、一兩年過テ、名人トナ
            ル。來テ俳モヨホスニ、所ノ者、布而習レ之。以後山中ノ俳、点領ナシニ致遺ス。又兵ヘハ、今ノ久米之助祖父也。
                    『俳諧書留』

            ○風雅に辱しめられて
                俳諧の道で恥辱を受けて。

            予、少年の頃、厳父君、飛驒の吏たりし時、彼國へ陪し、數年遠く遊ぶ亊有。此國、加州と隣なれば、此雑談を里人に聞けり

            貞室は都の商人にて、俗名は鍵屋彦左衛門といへり。口碑に傳る所、都より年々三越路あるは加賀國に往來ふ商客也。然るに此山中へ
            も時々売買に依て來る亊有しに、山中の俳士共打寄て俳諧興行有。宿なれば、彦右衛門をも進めていふ、都人なればさぞな貞徳の門人
            などにてやあらん、いざゝせ給へ、など進めけれども、都に生まれて貞徳の名さへ知らぬ程の不風雅の商客なれば、甚ダ赤面して其席
            を断退ぬ。彦右衛門つらつら思ふに、かく辺鄙の人すら、風流の道は知りぬるに、いかなれば帝都に生まれて斯拙きゆへ、田舎の人に
            恥ずかしめを請る亊よ、と深く我身歎息して、帰京の後、本文の通、我産業を投げうち、貞徳の門人と成て、終に高名の人とはなりぬ
                    『奥のほそ道解』(天明七年) 後素堂(馬場錦江)


                宿で俳諧を勧められたが、その心得がなかったということか。

                しかし、貞室は幼少時より貞徳に親近し、遅くとも寛永二年(1625)十五歳の時には貞徳の私塾に入門し、寛永五年
                (1628)十八歳のころから俳諧を学び始めている。もし、この口碑のような事実があったとすれば、十五ないし十八歳以前の
                ことになるが貞徳の俳諧の初会が寛永六年(1629)のことであり、俳諧の全国的な流行の機運の興る以前のことであるなら
                ば、こうした事実の起こりうる可能性は希有と思われ、貞室の盛名に付会した説話と見なされている。

            ○貞徳
                松永勝熊(1571〜1653)、別号、長頭丸、逍遊軒、延陀丸、明心居士、花咲の翁など。父松永永種(1538〜1598)は摂津
                高槻城主入江政重(不詳〜1541)の子で、没落後松永彈正(1508〜1577)のゆかりをもって松永を称した。連歌師里村紹
                巴(1525〜1602)から連歌を、九条稙通(1507〜1594)や細川幽斎(1534〜1610)から和歌、歌学を学ぶほかに多く
                の良師を得て、古典、和歌、連歌などの素養を身につけた。

                二十歳頃に豊臣秀吉(1537〜1598)の右筆となり、歌人として名高い若狭少将木下勝俊(長嘯子:1569〜1649)を友とす
                る。慶長二年(1597)に花咲翁の称を朝廷から賜り、あわせて俳諧宗匠の免許を許され、「花の本」の号を賜る。元和元年
                (1615)、三条衣の棚に私塾を開いて俳諧の指導に当たり、俳諧を和歌、連歌の階梯として取り上げ、貞門俳諧の祖として俳
                諧の興隆に貢献した。
                家集に『逍遊集』、著作に『新増犬筑波集』『俳諧御傘』などがある。
  
    

        松永貞徳(1571〜1653)

  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 15:13おくの細道、いなかの小道

2017年10月17日

数学セミナー(31)− ロバートソン・ウォーカー計量(1)

  

  

  Diagram of evolution of the (observable part) of the universe from the Big Bang (left) - to the present.

 (旧暦8月28日)

  神嘗祭
  昭和22年(1947)までの祭日。宮中祭祀の大祭で、その年の初穂を天照大御神に奉納する儀式が行われる。かつては旧暦9月11日に勅使に御酒と神饌を授
  け、旧暦9月17日(旧暦)に奉納した。明治6年(1873)の太陽暦採用以降は新暦の9月17日に実施となったが、稲穂の生育が不十分な時期であるため、明
  治12年(1879)以降は月遅れとして10月17日に実施されている。


  観測可能な宇宙、少なくとも距離にして約3億光年よりも遠い宇宙では、どの方向を見ても同じように見えます。
  この等方性は、宇宙マイクロ波背景放射(cosmic microwave background (radiation):CMB)においては更に正確になります。

  宇宙マイクロ波背景放射(CMB)は、宇宙を一様に満たす2.73K(-270.42℃)の黒体放射のことで、1964年にアメリカ合衆国の当時のベル電話研究所
  (Bell Laboratories)のアーノ・アラン・ペンジアス(Arno Allan Penzias, 1933〜)とロバート・ウッドロウ・ウィルソン(Robert  Woodrow  
  Wilson,1936〜 )によってアンテナの雑音を減らす研究中に偶然に発見されました。

  

  Penzias and Wilson stand at the 15 meter Holmdel Horn Antenna that brought their most notable discovery.

  現在では、ビッグバン宇宙論の最も重要な観測的証拠とされています。

  初期宇宙の気体を構成する分子が部分的または完全に電離し、陽子と電子に別れて自由に運動しているプラズマ状態では、放射は陽子や電子などの荷電粒子と頻繁に衝突を繰り返し、放射と物質は一体となって運動していました。

  温度が約4,000 K (3,726.85℃)に下がった時、陽子が電子を捕獲して中性水素原子を作った結果、放射は物質と衝突せずまっすぐ進めるようになり、この時の放射が宇宙膨張によって波長が伸びて、現在2.73K(-270.42℃)の放射として観測されたのが宇宙マイクロ波背景放射であると説明されています。

  

  All-sky mollweide map of the CMB(cosmic microwave background), created from 9 years of WMAP(Wilkinson Microwave Anisotropy Probe) data.

