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2013年07月17日

おくの細道、いなかの小道(19)—石の巻(1)

 

 石巻地方イラストマップ

 (旧暦6月10日)

 

 青年期の川端茅舍

 茅舍忌
 俳人川端茅舍の昭和16年(1941)の忌日。東京、日本橋生まれ。日本画家川端龍子の異母弟。岸田劉生に絵画を、高浜虚子に俳句を学ぶが、持病の脊椎カリエスのため画道を断念し句作に専心。絵画の観察眼と禅の精神性を土台とした「茅舎浄土」と称される求道精神に貫かれた荘厳な自然賛美による独特の斬新な句境を展開し、『ホトトギス』の代表作家として活躍した。
 句集「川端茅舎句集」「華厳」など。

 蚯蚓(みみず)鳴く六波羅蜜寺しんのやみ
 青蛙ぱつちり金の瞼かな
 畑大根皆肩出して月浴びぬ
 石枕してわれ蝉か泣き時雨



 一 十日 快晴。松島立(馬次ニテナシ。間廿丁計)。馬次、高城村(是ヨリ桃生郡。弐里半)小野(四里余)、石巻、仙台ヨリ十三里余。小野ト石ノ巻(牡鹿郡)ノ間、矢本新田ト云町ニテ咽乾、家毎ニ湯乞共不与。刀さしたる道行人、年五十七、八、此躰を憐テ、知人ノ方ヘ壱町程立帰、同道シテ湯を可与由ヲ頼。又、石ノ巻ニテ新田町、四兵ヘと尋、宿可借之由云テ去ル。名ヲ問、小野ノ近ク、ねこ村、コンノ源太左衛門殿、如教、四兵ヘヲ尋テ宿ス。着ノ後、小雨ス。頓テ止ム。日和山と云ヘ上ル。石ノ巻中不残見ゆル。奥ノ海(今ワタノハト云)・遠島・尾駮ノ牧山眼前也。真野萱原も少見ゆル。帰ニ住吉ノ社参詣。袖ノ渡リ、鳥居ノ前也。
 『曾良随行日記』



 芭蕉翁一行が松島を実際に発ったのは元禄二年(1689)陰暦五月十日のことで、十二日に平和泉に発ったとする本文の記述とは矛盾していますが、ここは紀行文の上の創作として、「十一日、瑞巌寺に詣。」「十二日、平和泉と心ざし、」と道中記風の形式を取ることによって、松島の段から平和泉の段へと移る紀行文の流れに軽い一変化を付与しようとしたものではなかろうかと推察されています。

 さて歌枕の「あねはの松」は、現在の宮城県栗原市金成梨崎字南沢にあった松で、仙台藩の儒学者で絵師でもあった佐久間洞巌(1653~1736)により享保四年(1719)に完成した全20巻に及ぶ仙台藩の地誌である『奥羽観蹟聞老志』によれば、

 姉歯松 (一ニ羽ニ作ル。歌枕、姉場ニ作ル。松葉集、姉葉ニ作ル。藻塩草、阿礼葉ニ作ル。今、夫木集ニ従フ。)澤辺ノ東ヲ去ルコト十二町餘、梨崎村ニ在リ。長松樹有ル、是ナリ。古松ハ乃チ四十餘年前枯槁ス。(其ノ葉五葉)後人継ギテ植ウル所ノ新松ナリ。古老相傳フ、是レ乃チ筑紫肥前ノ産、松浦佐用姫ナル者ノ姉某ガ墓上ノ松ナリ。或イハ曰ク、小野ノ小町ガ姉ナリト。往昔寺有リ、松語山龕藏寺ト號ス。是レ乃チ妹子、亡姉ガ爲ニ建ツル所ノ精舎ナリ。
(原、漢文)

 
とあります。
 「あねはの松」は、「武隈の松」(宮城県岩沼市)、「阿古耶の松」(山形市)、「末の松山」(宮城県多賀城市)とともに奥州の名松にあげられ、つぎのような歌が残されています。

 栗原のあねはの松の人ならば 都のつとにいざといはましを
                    伊勢物語 十四段

 栗原のあねはの松をさそひても 都はいつと知らぬ旅かな
                秀能 千五百番歌合 1386
 みちのくにあねはの松
 かくばかり年つもりぬる我よりも あねはの松はおいぬらんかし
                祐挙 夫木和歌抄 松

 ふるさとの人に語らん栗原や 姉場の松の鶯の声
                長明 夫木和歌抄 原


 

 緒絶橋

 また、「緒だえの橋」は、松島の北方約七里、現在の宮城県大崎市(旧古川市)三日町と七日町の間の緒絶川に架けられた橋と言い伝えられ、先述の佐久間洞巌(1653~1736)による『奥羽観蹟聞老志』には、

 織絶橋 古川ノ驛中ノ小板橋、是レナリ。其ノ水源ハ乃チ玉造河流、分レテ稲葉村ニ入ル。是レ古ヘ緒絶ノ橋ト称スルナリ。
(原、漢文)

 
とあります。

 歌枕「緒だえの橋」は、中古三十六歌仙の一人であった左京大夫藤原道雅(992〜1054)の歌が後拾遺和歌集に入集し、広く知られるところとなったようです。

 また同じ所にむすびつけさせ侍ける

 みちのくのをだえの橋やこれならん ふみみふまずみ心まどわす


          左京大夫藤原道雅 後拾遺和歌集 巻十三 恋三 751

 左京大夫藤原道雅は、長和五年(1016)九月、伊勢斎宮を退下して帰京した三条院(第六十七代三条天皇、在位1011〜1016)の第一皇女當子内親王(1001〜1022)と密通し、これを知った三条院の怒りに触れて寛仁元年(1017)勅勘を被ってしまいました。

 かゝる程に、前斎宮(當子内親王)上らせ給て、皇后宮(藤原娍子)のおはします宮は狭しとて、又知らせ給ふ處にぞおはしまさせ給ける。年來(としごろ)にいと大人びさせ給へる御有様も、いみじくをろかならずおぼし見奉らせ給へれど、ほかに暫(しばし)とておはしまさせ給ひける程に、帥殿(そちどの:儀同三司藤原伊周)の松君の三位中將(藤原道雅)、いかゝしけん、參り通ふといふ事世に聞えて、さゝめきさはけば、宮(皇后娍子)いみじくおぼし歎かせ給ふ程に、院(三条)にも聞(きこ)しめしてけり。

 ことごとならず、斎宮の御乳母(めのと)、やがてかの宮(皇后娍子)の内侍になさせ給へりし中將の乳母(めのと)のしわざなるべしとて、院(三条)いみじくむつからせ給て、やがて永くまかでさせ給つ。(後略) 

 『榮華物語』 巻第十二 たまのむらぎく 三十八 前斎宮帰京、道雅密通 
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Posted by 嘉穂のフーケモン at 14:32Comments(0)おくの細道、いなかの小道