  さて、宇宙が等方性をもち、かつ一様であるという仮定により、時空の計量(リーマン幾何学において、空間内の距離と角度を定義する階数2のテンソル)が単純な形となる座標系を選ぶことができます。

  この計量は、1922年、旧ソビエトの宇宙物理学者・数学者のアレクサンドル・アレクサンドロヴィチ・フリードマン(Александр Александрович Фридман, 1888〜1925)が、アインシュタインの場の方程式の解として、膨張宇宙のモデルを定式化したことで知られています。

  

  Alexander Alexandrowitsch Friedmann(1888〜1925)

   1924年1月7日にブリュッセル科学アカデミーによって出版されたフリードマンの論文 “Über die Möglichkeit einer Welt mit konstanter negativer Krümmung des Raumes”『負の定数曲率を持つ宇宙の可能性について』において彼は、正、ゼロ、負の曲率を持つ3つの宇宙モデル(フリードマンモデル)を取り扱っています。

  



  やはり、1920年代に、アメリカ合衆国の数学者・物理学者ハワード・ロバートソン(Howard Percy Robertson、1903〜1961)とイギリスの数学者アーサー・ジョフリー・ウォーカー(Arthur Geoffrey Walker、1909〜2001)は、別々に、等方性と一様性の仮定のみから、アインシュタインの場の方程式の解を導いています。

  


  したがって、ほぼ全ての現代宇宙論においては、最低でも第1近似として、このロバートソン・ウォーカー計量を用いているとされています。

  ロバートソン・ウォーカー計量においては、3次元空間の構造は以下のように仮定します。
    ①3次元空間は、一様(homogeneousu)に広がっている
    ②3次元空間は、どの方向も同じ(等方的:isotropic)


  これら2つの仮定は、宇宙原理(cosmological principle)と呼ばれています。

  物理学では時空のひとつの点を表すのに、4つの座標を用います

  

  前にも示したように、計量テンソル(metric tensor)は、リーマン幾何学において、空間内の距離と角度を定義する階数2のテンソルです。
  ここで宇宙の計量を、

  

とおきます。
 
  物理法則がすべての可能な座標系に対して同一の形式で成立するためには、一般相対性理論(Allgemeine Relativitätstheorie)では、

  

  これは、宇宙原理(cosmological principle)に従うと、任意の点のまわりで球対称にならなければならないので、以前、シュバルツシルト(Karl Schwarzschild:1873〜1916)の特殊解を求めた時と同じように、球対称で自転せず、かつ真空な時空という条件は、以下のようになります。

    続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 20:53Comments(0)数学セミナー

2017年10月14日

奥の細道、いなかの小道(36)− 小松

 

 (旧暦8月25日)

  

      小松おくの細道マップ

    〈小 松〉
          小松といふ所にて 
        しほらしき名や小松ふく萩すゝき
    この處、太田の神社に詣。真盛が甲・錦の切あり。往昔、源氏に属せし時、義朝公より給はらせ給とかや。げにも平士のものにあらず。目庇より吹返し
    まで、菊から草のほりもの金をちりばめ、竜頭に鍬形打たり。真盛討死の後、木曽義仲願状にそへて、この社にこめられ侍よし、樋口の次郎が使せし亊
    共、まのあたり縁記にみえたり。
        むざんやな甲の下のきりぎりす


    ○太田の神社
        多太神社。現在の小松市本折町にある延喜式内社。祭神は、衝桙等乎而留比古命、仁徳天皇、應仁天皇、神功皇后、比咩大神、軻遇突智神、蛭
        児命、大山咋命、素盞嗚命、継体天皇、水上大神。

    抑当社多太八幡宮ハ、元正天皇御宇、養老二年の御鎮座にて、壽永二年五月、(中略)義仲卿当社へ御参詣、御祈禱のため、社領蝶屋の庄御寄付。(中
    略)慶長年中、小松の城主丹羽長重朝臣より当社の領に能美郡舟津村を寄付し給ふ。長重奥州へ移り給て後、元和二年、小松黄門公より御印物を以、同
    郡三日市村の内にて御寄付也
        『加州小松八幡宮寶物縁起』


    ○真盛
        長井別當斎藤実盛(1111?〜1183)。山蔭利仁流、越前国河合荘南井郷を支配していた河合斎藤次郎則盛の子として生まれ、長じて武蔵国長
        井斎藤籐太實直の養子となり、養父の「實」と実父の「盛」の字をとって「實盛」と名乗る。
        初め左典厩源義朝(1123〜1160)に仕えて保元の乱、平治の乱に従軍したが、義朝滅亡後、母方の縁で平宗盛(1147〜1185)に仕え、壽永
        二年四月、木曾義仲追討の戦の出陣に際しては、宗盛より錦の直垂の着用の許しを請い、白髪を染めて奮戦し、加賀篠原で木曾義仲の臣、手塚
        太郎光盛(不詳〜1184)の手にかかって討ち死にした。

    

      『前賢故実』による斎藤實盛

    真盛ハ、〈或ハ實盛ト書ス〉斎藤別當ト號ス。越前ニ生ル。始ハ、源義朝ニ属シ、後ニ平宗盛ニ随ヒ、加州篠原ノ合戰ニ死ス。出生ノ地ハ、吾ガ住
    ム丸岡ヨリ十町余北ニ長畝ト云フ村アリ、此地ニテ生ルト云フ。今、真盛屋敷〈今、竹林トナル。廻リ一里バカリ。〉産湯池ナド云フ蹟アリ。篠原
    モ今、村名トナル。加州大聖寺驛ヨリ三里許西北ノ海邊ナリ。村ノ西、松林ノ中ニ真盛塚アリ。其北入江ノ中ニ首洗池ノ蹟ト云フアリ。
        『奥細道菅菰抄』


    ○甲   
        銘、鏤菊。明治三十三年国宝、昭和二十五年に重要文化財に指定。甲はよろいの義で、かぶととするのは和の俗訓。
  
    甲ハ本、冑ノ字、兜ノ字等ヲ用ユベシ。〈鉀ノ仮音ナリ〉和俗、甲冑ノ二字ヲ涀等して顚倒シテ用ユル亊久シ
        『奥細道菅菰抄』


    鎧甲 二字の義同ジ。然ルニ日本ノ俗、甲呼テ冑ノ讀ト爲ス、大ニ誤歟。或ハ天下ノ勝亊ヲ呼テ天下ノ甲ト曰フ者、義、甲乙ノ甲ニ取ル。甲冑ノ甲
    ニ非ズ。
        『下学集』(原漢文)


    茲利仁將軍之末葉實盛、乃越前國之賢君子也。文思武威、炫輝于一世、先是義朝贈以鍵菊甲、褒美之。當此時、義朝守國日殘、賊徒鋒起。實盛輒戴  
    所受甲殺精鋭之兵七千余人、以報恩。
        『木曾義仲副書』

    茲ニ利仁將軍之末葉實盛ハ乃チ越前ノ國之賢君子也。文思武威、一世ニ炫輝ス。是ヨリ先、義朝贈ルニ鍵菊ノ甲ヲ以テシテ、之ヲ褒美ス。此時ニ當
    タリテ、義朝國ヲ守ルコト日殘ク、賊徒鋒起ス。實盛輒チ受クル所ノ甲ヲ戴キ、精鋭之兵七千余人ヲ殺シテ、以テ恩ニ報ズ。


    各甲冑根元は、多田満仲公より源家累代御傳來、實盛へは平治の亂の節義朝公より拝領のよし、即ち各願状にも其趣あり
        『加州小松八幡宮寶物縁起』


    ○錦の切
        錦は金糸および諸種の彩糸を紋織りにした厚地の絹織物。切れはその断片で、もと實盛が平宗盛より直垂として下賜されたものという。

    錦の直垂〈此直垂は京都出陣の砌、平宗盛卿より拝領也〉
        『加州小松八幡宮寶物縁起』


    鎧直垂は、大將平士に通じて是を用ひ、錦は大將に限りしこと、古今同じきならん
        『柳葊雑草』巻二


    錦ノ帛ハ、宗盛ヨリ真盛ヘ賜ル所ノ赤地錦ノ直衣ノ切ナリ。本ハ直衣ノママニシテ義仲ヨリ奉納有リシヲ、イツトナク切リ取リシ由、今ハ僅ニ縦二
    尺、横一尺許ノコル。織文ハ白萌黃ナドニ金ヲ雑テ、雲文、鳥文アリ
        『奥細道菅菰抄』


    ○義朝公
        左典厩源義朝(1123〜1160)、河内源氏の一族、六条判官源爲義(1096 〜1156)の長男。源頼朝(1147〜1199)の父。保元の乱  
        (1156)に後白河法皇(1127〜1192)に味方して、乱後左馬頭になったが、平清盛(1118〜1181)の勢威の上がるのに不満を抱き、悪右
        衛門督藤原信頼(1133〜1160)と結んで平治の乱(1160)を起こし敗北、尾張野間の長田庄司忠致(不詳〜1190?)のもとで謀殺された。

    

        『平家物語絵巻』 平治の乱で敗走する義朝一行。


    ○龍頭  
        兜の前面中央の立物(飾り金具)で、龍の頭の形をしたもの。

    龍頭の冑とイフ物、後三年ノ戰ノ日、八幡殿ノツクラレシ八龍の冑ニヤ始マリヌラン。保元の時義朝ノ着セラレシ龍頭ノ冑、スナハチ此ノ物也
        『本朝軍器考』 新井白石


    ○鍬形
        兜の前面左右の立物。

    鍬形トイフ物ハ、澤潟ノ葉ノイマダ開カヌ形ヲカタドレル也、オモダカトイフ物ハ、勝軍草トモイフナレバ、鎧ニモ澤潟縅ナドイフアリトイヘル説ア
    リ。マコトニ其ノ形ハヨク似タレド、カゝル名モアリケリトイフ亊イマダ見ル所ナケレバ、イブカシ。蝦夷人ノ寶トスル鍬サキト云フアリ。國ノ人病ス
    ル時、其ノ枕上ニ立テ災ヲ攘フ物也ト云フ。其ノ形、我ガ國ノ鍬形ノ制ナル物也。サラバ我ガ國ノ昔ヨリ此ノ物ヲ冑ノ物ニ立テシ亊モ、必ズ其ノ故アル
    ベケレド、今ハ其ノ義ヲ失ヒシニコソ
        『本朝軍器考』 新井白石


    くはがたは、くわゐと云ふ草の葉の形なり。くはへと取りなして、物のくはゝり増すこゝろにて、祝の義にて、古よりもちひ來れるなり。立物
    は皆金にてみがくべし。鍬形の長さ一尺二寸、但、人の器量により長くも短くもすべし。不定
        『軍用記』 伊勢貞丈


    ○木曾義仲
        源義仲(1154〜1184)、河内源氏の一族、東宮帯刀先生源義賢(不詳〜1155)の次男。久壽二年(1155)八月、武蔵国比企郡大蔵(比企郡
        嵐山町)において鎌倉悪源太源義平(1141〜1160)の弑逆により父義賢を失ったが、秩父氏の一族、畠山重能(生没年不詳)の庇護を受け、
        乳父である権頭中原兼遠(不詳〜1181?)の腕に抱かれて信濃国木曽谷に逃れ、兼遠の庇護下に育ち、通称を木曾次郎と名乗った。
    
        治承四年四月、叔父の新宮十郎源行家(1141頃〜1186)より以仁王(1151 〜1180)の平氏追討の令旨を受け挙兵、壽永二年(1183)三月
        越後國府を進発して、五月倶利伽羅の険を突破、七月入京して平氏を西国に追い落としたが、朝野の人望を失い、壽永三年正月二十日、蒲冠者
        源範頼(1150?〜1193?)、九郎判官源義経(1159〜1189)の軍勢に近江粟津で敗死した。

    

        木曾義仲像(徳音寺所蔵)

    ○樋口の次郎
        樋口兼光(不詳〜1184)は、平安末期の武将で、権頭中原兼遠(不詳〜1181?)の次男。今井兼平(1152〜1184)の兄。木曾義仲の乳母子
        にして股肱の臣。木曾四天王の一人。信濃國筑摩郡樋口谷(木曽町日義)に在して樋口を称した。
        壽永二年五月、礪波山の戦いに小松三位中將平維盛(1158〜1184)の軍を破り、同三年正月、河内國石川城を攻略するも同年一月の粟津の戦
        いでの木曾義仲の打ち死に後、武蔵児玉党の説得に応じ、児玉党に降った。しかし、後白河法皇と木曾義仲が対立した壽永二年十一月の法住寺
        合戦の責めを負い、朱雀大路で斬罪に処せられた。

    

        樋口兼光(徳音寺所蔵)

  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 11:03Comments(0)おくの細道、いなかの小道

2017年10月04日

奥の細道、いなかの小道(35)− 金澤

  

    高野素十(1893〜1976)

  (旧暦8月15日)

  素十忌
  俳人高野素中(1893〜1976)の昭和五十一年(1976)の忌日。本名與巳(よしみ)。医学博士。高浜虚子に師事し、虚子の唱えた「客観写生」のおしえを
  忠実に実践したものと考えられている。彼は季語が内包している象徴的なニュアンスを尊重し、それらのニュアンスの作り出すスクリーンの上に事物の映像
  を映しだすような創作態度をとったと評されている。
      方丈の大庇より春の蝶
      くもの糸ひとすぢよぎる百合の前
      ひつぱれる糸まつすぐや甲虫
      甘草の芽のとびとびのひとならび
      翅わつててんたう虫の飛びいづる
      づかづかと来て踊子にささやける
      空をゆく一とかたまりの花吹雪


      〈金 澤〉
      卯の花山・くりからが谷をこえて、金澤は七月中の五日也。爰に大坂よりかよふ商人何處と云者有。それが旅宿をともにす。一笑と云ものは、此
      道にすける名のほのぼの聞えて、世に知人もはべりしに、去年の冬早世したりとて、其兄追善を催すに、
          塚も動け我泣声は秋の風
            ある草庵にいざなはれて 
          秋涼し手毎にむけや瓜茄子
            途中吟
          あかあかと日は難面もあきの風


  

    芭蕉真蹟

      ○卯の花山
      卯の花山は、くりから山の續きにて、越中礪波郡となみ山の東に見えたり。源氏が嶺と云あり。木曾義仲の陣所なり。義仲の妾巴、葵〈俗に山吹女
      と云〉二人が塚も此あたりに有。卯の花山は、名所なり。
          『奥の細道菅菰抄』


      卯花山 越中

      玉葉夏       かくばかり雨の降らくに時鳥  卯花山になほか無くらむ           人麻呂
      風雅夏       朝まだき卯花山を見わたせば  空はくもりてつもる白雪          前大納言治經房
      新千載夏    郭公卯花山に屋すらひて  そらに知られぬ月になくなり          二品法親王守覺
      同              明けぬともなをかけ殘せ白妙の  卯花山のみしかよの月       中務卿宗尊親王
          『類字名所和歌集』 巻四 卯花山


  

    『類字名所和歌集』 巻四 卯花山

      ○くりからが谷  
      くりからが谷は、くりから山の谷を云。くりから山は、越中今石動の驛と加賀竹の橋の宿のとの境にありて、嶺に倶利伽羅不動の堂あり。故に山の
      名とす。今或は栗柄山共書ク。平家と木曾義仲と合戦の地、一騎打と云て、岩の間の道至て隘き所あり。此山の麓、越中の地、羽生村といふに、八
      幡宮あり。木曾義仲、大夫房覺明をして、平家追討の願書を書しめ、奉納ありし神社にて、其願書、今に存す。


      ○何處
      大坂人。享保十六年亥六月十一日卒。光明山念佛寺葬
          『芭門諸生全傳』 遠藤曰人


      ○一笑
      加賀金澤の人。小杉味頼(1653〜1688)。通称、茶屋新七。金澤片町に葉茶屋を営むかたわら、初め貞門七俳仙のひとり高瀬梅盛(1619〜 
      1701)に学び、後に蕉風に帰している。寛文以来、松江重頼(1602〜1680)、北村季吟(1625〜1705)、高瀬梅盛(1619〜1701)、富尾似
      船(1629〜1705)、江左尚白(1650〜1722)らの諸撰集に入集、ことに江左尚白の『弧松』(貞享四年)には百九十四句が入集し、加賀俳壇の
      俊秀として聞こえた。芭蕉の来訪を待たず元禄元年十一月六日没、享年三十六。

      加刕金澤の一笑は、ことに俳諧にふけりし者也。翁行脚の程、お宿申さんとて、遠く心ざしをはこびけるに
          『雑談集』 其角


      ○其兄
      小杉丿松(べつしよう)。元禄二年七月二十二日、金澤野町の小杉家菩提寺願念寺にて一笑の冥福を祈って句会を催し、その折の句を主に追善集
      『西の雲』(元禄四年刊)を刊行した。

       ○塚も動け我泣声は秋の風
      とし比(ごろ)我を待ちける人のみまかりけるつかにまうでゝ
        つかもうごけ我泣聲は秋の風



      一  十五日 快晴。高岡ヲ立 。埴生八幡ヲ拝ス。源氏山、卯ノ花山也。クリカラヲ見テ、未ノ中刻、金沢ニ着。
        京や吉兵衛ニ宿かり、竹雀・一笑へ通ズ、艮(即)刻、竹雀・牧童同道ニテ来テ談。一笑、去十二月六日死去ノ由。
          『曾良旅日記』


  旧暦七月十五日(陽暦八月二十九日)、芭蕉翁一行は倶利伽羅峠を越え、竹橋宿、杉瀬、津幡宿をへて北國街道を左折し、岸川、花園、八幡、月影をすぎて金澤城下への北の入口大樋口に至りました。金腐川を渡ると、左手前方には卯辰山麓の寺々の甍が連なり、一行は浅野川の小橋下流右岸近くで酒屋業を営む京屋吉兵衛宅に宿をとりました。

  一行は、北国筋を往来する大坂道修町の薬種商何處の助言に従い、同宿することにしました。何處は、向井去來(1651〜1704)と野沢凡兆(1640〜1714)が編集した蕉門の発句・連句集で、蕉門の最高峰の句集であるとされる『猿蓑』にも入集する俳人で、金澤での奇遇でもありました。

  高岡から金澤までは十一里強の道程と云われ、未ノ中刻(午後二時頃)に金澤に到着したと云うから、馬を使ったのではないかと考えられているようです。
  京屋吉兵衛宅で、芭蕉は早速金澤在住の門人竹雀と一笑とに使いを出して、金澤到着を知らせようと連絡をとりました。竹雀(亀田武富)は、通称を宮竹屋喜左衛門といい、河原町(片町)で旅籠業を営み、のちに金澤俳壇で活躍する亀田小春、通称宮竹屋伊右衛門の次兄にあたっていました。小杉一笑は、宮竹屋の向かい側で薬茶屋を営んでおり、当時金澤俳壇の俊英で、芭蕉翁の金澤来遊の目的の一つは、この一笑に会うことであったといいます。


  連絡を受けた竹雀は、牧童(立花彦三郎)を伴ってやってきました。牧童は北枝(立花源四郎)の兄で、弟北枝とともに刀研師として加賀藩の御用を勤めていました。
  芭蕉翁は竹雀と牧童から、一笑が昨年、元禄元年(1688)十二月六日に死去したことを知らされ、大いに落胆したものと思われます。

  芭蕉翁は竹雀、牧童を相手に、久しぶりに俳人らしき一夜を語り明かしたことでありましょう。

  芭蕉翁一行が金澤に着いた日は盂蘭盆会で、曾良の『俳諧書留』に「盆」と前書きして、
    熊坂が其名やいつの玉祭り  翁
の句が記載されています。
 
      一  十六日 快晴。 巳ノ刻、カゴヲ遣シテ竹雀ヨリ迎、川原町宮竹や喜左衛門方へ移ル。段々各來ル。謁ス。
          『曾良旅日記』


  旧暦七月十六日(陽暦八月三十日)、芭蕉翁一行は河原町(片町)の旅籠宮竹屋竹雀に招かれ、巳ノ刻(午前十時頃)に駕籠で浅野川を渡って、当時御城下随一の繁華街尾張町を通り、近江町市場のある武蔵が辻を曲がり、香林坊を経て河原町(片町)に着きました。

  芭蕉が金澤を訪れた時は、歴代藩主の中でも文化政策を最も推進した四代藩主前田綱紀(在任1645〜1723)の代でした。
  綱紀は藩内に学問、文芸を奨励し、紙・木・竹・染織・革・金属の素材を加飾する工芸技術百般の各種標本をつくらせ、「百工比照」と呼ばれる工芸標本として集大成させました。さらに古今の文献類の蒐集保存につとめ、また、儒学者木下順庵(1621〜1699)、室鳩巣(1658〜1734)、稲生若水(1655〜1715)らを招聘し、彼らの助けのもとで綱紀自らが編纂した『桑華学苑』(百科事典)を著しています。

  芭蕉の金澤来訪を知った地元の俳人達が続々と宿舎に挨拶に訪れ、彼らと面談しています。その中には、亀田竹雀、立花牧童、斎藤一泉、服部高徹、立花北枝、亀田一水、小杉丿松、小野雲口、河合乙州、徳子らの名が、『曾良旅日記』に記載されています。
   続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 09:45Comments(0)おくの細道、いなかの小道

2017年09月26日

奥の細道、いなかの小道(34)− 一振、邦古の浦(2)

  

    葛飾北斎畫 芭蕉之像

    (旧暦8月3日)

    奥の細道、いなかの小道(33)− 一振、邦古の浦(1)のつづき

    ○担籠の藤浪 
    担籠は歌枕で、汐を汲む桶のことを指しますが、地名としては、現在の富山県氷見市に「田子浦藤波神社」があって、その辺りとされています。
    同じく『類字名所和歌集』元和三年(1617)刊には、歌枕『多枯浦』は六首が挙げられています。

    多枯浦   磯   入江   越中   射水郡   駿河同名有

    拾遺夏                    多枯浦の底さへ匂ふ藤波を  かざして行かむ見ぬ人のため            柿本人麿
    新古今雑上             をのが波に同じ末葉ぞしをれぬる  藤咲くたこの恨めしの身や         慈圓
    玉葉雑一                沖つ風吹きこす磯の松が枝に  あまりてかかる多枯の浦藤              前關白左大臣
    新後拾遺雑春          早苗取たこの浦人此ころや  も塩もくまぬ袖ぬらすらむ                   前左兵衛督教定
    新續古今春下          此のころはたこの藤波なみかけて  行てにかさす袖やぬれなむ       土佐門院
        『類字名所和歌集』 巻三

    
  

    『類字名所和歌集』元和三年(1617)刊 巻三 多枯浦

    多胡の浦  景物  藤を専によめり
        『國花萬葉記』 巻十二

    那古、担籠は、皆越中射水郡の名處にて、那古の湖は、放生津と云。濱町の北に有。名處方角抄には、奈古と書り。なごの海の汐のはやひにあさりにし
    出んと鶴は今ぞ鳴なる。〈此の外古歌多し〉

    担籠は、歌書に多古、多胡等の字を用ゆ。〈たこの二字すみてよむべし。駿河の田子の浦に紛るゝ故なり〉海邊氷見の町の北、布施の湖のほとり、〈布
    施のうみも名處なり〉今田となる。拾遺、多胡のうら底さえ匂ふ藤なみをかざして行ん見ぬ人のため、人丸(麻呂)。此藤のかたみとて、今猶しら藤あ
    り。此上の山に、大伴家持の館の跡あり。

    友人靑木子鴻の説に、たこは、担籠と書を正字とすべし。担籠は、潮汲桶の名。此處は、海邊なれば担籠にて潮をくみ、焼て塩となす。故に担籠のう
    らと稱す。塩やく浦といふ心也。多古、多胡、多枯等は、皆仮名書なり。駿河の田子の浦も、是に同じ。故に續日本紀ニ、駿河國従五位下楢原造東等、
    於部内廬原郡多枯浦濱獲黃金献之、と有。然れば、たこの浦は、越中、駿河ともに何れの字を用ても苦しからず、と見えたり、といへり。
        『奥細道菅菰抄』 簑笠庵梨一 撰



    ○初秋(はつあき)の哀とふべきものを
    たとい古歌に詠まれている藤の花咲く春ではなくとも、今の初秋の情趣を尋ねて一見すべき値打ちはあろうものを、との意。

    ○蜑の苫ぶき
    漁師の苫葺きの家。

    ○蘆の一夜
    「蘆の一節(ひとよ)」に「一夜」を言い掛けたもの。

    千載集戀三    難波江の蘆のかり寝のひとよゆゑ  身をつくしてや戀ひわたるべき    皇嘉門院別當

    ○わせの香や分入右は有磯海

    季語は「早稲」で、秋七月。「わせの香」は、熟した早稲の穂から漂ってくるかすかな香りで、米所越中の国土の豊かさを、細やかな感覚で表したも
    の。

    「有磯海」は「荒磯海」の約で、岩が多く波の荒い海岸を控えた海の意味を表す普通名詞だったが、『萬葉集』などの詠により、歌枕としての固有名詞
    とされるに至ったもの。

  

    有磯海

   
    可加良牟等 可祢弖思理世婆 古之能宇美乃 安里蘇乃奈美母 見世麻之物能乎
    かからむとかねて知りせば越の海の  荒磯の波を見せましものを    大伴宿禰家持

    之夫多尓能 佐伎能安里蘇尓 与須流奈美 伊夜思久思久尓 伊尓之敝於母保由
    澁谿の崎の荒磯に寄する波  いやしくしくに古へ思ほゆ            大伴宿禰家持

    伏木の浦は、奈古の入江に續きて、北の方は有磯の濱近し。此處よりすべてありそ海といふなるべし。
        『白扇集』寶永六年刊 浪化上人

 
    ○十四日 快晴。暑甚シ。富山カヽラズシテ(滑川一リ程来、渡テトヤマへ別)、三リ、東石瀬野(渡シ有。大川)。四リ半、ハウ生子(渡有。甚大川
    也。半里計)。 氷見へ欲レ行、不レ往。高岡へ出ル。二リ也。ナゴ・二上山・イハセノ等ヲ見ル。高岡ニ申ノ上刻着テ宿。翁、気色不レ勝。 暑極テ甚。不
    快同然。
        『曾良旅日記』


  旧暦七月十四日(陽暦八月二十八日)、快晴で残暑が厳しい中、芭蕉翁一行は滑川を出立して北國街道を西進し、上市川を徒歩で渡りました。滑川の次の宿場水橋は、北前船や千石船(辨財船)の寄港地水橋湊として重要な海運港でした。

  曾良は「富山カヽラズシテ」と記しているように、水橋から富山城下への道はとらずに、白石川を渡り、水橋辻ヶ堂から海岸に沿って氷見まで通ずる「濱街道」を通り、常願寺川を舟で渡って東岩瀬に向かいました。

  神通川河口の岩瀬は、江戸期には加賀藩の御蔵が置かれ、北前船で米や木材などを大阪や江戸などに運んでいました。

  そしてこの旧上新川郡東岩瀬町より旧上新川郡浜黒崎村横越に及ぶ富山湾沿いの海浜に面する総計約二里の「古志の松原」は、慶長六年(1601)に加賀藩第二代藩主前田利長(1562 〜1614)がその植樹を命じたもので、かつてのこの一帯は「越中舞子」と呼ばれる白砂青松の風光明媚な景勝地でした。

  一行は東岩瀬宿から神通川を舟で渡り、四方、海老江の集落を経て放生津に到り、放生津八幡宮を参詣しました。
  放生津の北の「越の海」一帯が放生津潟(越の潟)で、古くは「奈呉浦」と呼ばれ、伏木の浦から西方氷見に至る一帯が有磯海と考えられています。
  放生津の放生津八幡宮(射水市八幡町二丁目)は社伝によれば、天平十八年(746)、越中國司大伴家持(718頃〜785)が豊前國宇佐八幡宮から勧請した奈呉八幡宮を創始として、嘉暦三年(1328)に放生津の地名が定められ、以降、放生津八幡宮として現在に至っていると伝えられています。
 
  大伴家持は二十九歳の天平十八年(746)七月、國司として越中國に赴任し、その雄大な自然と風土にふれて、天平勝寶三年(751)までの在任五年間で、二百二十余首の歌を詠み、奈呉、奈呉の海、奈呉の江、奈呉の浦を詠んだ秀歌を残しています。

  芭蕉の越中歌枕探訪は、大伴家持の歌を追憶するに留まり、同席して俳諧を楽しむ者に出会うこともなかったので、歌枕の一つ「有磯海」を句に詠むのが精々の慰めであったのであろうかとの解説もあります。

  放生津八幡宮に参詣し、奈呉の浦の風景を楽しんだ芭蕉翁一行は濱街道を西に進み、庄川や小矢部川を舟で渡り、歌枕の二上山(高岡市)や担籠藤波神社(氷見市下田子)に行く予定でありましたが、そこは漁師の粗末な茅葺きの家ばかりで、一夜の宿を貸す者もいないと言い脅されたので、断念して加賀國に入ったと本文に書き記しています。

  芭蕉翁一行が訪れることを断念した担籠藤波神社は、かつては潟湖の岸辺にあったと云い、現在は雨晴海岸(高岡市太田)あたりから3㎞ほど内陸に入った下田子の藤山という丘陵に鎮座しています。
  この古社は、天平十八年(746)、越中國司大伴家持に従ってきた橘正長が、家持から授けられた太刀を天照大神祭の霊代として奉納し、劔社と名付けて創始したのがはじまりと伝えられています。

  このあたりは、『萬葉集』に出てくる「布勢の水海」の入江の一つで、田子浦(多胡の浦)という歌枕にもなっており、古来から藤の名所でもありました。

    十二日遊覧布勢水海船泊於多祜灣望見藤花  各述懐作歌四首
    藤奈美乃  影成海之  底清美  之都久石乎毛  珠等曾吾見流

    藤波の影なす海の底清み  沈(しづ)く石をも  玉とぞ我が見る     守大伴宿祢家持

  田子浦は、かつては田子の白藤の群生地として知られ、藤の精が現れて舞を舞って暁とともに消えて行くという、謡曲『藤』の舞台でもありました。

  田子浦は現在、雨晴海岸と呼ばれていますが、此の由来は、文治三年(1187)、源義経(1159〜1189)が北陸路を経て奥州平泉へ下向する際にこの地を通りかかったときに俄雨に遭い、弁慶が岩を持ち上げて義経を雨宿りさせたという伝説から来た名称だと云われています。

  海岸には女岩、男岩などが点在し、越の海越しに雄大な立山の山並みを背景にして、絶景を作り出しています。越中國司として伏木に在住した大伴家持が、此の絶景を詠んだ多くの和歌が『萬葉集』に収められています。

    馬並氐  伊射宇知由可奈  思夫多尓能  欲吉伊蘇未尓  与須流奈弥見尓
    馬並めていざ打ち行かな澁谿の  清き磯廻に寄する波見に     守大伴宿祢家持

  芭蕉翁一行は萬葉の故地として、かねてより心を寄せていた田子浦を訪ねようとしましたが果たせず、諦めて庄川を舟で渡って六度寺に入り、道を南西に向かい、右手に歌枕の二上山を遠望しながら、吉久、能町を経て、申ノ上刻(午後四時頃)に高岡に着き、旅篭町に宿をとりました。

  曾良は、「翁、気色不レ勝。 暑極テ甚。小□同然。」と記しています。□は原文難読で、残暑の酷しい中を十里弱歩き続けたため、体調を崩してしまったのかもしれません。

  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 21:55おくの細道、いなかの小道

2017年09月14日

奥の細道、いなかの小道(33)− 一振、邦古の浦(1)

    

      正岡子規(1867〜1902)


    (旧暦7月29日)

  子規忌、糸瓜忌、獺祭忌
  俳人、歌人の正岡子規(1867〜1902)明治三十五年(1902)九月十九日の忌日。辞世の句に糸瓜を詠んだことから糸瓜忌、獺祭書屋主人という別号を使っていたことから獺祭忌とも呼ばれる。

  芭蕉翁一行は糸魚川を昼過ぎに出立し、難所の子不知、親不知を通って申ノ中尅(午後4時頃)には市振の旅籠桔梗屋(脇本陣)に到着しているので、糸魚川〜市振間の約五里ほどを4時間弱で踏破したことになるのでしょうか、相当の健脚と云わねばなりますまい。

      〈一 振〉
      今日は親しらず・子しらず・犬もどり・駒返しなど云北國一の難處を越て、つかれ侍れば、枕引よせて寐たるに、一間隔て面の方に、若き女の声 
      二人計ときこゆ。年老たるおのこの声も交て物語するをきけば、越後の國新潟と云所の遊女成し。伊勢参宮するとて、此關までおのこの送りて、あ
      すは古郷にかへす文したゝめて、はかなき言伝などしやる也。白浪のよする汀に身をはふらかし、あまのこの世をあさましう下りて、定めなき契、
      日々の業因、いかにつたなしと、物云をきくきく寐入て、あした旅立に、我々にむかひて、「行衛しらぬ旅路のうさ、あまり覚束なう悲しく侍れ
      ば、見えがくれにも御跡をしたひ侍ん。衣の上の御情に大慈のめぐみをたれて結縁せさせ給へ」と、泪を落す。不便の事には侍れども、「我々は
      所々にてとヾまる方おほし。只人の行にまかせて行べし。神明の加護、かならず恙なかるべし」と、云捨て出つゝ、哀さしばらくやまざりけらし 。
            一家に遊女もねたり萩と月
      曾良にかたれば、書とゞめ侍る。

   
    

       市  振

  『おくのほそ道』のこの文章は、芭蕉の創作ではないかと推定されています。曾良の旅日記にも市振宿で遊女と出会った記録はなく、『俳諧書留』にもこの句は収載されていません。

  この遊女との出会いの物語は、謡曲「山姥」(世阿彌作)を下敷きに創作したのではないかと考えられています。

      都に山姥の山廻りの曲舞(くせまい)で有名な百萬(ひゃくま)山姥と呼ばれる白拍子がいた。
      ある時、百萬山姥が信濃國善光寺に参詣を思い立ち、従者を連れて旅に出た。途中、越後の上路(あげろ)という山路にさしかかったところで急に
      日が暮れてしまい、途方に暮れていると一人の女が現れ、一夜の宿を提供するからと山中の我が家へ一行を案内する。家に着くとその女は、実は 
      自分が山姥の霊であることを明かし、百萬山姥が曲舞で名を馳せながら、その本人を心に掛けないことが恨めしい、と言う。


      道を極め名を立てて、世上萬徳の妙花を開く事、この一曲の故ならずや、しからばわらはが身をも弔ひ、舞歌音楽の妙音の、声佛事をもなし給は 
      ば、などかわらはも輪廻を免れ、歸性の善處に至らざらん


      ここで百万山姥の曲舞を聞いてこの妄執を晴らしたい、と歌の一節を所望してその姿を消す。

      我國々の山廻り。今日しもここに來るは。我が名の徳を來かん爲なり。謡い給いてさりとては。我が妄執を晴らし給え。

      百萬山姥が約束通り、山姥の曲舞を始めると真の山姥が姿を現する。そして本当の山姥の生き様を物語り、山廻りの様を見せるが、いつしか峰を翔
      リ、谷を渡って行く方知れず消え失せる。 
          宝生流謡曲 「山 姥」


    

    山姥  『畫圖百鬼夜行』  安永五年(1776)刊  鳥山石燕

  この舞台となっている「上路越え」は、親不知の海道が通れない非常時に使われた険しい峠道となっています。芭蕉はこの謡曲を知っていたので、後年、『おくのほそ道』の起稿に際して、加筆した虚構の一つと考えられています。

  さて、市振宿での遊女との出会いが創作ではないかと考えられていることについては、以下のような理由によることだそうです。

    face01①  当時の時代背景を考慮すると、遊女二人だけで伊勢参宮のために長旅をすると云うことはありえない。

    face02②  遊女にそのような旅をする資金や暇があったとは思えず、仮にあったとしても、女性だけの旅には特に厳しかった時代である。

    face03③  市振は越後・越中の国境の宿場であり、芭蕉應一行が泊まった宿は脇本陣の旅籠桔梗屋で、身分制度の厳しい時代に遊女が脇本陣に泊まるとは考えられない。

    face05④  元禄二年(1689)は伊勢神宮の式年遷宮があった年で、『おくのほそ道』の終章「長月六日になれば、伊勢の遷宮おがまんと」に関わりを持たせるために、「越後の國新潟と云處の遊女成し。伊勢参宮するとて」を創作挿入したのであろうか。

      ○白浪のよする汀に
      湊町新潟を叙情的に表したもので、『和漢朗詠集』遊女の下記の歌を踏まえたものとされています。
 
      しらなみのよするなぎさに世をすぐす あまのこなればやどもさだめず
                      読人不知
            下巻 雜 遊女

 
      ○定めなき契り
      夜ごとに変わる相手に身を任せることで、『撰集抄』巻九第八話「江口遊女事」を下敷きにしているとのこと。

      心は旅人の行き來の船を思ふ遊女のありさま、「いとあはれに、はかなきものかな」と見立てりし
            撰集抄 巻九第八話 江口遊女事



      ○日々の業因
      罪な日々を送るべく定められた前世の因縁のことで、謡曲『江口』の内容を踏まえているか。
   
      シテ     然るに我等たまたま受け難き人身を受けたりといへども
      地        罪業深き身と生まれ、殊にためし少き川竹の流れの女となる。さきの世乃報いまで、思ひやるこそ悲しけれ
            謡曲  江口

      ○行衛しらぬ旅路
      前途の道筋もよくわからぬ道中のことで、謡曲『江口』の次の一節をかすかにひびかせているとのこと。

      地    來世なほ來世。更に世々(せぜ)の終りを辨(わきも)ふる事なし
            謡曲  江口


      ○見えがくれにも
      「そばに遊女がついて行くのもご迷惑でしょうから、せめては見えたり隠れたりの、つかず離れずの形ででも」との意で、これも謡曲『江口』の次の一説によるものか。

      シテ    黄昏に、たゝずむ影はほのぼのと、見え隠れなる川隈に、江口の流れの君とや見えん恥かしや
            謡曲  江口


      ○神明の加護
      伊勢参宮に関係付けて、特に皇大神宮(内宮)の助けを云い、謡曲『斑女』の一節が投影されているものか。

      地    置處いづくならまし身のゆくへ
      地    心だに誠の道にかないなば。誠の道にかないなば。祈らずとても。神や守らん我等まで真如の月は雲らじを。
            謡曲  斑女



      ○結縁せさせ給へ
      仏法と縁を結ぶことで、謡曲『田村』の次の一節に基づくか。

      後シテ    あら有難の御經やな。清水寺の瀧つ波。一河の流を汲んで。他生の縁ある旅人に。言葉を交す夜声の読誦。是ぞ則ち大慈大悲の、
                   観音擁護の結縁たり。
            謡曲  田村


  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 12:29おくの細道、いなかの小道